私たちの聖化の蝶番
創立者が仕事のことを「私たちの聖化の蝶番(ちょうつがい)」と言ったことを思い出します。すべてはその周りを回転するからです。そして仕事と共に、ご聖体(それはキリスト者の生活の中心であり根源です)と、神との親子関係は、私たちの霊性のすべてを要約する要素です。仕事は聖化され得る、そして聖化をもたらす現実です。自然のレベルにおいて、仕事は価値のある現実、そしてすべての人を包括する現実です(それは望もうが望むまいが人は働くからです。仕事をしないよう努める人や沢山休みたい人でさえ、結局働きます)。それに加え神の恵みによって、仕事は(特に私たちにとって)もっと大きな意味を持ちます。
知識の香において創立者は言います:「キリストが仕事に従事されたときから、私たちにとって、仕事は贖われたものであると同時に、救いをもたらすものとなったのです。仕事は単に人が生活を営む場であるだけでなく、聖化の手段であり、道であり、聖化され得ると共に聖化をもたらす現実なのです」(『知識の香』47番)。私たちはこの言葉をよく知っており、また黙想し使徒職的活動において説明したことでしょう。そしてこの言葉は(神との対話を構成するすべての事柄と同様に)、私たちがそれをますます深く理解し、そして何よりも、私たちがそれをさらに良く生きるためのものです。
この聖ホセマリアの言葉のいくつかの側面に焦点を当てましょう。1つ目の側面(それは明白で主要な側面です)は、人は仕事をしている間に聖化できるというだけでなく、仕事自体が聖化できるということです。一見この区別は重要でないように見えますが、実のところ重要です。仕事の聖化とは、仕事という人間的現実に何かを付け加えるということではないということです。例えば、この作業をする間、沢山の射祷を唱えるといった形です。射祷を唱えるのは良いことですが、そういうことではありません。仕事の聖化とは、私の仕事の実践において私自身を聖化するということです。つまり、働くという行為自体が私を聖化するということです。
厳密に言えば、仕事の結果は聖なるものではありません。机はどんなに良く作られていても、机自体としては聖なるものではありません。しかし机を作るという行為は聖なるものになり得ます。類似的な意味で、仕事の結果は聖化されたということができます。それは付加価値が与えられたという意味においてです。しかし、根本的に、神の恵みによって聖化することができるのは、働くという人間の行為です。行為が聖化されることによって、行為を実現する人自身が聖化されます。ですから「仕事の聖化という行為」と「仕事において自身を聖化する」ということは繋がっています。
3つ目の側面は、他者を仕事によって聖化するという側面です。それは、聖化された現実が、聖徒の交わりを通して、全世界に影響を与えることができるいう意味においてです。またそれを使徒職的意向のために捧げることができるという意味においてです。つまりそれは他者を聖化するための道具になるということです。
ですから、仕事の聖化とは、働くという行為を聖化するということです。そしてそれは人の行為です。それゆえ行為が聖化されれば、人自身も聖化されます。そしてこのことにより、聖徒の交わりを通して、他者を聖化することが可能です。単に仕事を捧げることによって、すでに他者の聖化に影響を与えています。
これらの3つの側面の中で、どの側面が根本にあるでしょうか?もちろん、それは働くという行為を聖化することです。なぜなら、私が行為を聖化するとき、私は自分自身を聖化するからです。これが他の2つの側面の根本にあります:私が働くという行為を聖化すればするほど、私は自分自身を聖化し、他者を聖化することができます。
超自然の意向を加えなさい
このように根本にあるのは、働くという行為自体を聖化するということです。しかし、どのように行為を聖化するのでしょうか?それは愛によってです。愛徳によって主と一致しながら行うときです。そしてそれは創立者が『道』おいて言っていた次の言葉を実行することによって実現されます:「あなたの通常の職務に、超自然の意向を加えなさい。そうすれば、仕事を聖化したことになるだろう」(『道』359番)。
この言葉を表面的に理解するなら、それは何か外的・付帯的(extrinsic)なことのように思えます。「意向を加えて、はい完了」と。職務と意向はあたかも2つの異なるものかのようです。例えば「私は『中国のため』という意向を加えて、後はもうどう働こうが、もう仕事は聖化した」と。しかし、そういうものではありません。意向は、何か外側から取り付けたものではなく、内在的(intrinsic)なものです。それでは、仕事が聖化されるために必要な超自然的意向・動機とは何でしょうか?それは神への愛によって、そして他者への愛によって行うことです。
(…)
超自然的動機を本当に目的とするならば(つまりこの仕事において、私が究極目的として神を愛すること、隣人を愛し、隣人に仕えることを探すならば)、私は必然的に良い仕事をし、自己を聖化し、その職務を聖化します。その成果は、私の限界の範囲内において、可能な限り最高のものとなります。もし、神を愛すること、他者に仕えることを目的とするなら、必然的に最も良い仕事をするよう努めます。そして、その結果として、仕事の成果は(…)最良のものになります。それゆえ、創立者が言うように全てが動機に、神を愛し、他者に仕えるという動機にかかっています。
これはとても大切なことです。なぜならこのことは「私はなぜ、そして何のために働くのか?」という決定的な問いかけに答えるからです。仕事の聖化はオプス・デイの精神の中心、蝶番(ちょうつがい)です。ですから時々「なぜ私は働いているのか」と問う必要があります。それはできるだけ早く仕事を片付けて楽になるためでしょうか。それは周囲に評価されるためでしょうか。それは自己満足のためでしょうか。私たちは弱い人間なので、様々な動機が混ざり合っている可能性があります。しかし、根本に戻らなくてはなりません。それは神と一致するため、神に仕え、他者を愛するために物事を行うということです。
意向の正しさはとても重要です。なぜならそれが全てにおいて私たちを導くからです。意向が私たちの行為に価値を与えたり、行為の価値を減らしたりするからです。意向の正しさによって仕事が聖化されます。仕事が外的にうまく行かなかった場合においてでさえ、そのように言うことができます。神への愛と奉仕という強い超自然的な動機を持って働いても、結果が伴わないことがあります。それは例えば、自分が不器用だったからとか、様々な理由がありえるでしょう。とはいえ自分自身を偽り「全ては神の愛のため」と言いながら、実のところ「まぁいいや」と思い、努力をしないこともありえます。本当に超自然の動機を持つなら、力を尽くすのが普通です。もしそうでない場合は、意向を改めることができます。がっかりすることなく、努力しなかったことを認め、戦いに戻ります。神のおかげで、私たちは結果が出なかった仕事も聖化することができます。なぜなら超自然的動機があれば聖化が実現されるからです。超自然的動機、これが全てです。
創立者はある手紙の中で次のように言います:「人間的にも良く出来た仕事を行うこと、職業的・社会的義務をよく果たすこと、これらは神が私たちに任せられた『日常の仕事の聖化』の本質的な部分です」(手紙〈1954年5月31日〉、18番)。聖ホセマリアは仕事の出来に着目します。なぜならそれは意向と不可分の関係にあるからです。もし職務の聖化が超自然的動機にかかっているなら、ある仕事を目的として真剣に取り組むとき、それは必然的に良い仕事をすることに繋がります。それゆえ創立者は、人間的に良く出来た仕事を行うことは本質的な部分であると言うのです。
あらゆる誠実な仕事
ここまでの考察は、慰めを与える一つの結論を導きます。それは、あらゆる誠実な仕事は重要であるということです。なぜならそれらは、神への愛と他者への奉仕という超自然的動機によって行うことができるからです。すべての仕事は(それが大きかろうが小さかろうが、人間的に重要であろうが、そうでなかろうが)、キリストとの一致の材料、一致への道になります。創立者のパドレは言いました。「私は、肉体労働者の仕事と共和国の大統領の仕事、どちらがより重要かを知りません。それは仕事に伴う神の愛次第です」(聖ホセマリア、説教メモ、1967年2月6日)。仕事によって生じる結果や影響という観点から見ると、二つの仕事は異なります。しかし「永遠の命において永続するもの」「本人にとっての意味」という観点から見ると、労働者の仕事の方が共和国の大統領の仕事よりもずっと多くの価値があるということがあり得ます。
創立者は、仕事の聖化を実現する超自然的動機は愛であるとよく繰り返していました。「仕事の尊厳は愛に基づいていることを忘れずにおきたいものです。愛する能力は人間の特権であって、この能力のおかげで、私たちは儚いもの、過ぎ去るものを超越することができます。人間は自分以外の人々を愛し、あなたとか私とか、互いに呼び合うことができるのです。そして神を愛することができます。神は天の門を開き、私たちをその家族の一員とし、顔と顔とを合わせて親しく語り合うところにまで高めてくださるのです」(『知識の香』48番)。聖ホセマリアが終いに天について語るこの言葉を耳にした私たちは、仕事の尊厳は愛に基づいていることを忘れないようにすべきです。神と他の人々への愛に動かされ、神と他の人々への愛によって形作られるとき、仕事は聖化されます。
このコンテクストにおいて、私たちは一人で働いているのではないということを考えることも魅力的で喜ばしいことです。主が私たちとともにおられます。愛は一致へと導きます。愛は私たちを神と一致させます。その神は、恵みによって、すでに私たちの命のうちに入り込んでおられます。ですから、私たちが神に仕事を捧げるだけではなく、神が私たちとともに働いておられます。私たちが働いている間、私たちは神の道具となっています。私たちが仕事を聖化すればするほど、それは神の仕事になります。それゆえ、創立者はオプス・デイは、オペラチオ・デイ(operatio Dei、神の仕事、神の働き)であると、好んで言っていました。私たちが〈すること〉はすべて神の仕事です。なぜなら神も私たちとともに〈してくれる〉からです。私たちは神の御手のうちにある道具です。
このことは、物事がうまく行かなかった時や仕事を捧げることを忘れてしまった時に、私たちに大きな安心感を与えてくれるはずです。なぜなら私たちはこの素晴らしい教えを知っているからです。その教えを十全に生きることができないことがあるかもしれません。しかし大丈夫です。がっかりせずに戦わなければなりません。Nunc coepi!、今、始めます。そして決して一人ではありません。私の仕事は神の仕事です。
奉仕とチームワーク
人間の仕事の全体は奉仕であることを考えると、この教えの別の重要な側面に光が当たります。私たちの仕事と他の人の仕事との間の依存関係を思い出すべきです。なぜなら、常にと言わないまでも頻繁に、明確またはそれほど明確でない形で、私たちの仕事は他の人の仕事に依存しているからです。そして同様に他の人の仕事も私たちの仕事に依存しています。私たちの仕事は鎖のように連結しています。
それゆえ、他の人の仕事が私たちの仕事に依存しているとき、他者の仕事を容易にすることは重要です。多くの場合そのように言えます。チームで仕事をする場合、それは明白ですが、家庭における自己の役割など、日常生活においてもそのように言えます。例えば、家庭における自己の役割を予定どおりに行うことは、他の人が彼らの役割を予定どおり行えるかどうかに影響を与えます。このように人と人は鎖のように連結しており、それを無視することはできません。「私は自分の仕事に集中し、他の人の仕事はどうでもいい」と考えるわけにはいきません。
良い仕事の一つの要素は、自分の仕事が他者の仕事にどのような影響を与えるかを考えることです。ですから、他者の仕事を容易にする、または少なくとも、仕事を遅らせたり、出来の悪い仕事によって、他者に迷惑をかけないようにするということです。仕事を聖化するためには、周囲にいる人々の仕事をどのように容易にすることができるかを考えなくてはなりません。
もう一つの側面は、仕事の部分を構成する人間関係の聖化です。仕事を容易にすることは重要ですが、同じく、気持ちよく仕事ができるようにすること、奉仕の精神を大切にすること、他の人の仕事が終わらないとき、彼らに申し訳ない思いをさせない形で、その仕事を代わりにやってあげることも重要です。創立者のパドレは次の点を強調しました。ある人が仕事を終わらせられないとき、可能な限り、本人に気づかないように、その人の仕事を助けます。仕事における兄弟愛は聖化の一部です。なぜならすべての人の生活は繋がっているからです。
私たちにとって、仕事は生活の一致のための蝶番(ちょうつがい)であり不可欠な要素です。『オプス・デイの超自然的精神に関する指針』において、創立者のパドレが仕事について、生活の一致というコンテクストの中で、話している箇所を引用したいと思います。「仕事を内的戦いと観想に一致させること(これは不可能に見えますが、世界の神との和解に貢献するために必要不可欠です)。そして、その普通の仕事を聖化と使徒職の手段にすること。このような高貴で偉大な理想のために命を捧げることは価値があることではないでしょうか?」(指針、1934年3月19日、 33番)。ここから生活の一致というコンセプトが生まれます。それは仕事を内的戦いと観想に一致させるということです。そしてそれは世界の神との和解に貢献するために必要不可欠です。そしてその普通の仕事を聖化と使徒職の手段にします。