「わたしたちはイエスの祈りの中心にいる」教皇一般謁見
教皇フランシスコは、6月2日、バチカンの聖ダマソの中庭で、水曜恒例の一般謁見を行われた。この謁見で、教皇は「キリスト教的祈り」をめぐるカテケージスとして、「イエスと弟子たちの間で不可欠で本質的な祈り」について考察された。(VATICANNEWSから)
「私はあなたがたを友と呼ぶ」(5)~どれほど互いに愛し合っていることか~
キリスト者が周囲の人に示す親しさは、いつも人々から称賛されてきました。時代が変わっても、新しい状況の中で親しさの生き方が生まれます。
「私はあなたたちを友と呼ぶ」 (3) ~相互の愛~
周囲の人々からの愛情を受け止めることは、自分の人生に神様の場所を作る一つの方法です。私たちの友情の一つひとつがキリストの与えて下さる友情を改めて思いめぐらす機会となります。
聖ヨセフの七つの「悲しみと喜び」
聖ヨセフの7つの日曜日は、3月19日の祝日に備えるための教会の習慣です。聖ヨセフの「悲しみと喜び」について黙想することは、私たちが聖ヨセフをよりよく知り、彼もまた喜びと困難に直面していたことを思い出すのに役立ちます。
「私はあなたがたを友と呼ぶ」 (2) ~この世を照らすために~
イエスは、この世を去る前に「新しい掟」を私たちにお与えになりました。「新しい掟」は、本物の友情が真の使徒職でもあることを私たちに教えています。
「私はあなたがたを友と呼ぶ」(1) ~神様には友がいるのか?~
神様はいつもご自分から私たちとの友情を求められます。ご自分との交わりに生きるよう私たちを招いて下さるのです。たとえ人間に弱さがあっても、人々が道の途上で埃を立てることがあっても、神様がお考えを変えることはありません。この無条件の愛に包まれるに任せるならば、私たちは光と強さに満たされ、周囲の人々の良い友となることを学ぶでしょう。キリスト者の生活についての新しいシリーズが始まります。
「主を知り、あなた自身を知ること」(1): キリストの心を「盗む」
「善良な泥棒」は「ただひとことで、キリストの心を盗み、天国の扉を自分のために開いた」。「祈り」を私たちは「キリストの心を盗むこと」と定義することができるかもしれません。そして「祈り」はいますぐ私たちがキリストのすぐ近くで生きることを可能にしてくれます。
新たなる〈地中海〉、内的生活のあり方を変える新たな発見
神は私たちの父であり、イエスは私たちの友人であり、聖霊は私たちの心に宿り、私たちには母としてのマリアがいます。これらの現実のそれぞれは、聖ホセマリアにとって「新しい地中海」であった。彼の発見は、今の私たちの内的な生活の風景を変えることもできる。
新たなる〈地中海〉 (V):「マリアを通ってイエスに」
聖ホセマリアは子供の頃から聖母に祈っていましたが、成長するとさらに多くのことを発見しました。天国のように近い母親の腕の中にいることに気がついたのでした。