「私はあなたがたを友と呼ぶ」(1) ~神様には友がいるのか?~

神様はいつもご自分から私たちとの友情を求められます。ご自分との交わりに生きるよう私たちを招いて下さるのです。たとえ人間に弱さがあっても、人々が道の途上で埃を立てることがあっても、神様がお考えを変えることはありません。この無条件の愛に包まれるに任せるならば、私たちは光と強さに満たされ、周囲の人々の良い友となることを学ぶでしょう。キリスト者の生活についての新しいシリーズが始まります。

携帯電話のメッセージで私たちが頻繁に受け取る質問と言えば、多分「どこにいるの?」でしょう。そして私たちも友達や家族に、遠くに離れていても連絡を取り合うために、或いはただ単に相手の様子を知りたくて「どこにいるの?」「何をしてる?」「大丈夫?」といったメッセージを送っていることでしょう。

神様も、こうした質問をエデンの園でアダムとエバに投げかけられました。

「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』(創世記3,8)。

創造主なる神は、この世の始まりの時からアダムとエバと共に歩むことを望まれたのです。少し大胆な言い方をすれば、神様は彼らとの友情を求められたのです。そして今も、神様は私たちとの友情を求めておられます。ご自分の創造の計画がすっかり成し遂げられていくよう見守るために。

より確かなものとなる前代未聞の事実

神様と友達になり得るというこの事実は、今の私たちにとって全く新しいことではないかもしれません。しかし、人類の思想史ではかなりの驚きをもたらしました。実際、ギリシャ哲学の全盛期、アリストテレスは、人間が神の友となる可能性などないと認めざるを得ませんでした。その理由は、両者の間に絶対的な不均衡、あまりにも大きな違いがあるということでした[①]。当時、人間は、せいぜい何らかの儀式で神々への崇敬を示すか、神性についての概念的な知識を得る程度のことしかできないと考えられていました。神様との友情関係など想像もできないことだったのです。

ところが、聖書の中では、私たちと神様との関係に何度も「友情」という言葉が使われています。出エジプト記33章11節はその明らかな例です。「主は人がその友に話すように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」。雅歌には神を求める霊魂と神様の関係が詩的に表現されており、霊魂はしばしば「私の友」と呼ばれています。また知恵の書7章27節に「(神は)代々にわたって聖なる魂に移りゆき、彼らを神の友とし、預言者とする」とも書かれています。驚くことは、これらのどれを取ってもイニシアチブを取られるのは神様であるということです。神様がご自身の被造物と結ばれた契約は、均衡のとれた、同等の立場の者同志によるものではなく、全く不釣り合いな約束でした。にもかかわらず私たちは、創造主とあたかも同じ仲間のように親しく対話ができるという呆然としてしまうほどの可能性をいただいたのです。

聖書は神が人間との友情関係を絶えず求めておられることを示す箇所であふれています。

神様の方から人間に友情を示そうとされるといったこの前代未聞の事実は、救いの歴史の経過とともに更に確かなものとなっていきます。旧約を通して人類に与えられた全ての啓示は、神の子のこの地上でのご生活によって決定的な照らしを受けます。「神は、私たちを被造物としてだけではなく、子どもとして愛して下さり、キリストにおいて真の友情を注いでくださいます」[②]。イエスの生涯の全ては、私たちに対する御父との友情への招きです。特に最後の晩餐において、この良き知らせ(神との友情)は格別な力強さと明白さを持って私たちに伝えられました。晩餐が催されたあの部屋では、イエスの一つひとつのしぐさが彼の心の内を表していました。イエスは心を開いて彼の弟子たちを、そして弟子たちと共に私たちをも神様との正真正銘の友情に導こうとされたのです。

塵から生命(いのち)

ヨハネの福音書は、2つの部分にはっきり分かれています。前半はキリストの説教と奇跡について、後半はご受難と死、ご復活について書かれています。そして、最後の晩餐のシーンの導入部、13章1節がこの2つの部分を結ぶ役割を果たしています。「さて、過越の祭りの前のことであった。イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たのを悟り、世にいる弟子たちを愛して、終わりまで愛し抜かれた」。そこにはペトロとヨハネ、トマスとフィリポ、そして他の8名の弟子たちが、当時の習慣のように、身を横たえていました。ヨハネの記述から、おそらくイエスはU字型のテーブルの上座に着かれ、ペトロはそのちょうど真向かいの、普通は僕が座る場所に、きっとイエスと対面する形で席に着いていました。その時イエスは、手ぬぐいを取って腰に身に付け、たらいを取り、友である弟子たちの足を洗われました。主がまだ幼い頃、聖母が度々そうやってお世話をされていたであろうように、主は立ち上がって、彼らの足の塵を拭われたのです。もちろんそれは上席にいる者の仕事ではなかったのにもかかわらず。

ところで、この「塵」のイメージは聖書の最初から出てきます。創世記2章7節に次のような(くだり)があります。「神である主は土の塵で人を形づくり、命の息をその鼻に吹き入れらた。そこで人は生きる者となった」。神さまは人を土の塵で作られた時、生命のない、他者と関わりを持つことができない存在のまま放っておかれませんでした。神様は命の息を吹き込まれて人を生きる者とされたのです。その瞬間から人は塵であり、かつ霊であることからくる緊張、根源的な限界の一方で無限なものへあこがれる緊張を経験するようになったのです。けれども神様は私たちの弱さよりも、私たちのどんな裏切りよりも強いお方です。

さて、最後の晩餐の高間で人間の「塵」が再び現れます。キリストが友の足の塵の前で身をかがめられるのです。彼らを御父との絆に立ち返らせるため、新たな創造のために。イエスは私たちの足もお洗いになります。「塵」にしか過ぎない私たちを神化し、ご自身が有する御父との親密な友情に私たちも与ることができるようにしてくださるのです。親しみの雰囲気が満ちた高間で、弟子たち全員が彼を見つめている中、主は言われます。「もう私はあなた方を僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなた方を友と呼ぶ。私は父から聞いたことすべてを、あなた方に知らせたからである」(ヨハネ15,15)。

神さまはすべてを分け合おうとされます。イエスは彼自身の命を、そして、愛し、赦し、最後まで友となることができる力を私たちに分け与えられるのです。

人の中には「塵」と「霊」が共存しています。神はそのことを承知で、私たちと出会いに来られるのです。

良い友達関係が自分を変えたという経験を誰でもしたことがあるでしょう。ひょっとするとそうした友情がなければ今の自分は居なかったかもしれません。神様と友だちになると、私たちの周囲の人たちとの友情の結び方も変化します。キリストのように皆の足を洗い、私たちを裏切る可能性のある人とも食卓を同じくし、私たちを理解しない人、私たちの友情を受け付けない人にさえ愛情を注ぐことができるでしょう。この世の中でのキリスト者の使命は、正に「自らを扇子のように開いて全ての人のもとへ行くこと」[③]です。そう、全ての人のもとにです。何故なら神様は今も私たちが作られた「塵」に息を吹きかけ、ご自分の光で私たちの友情を照らし続けておられるからです。

神さまとの交わりへと導かれるままに

これまで、主が私たちに注がれる友情が神様の私たちに対する無条件の、決して終わることのない信頼の印であることを見てきました。20世紀が経ち、キリストは私たちの日々の生活の中で、御父について知っていることを全て私たちに伝え続けて下さっています。私たちを今も神様との友情に導くために。但し、そのためには私たちの個人的な応えが必要です。「神のみ旨に私たちの意志を一致させることで、つまり主がお望みの事を実行することによってこの友情に応えましょう」[④]

本当の友達なら心の交流があります。互いの心の深奥で、同じことを好み、互いの幸せを望む。互いの事を理解し合うために、時には言葉を使うことすら要らないのです。同じことで笑うということは互いの親しさを最もよく示す印だとさえ言われています。神様との交わりも同じです。神様と友情を結ぶとは骨の折れる努力をして必要条件を満たそうとすることではありまえん。そんなことは友達の間ではそぐわない態度です。神様と友情を結ぶとは、時間を共有し、互いのそばにいることなのです。

その良い模範は福音史家聖ヨハネの態度でしょう。彼はイエスが近づき、彼の足を洗われるに任せ、食事中は安心しきって頭をイエスの胸にもたれかけ、そして最後には、(おそらく何が起こったのか完全に理解はしていなかったでしょうが)最良の友から離れようとはせず、すさまじい苦しみの中で、友の傍に留まったのです。主から愛された弟子は、イエスが自分を変えていくままに委ねたので、神様は彼の心から少しずつ「塵」を取り除いていかれたのです。「こうした意志の交流によって私たちの贖いは実現するのです。イエスの友になりましょう。イエスの友となるよう自分を変えましょう。イエスを愛すれば愛するほど、彼の事を知れば知るほど、私たちはより本当の自由を得て、贖われた喜びに満たされるのです」[⑤]

2人の友人の交わりとは、共に過ごし、支え合い、自分を委ねて相手によって自分を変えようとする相互の望みとなって表れるものです。

イエスは最後の晩餐で友情の秘訣は彼の下に留まることであると示されました。「ぶどうの枝が木につながっていなければ、枝だけでも実を結ぶことはできない。それと同じように、あなた方も私のうちに留まっていなければ、実を結ぶことはできない」(ヨハネ15,4)。「いかに愛しても決して充分とは言えない」と聖ホセマリアは書いておられます。「主を愛するならば、あなたは全ての人をそれぞれにふさわしく愛することができるだろう」[⑥]

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「どこにいるのか」、神様は、ご自分の手によって創造された素晴らしい世界を歩かれながら、このように人間に言葉を掛けられました。そして今も私たちと会話を始めることを望まれています。神様は私たちと共にいたいと思われ、私たちとの友情を強く望まれています。それも、腕を広げて私たちを受け入れようと、

十字架に釘づけられるまでの愛をもって。こんなことは誰も、たとえどんなに優れた思想家でさえ想像も及ばないことでしょう。この狂気のような愛の交わりに入るならば、私たちも周囲の全ての人に対して無条件で自分自身を明け渡していく力をいただいくことでしょう。互いに質問をしましょう。「どこにいるの?うまく行ってる?」こうした友情があれば、神の創造物であるこの世界の美しさを取り戻していくことができるでしょう。


[①] アリストテレス、『ニコマコス倫理学』、1159a, 4-5参照。

[②] フェルナンド・オカリス、司牧書簡、2019年11月1日、2番。

[③] 聖ホセマリア『拓』193番参照。

[④] フェルナンド・オカリス、司牧書簡、2019年11月1日、2番。

[⑤] ヨセフ・ラッツィンガー、教皇選出ミサ説教、2005年4月18日。

[⑥] 聖ホセマリア、『十字架の道行』、第8留、黙想のしおり、5番。

Photo: Alex Bertha, on Unsplash