「聖体の年」にあたっての司牧書簡

オプス・デイ属人区 属人区長 ハビエル・エチェバリーア 2004年10月6日

「聖体祭儀の中に教会の霊的富のすべて、すなわち、我々の過ぎ越しであり生きたパンであるキリスト自身が含まれている。キリストは、自分の肉、聖霊によって生き、また生かす肉によって、人々に生命を与える。」1 人間に対する神の愛は、このように神秘的で筆舌に尽くしがたい形で現れ、キリスト者の心の中で、そして具体的にオプス・デイにおける神の子らの心の中で、特別な場を占めています。愛する創立者が自らの模範と説教、文書を通して、そう教えました。聖体は「カトリック者の霊的生活の中心であり根源」2であると。

それゆえ教皇様が、「キリストの聖体」の祭日に、全教会で「聖体の年」を祝うことを公表されたとき、心から嬉しく思いました。ご存じのように、聖体の年は、10月にメキシコのグアダラハラで行われる国際聖体大会で幕を開き、2005年10月に開催されるこの驚くべき秘跡に関するシノドス(世界代表司教会議)で幕を閉じます。

2000年の大聖年の理念を継続し、使徒的書簡『新千年期の初めに』の精神に従って、属人区の信者と協力者そしてオプス・デイの暖かい精神に育まれている人たちに、お願いします。日々、教皇様に従い、全力を傾けて、聖なるエウカリスチアがますます私たちの生活の中心になるよう努力してください。また、この聖体の年を、ロザリオの祈りを唱えて聖母に付き添っていただき、聖ホセマリアの模範に倣ってすすんで聖櫃を訪れ、聖なるホスチアとなったイエスに心を込めて Adoro te devote! (謹んで御身を礼拝します)と申し上げましょう。この目標をしっかり定めて行いに表わしましょう。聖体に対する信心が深ければ深いほど、私たちの生活は価値あるものとなるからです。

Adoro te devote, latens deitas, quae sub his figuris vere latitas.

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、謹んで御身を礼拝いたします。

神は限りなくこの世を愛された

キリスト自身である聖体を個人的に恭しく礼拝することから始めることにしましょう。と言うのも、この秘跡には「真に、現実に、そして実体的に、我々の主イエス・キリストの体と血がその霊魂と神性と共に、すなわちキリスト全部が含まれている」3からです。イエスは現存されますが、私たちには見えません。パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられます4。「主はパンのうちに隠れておられる。あなたを愛するあまり…。」5

被造物に対する愛ゆえに、聖体のベールのもと、この世に私たちと共に留まってくださいました。「私は幼いときから、なぜ聖体の秘跡を制定なさったのか、その理由が完全に理解できました。それはすべての人の思いです。誰しも愛する人といつも一緒に居たいと思うものだからです。」6 人の子らと共にいることを喜びとし(箴言8,31参照)、私たちを孤児にすることを望まず(ヨハネ14,18参照)、世の終わりまで私たちと共に留まる決心をなさったキリスト(マタイ28,20参照)、そのキリストの愛の神秘を考察した私たちのパドレは、別離を余儀なくされる人たちの姿を通して、この秘跡の制定の理由を説明しました。「いつも一緒にいたいと望んでいるのに別れねばならない、別れずに一緒にいたいけれどもその望みは叶えられない。」そんな時、「思い出になるもの、たとえば写真などを交換します。」しかし、「いくら愛が強いと言っても、人間にはそれ以上のことはできません。」神であり人であるイエスは、私たちを愛するあまり、この限界を遙かに超えます。「私たちにできないことも、主はおできになります。」主は「しるしではなく、現実を残してくださいました。キリストご自身がお残りになったのです。」7 ベトレヘムでマリアから生まれ、ナザレで働き、ガリラヤやユダの地を巡り、ゴルゴタで十字架に付けられて死去され、三日目に栄光のうちによみがえり、度々弟子たちにお現れになった主がお残りになったのです8。

カトリックの信仰はいつもこの同一性、すなわち聖体の主と託身から復活までの主とが同じ方であることを宣言してきました。それは、最初の弟子たちのようには主を見ることのできないことを口実に、キリスト者としての精神の貧しさを弁解する人たちと、実際に主と接することができれば、別の振舞い方ができたのにという人たちの言い分を拒むためでもあります。「今、多くの人が言います。『主の体つきや姿、その衣類や履物を見たいものだ。』しかしあなたは、ほら、そこに主を見、主に触れ、主をいただいている。あなたは主の着物を見たがっている。ところで、主はご自身をお与えになる。単に見るためだけではなく、主に触れ、主をいただき、あなたの中に主をお迎えするために。だから、誰一人として、不信感を抱いたまま、生温い心で、主に近づいてはならない。だれもが熱く燃え、熱烈な愛と自らを見張る心で近づかなければならない。」9

近くにおられる神

聖ホセマリアは、イエス・キリストが聖体のうちに実際に現存することを、全面的に受け入れ信じるよう教えてくださいました。それは、主が確かに私たちの生活にお入りになり、私たちも主の内に入り込むため、また、現実の人を見るかのように、信仰の目で主を眺め観想するためです。主は私たちをご覧になり、私たちに耳を傾け、私たちを待っておられます。私たちに語りかけ、近づき、探し求め、ミサ聖祭において私たちのために自らをお捧げになるのです。10

創立者はこう説明されました。人間は主が「遠い星空のかなたにおられ」、被造物のことを心にかけておられないかのように考えがちで、「常にそばにいてくださること」11を信じようとしません。創造主とは、人間と全く異なる御方で、人間生活を織り成す大小様々な出来事などには関心がないと考えている人と出合ったことがあるでしょう。しかしながら、私たちはそうではないことを知っています。「主は高くいましても、些細なことがらを見ておられます。」(詩編138,6ヴルガタ訳)愛情深く一人ひとりをごらんになり、私たちに関するすべての事柄に関心をお持ちなのです。

「私たちの信じる神は、努力や戦いや苦しみなど、人間の境遇に関心を持たずに遠く離れたところにいる方ではありません。神は御父であって、その子供たちに深い愛を示し、その愛ゆえに聖三位一体の第二のペルソナである『みことば』までも遣わしてくださいました。人となった『みことば』は、私たちを救うために死去なさったのです。そして今、いつくしみ深い御父が、私たちの心の中にお住まいになる聖霊の働きを通して、私たちを御自分の方へ優しく引き寄せてくださいます。」12 私たち一人ひとりを限りなく愛し、限りない関心を示す神は、御子が託身し、兄弟である人間と同じように働き苦しむようになさっただけでなく、聖なるホスチアに残るようにもしてくださいました。主はまさにエンマヌエル、私たちと共においでになる神です。「創造主は被造物にあふれんばかりの愛情を注いでくださいました。主イエス・キリストは、その慈しみの証拠である他のすべての行いも充分ではないかのように、聖体を制定してくださいました。それは、私たちが主の傍らにいることができるようにするためであり、私たちが理解できる範囲で言うならば、愛に駆られた主が、何も必要としない方であるのに、私たちを無視することをお望みにならなかったからです。」13

礼拝の行為

この信仰と愛の神秘を前にして、私たちは伏して礼拝するほかありません。礼拝は、どうしても必要です。礼拝によってしか、聖体が、御体と御血、霊魂と神性ともども、真に、現実的に、実体的に現存なさるキリストであるという信仰を適切に表明できないからです。この礼拝の姿勢はまた、私たちの熱烈で全面的な愛が、私たち一人ひとりに対するイエスの計り知れない愛に相応しく応えるためにも必要です。(ヨハネ13,1; ルカ22,15参照)。聖体のキリストは神ですから、その礼拝は外的な行為であると同時に、内的信心、つまり互いに愛し合うことに現れなければなりません。型どおりに典礼を守るだけではなく、内的な奉献を外に表すものなのです。「ミサ聖祭において、神を礼拝し、創造主に対する被造物の第一の義務を愛の心で果たします。『あなたの神、主を礼拝し、ただ主だけに仕えなさい』(第二法の書6,13; マタイ4,10)。召し使いのような冷たい儀礼的な礼拝ではなく、親密な敬いと愛情、つまり子としての真心がこもった愛の表明です。」14

頭を下げる、お辞儀をする、ひざまずく、ひれ伏すなどの礼拝の動作は、常に尊敬と愛情、従順、自己放棄、一致への望み、奉仕であって、決して卑屈な態度ではありません。真の礼拝なら、親密さを欠いたよそよそしい態度ではなく、一致を望む愛から生まれる態度のはずです。「神の子であるなら、子が父に対するように神に近づきます。主に対しては、奴隷のような接し方や形式的儀礼的な敬いではなく、誠実で信頼心にあふれた態度を取らねばならない」15からです。

聖ホセマリアは、いかに小さな点でも、信心の作法をとても大事にしておられました。これら些細な事柄には深い意味があります。内的な細やかさや信仰と愛徳の質を表わしているのです。「今は誰でも神とお付き合いに関してせかせかしすぎます。(…)急がないでください。信心深くひざまずく代わりに、体をひねるような格好などしないでください。そんなのはあざけりです。(…)このように信心を込めて、ゆっくり、そしてしっかりと膝をついてください。そして、聖体のイエス・キリストを礼拝すると同時に、心の中でこう申し上げるのです。Adore te devote, latens deitas 隠れておいでになる神よ、御身を礼拝します。」16

創立者はすべての聖体信心に浸透すべきこの愛の心を非常に重要視しておられました。聖体のイエスを礼拝する行いは、私たちに対する神の愛を観想することから、その神の愛を礼拝の心で宣言することに移ってゆきます。しかし、この礼拝は、いかに言葉が大切であるとはいえ言葉だけに終わってはならず、特に外的な行いと内的な奉献に表わされなければなりません。「一人ひとり、心の中で主に次のように申し上げたいものです。『どのようなことがあっても御身から離れまいと思っております。御身は、パンとぶどう酒のもろい外観のもとに、無防備な状態で私どもの間に残ってくださいましたから、私たちは自ら進んで御身のしもべになります。』」17 聖トマス・アクィナスは、ダマスコの聖ヨハネの教えを受け入れて説明しています。本物の礼拝において、体の外面的なへりくだりは、霊魂の内的信心、つまり神に従い神に仕える熱望を表し、そして促す18、と。

御身をお愛しします、御身を礼拝しますと、ためらわずに申し上げましょう。進んでそうすべきです。しかし、主のお望みに自らを縛りつけ、そして従うという行いによって、その言葉に値打ちを与えなければなりません。「主である神は、毎朝、皆さんが主をお迎えするとき、次のように繰り返すことをお望みです。主よ、御身であることを信じます。秘跡の外観のもとに隠れて実際におられることを信じます。御身を礼拝し、御身を愛します。聖体訪問の時に、また改めて繰り返しなさい。主よ、聖櫃に現存なさることを信じます。御身を礼拝し、御身をお愛しします。こうすることが主に愛情を持つことなのです。こうして日毎に主への愛が深まっていきます。一日中、次のように考え、実行して、主を愛し続けてください。聖櫃から私たちを導いておられるイエス・キリストに愛を示すために、物事を最後までやり遂げますと。」19

Tibi se cor meum totum subiicit, quia, te contemplans, totum deficit.

御身を見つめながらも全く見通す力のないわたしは、心のすべてを委ねます。

愛の神秘を前に驚嘆する

聖体におけるイエス・キリストの献身を前に、聖ホセマリアは度々、「主はあなたのために留まられた。あなたを愛するあまり、これほどまでへりくだってくださった」20と言っておられました。こんなに深い神の愛を考えると、信者の心は電撃でも受けたかのように驚嘆し、主にすべてをお捧げしてその愛に応えたいと望みます。「この愛の神秘ほど驚嘆すべきものはないと思われます。」21 このような感性、このような知性と意志の心構えを育てましょう。父親の贈り物に感嘆する子供のように純朴な心を持ち続け、慣れに陥らないためです。また、心から感謝することも忘れないようにしましょう。「イエス様、ありがとうございます。哀れな私たちのすべての必要を満たしてくださるため、このように深くへりくだられたことを心から感謝いたします。」22 こうして当然ながら、父なる神を賛美するために歌い始めます。主は御自分の御独り子の身体と血でこの世の子らを育もうとお望みになりました。常に主を誉めたたえましょう。いくらたたえても、充分とは言えないのですから23。

イエスが聖体にお留まりになったのは、私たちの弱さや疑問、恐れや苦しみをいやすためです。また、私たちを孤独や困惑や失望から救い、私たちと共に歩み、私たちの戦いの盾となるためです。そして何よりも、私たちに愛することを教え、愛であられる主に引き寄せるためなのです。「祭壇上の聖体顕示台に安置された聖なるホスチアを眺めるとき、キリストの深い愛と優しさを考えなさい。あなたたちに対して抱く私の愛を考えると、私にはキリストの聖心がよく分かる。遠くで働きながら、あなたたち一人ひとりの傍らにいることができるなら、大喜びでそうすることだろう。

ところで、キリストならそれがおできになる。そして、世界中のすべての心が抱くことのできる愛を遙かに越える深い愛で私たちを愛する神が残ってくださったのである。私たちがいつもキリストの聖なる人性に一致していることができるよう、また忠実になれるよう助け、慰め、力づけるためである。」24

「私の思いは、あなたたちの思いと異なり、私の道はあなたたちの道と異なる、と主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道はあなたたちの道を、私の思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ55,8-9)聖体は人間がいくら考えても充分に理解できません。それは単にキリストが秘跡の形態のもとに現存なさることが、私たちの知性で全面的に理解することはできない神秘であるだけでなく、聖体というキリストの贈り物、つまり自らを与える行いが、ちっぽけな人間の心には、たとえすべての人間の心を合わせても、絶対に納めきれないからです。この神の寛大さは、私たちの知力で理解できないことのように思われます。度々私たちを脅かす大小様々な利己主義とは全く異なるからです。

「後にも先にもこれ以上の馬鹿はあるまいとも言うべき前代未聞の馬鹿は<彼>である。誰のために身を献げたかを考えてみれば、<彼>の狂気のような献身にまさる献身があり得るとは考えられない。

なぜこう言うのか。いたいけない幼子になってくださったこと自体が狂気の沙汰だから。しかし、それだけなら、大勢の悪人も敢えて手荒く扱わずに心を和らげたことだろう。まだ足りないと考えられた御方はさらにへりくだって自らを捧げ、食物となられた。パンになってくださったのである。

神的な狂気としか言いようがない。『人々は御身をどのように扱っているのでしょうか。』『私自身は、どうでしょうか。』」25

秘跡の内に現存するイエスに近づくためには、心を大きくしなければなりません。確かに信仰が必要です。しかし、聖体の人になるには、それだけでなく、皆のためそして一人ひとりのために御自分をお捧げになるキリストを、人間のわずかな可能性の範囲内ではあっても真似て、「愛し」、「人々に自らを捧げる」ことができなければなりません。聖ホセマリアは自分の経験をもとに、こう打ち明けました。「ひんぱんに主を訪問するか否かは、二つの要素にかかっている。すなわち信仰と心、言い換えれば、真理を見、そして真理を愛するか否かの問題である。」26

聖ホセマリアの<び>で

創立者は非常に若いときから、聖体にお留まりになるキリストの愛を心の底から味わわれていました。それは、「切り分けることができる」くらいの大きな信仰があり、愛することを知っていたからです。「愛する人として自らを模範」として示すことができました。だから、秘跡を通して、ご自分を私たちにお与えになった主の「愛の狂気」に「心奪われ」、私たち一人ひとりのために極みまで自らを無とし、そしてへりくだる主のことを理解したのです。また同じ理由で、群集の中の名もない一人のような態度にならずに、キリストの愛に応えることができたのです。聖ホセマリアは、聖体において、自分のため、すべての人のために身を捧げるキリストが直接個人的に要求なさっていると考えていたので、ミサ聖祭について述べるとき、「イエス、<私たちの>ミサ…」27と書くことさえできたのです。

愛すべき創立者のこの道行きを日々歩み始めましょう。度々、聖ホセマリアがされたように使徒の言葉を借りて主にお願いしましょう。「信仰を増してください」adauge nobis fidem! そして、常に人々に仕えることができるよう「マリアノ−創立者−の学び舎」で学ぶことにしましょう。まず、犠牲に裏打ちされて活き活きとした愛のうちに、身近な人を見守り、手を差し伸べることです。こうして私たちも、聖体に留まる神の愛の神秘に入り込み、キリストのいけにえに深く一致することができます。同時に、聖体の主を愛するなら、人々に仕えるよう促されるはずです。しかも、人に気づかれることも、気付かせることもしないで、主のように隠れて過ごします。「イエス・キリストが地上に来られ、そして聖体において人々の間に留まられたのは、愛のため、愛することを教えるためだったのです。」28

私たちは oblatus est quia ipse voluit(イザヤ53,7ヴルガタ訳)「自ら望んでご自分を渡された」イエスに倣って振る舞わなければなりません。いつも、愛する人に自らを与えて献身し、期待され要求されることを果たそうと固く決意するのです。それには、心を清く保つ必要があります。常軌を逸した自我が生み出す自堕落を捨て、清い愛にあふれていなければならないのです。「愛の外的表現は、心から生まれなければなりません。また、それは信者らしい振る舞いとなって継続されなければなりません。(…) 私たちの言葉は、人を慰め、人を助ける言葉であるべきですが、特に、神の光を人々に伝えることができるよう、真実、明白、適切であるべきです。」29

本当に「聖体の人」であるならば、大切なこととはいえ一連の典礼儀式を忠実に守るだけではなくて、極めて寛大に自らの命を私たちに与え、また与え続けておられるお方への愛ゆえに、私たちの心と命を余すところなく捧げるはずです。イエス・キリストを愛し、迎え入れ、そして仕えるために、無条件の寛大さと謙遜を聖母に教わりましょう。愛する創立者が勧めておられたように、聖母が「胎内にキリストを受け入れるため、原罪なしに宿られた」ことを度々黙想しましょう。そして、この勧めに続く質問に答えてみましょう。「感謝が、賜物と功徳の間の違いに比例したものであるべきなら、私たちの一日全体を、絶え間ないエウカリスチア、つまり捧げものにすべきではないのでしょうか」30

Visus, tactus, gustus in te fallitur, sed auditu solo tuto creditur.

今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、御身を認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。

信仰の光で

聖なる秘跡を前にして五感が何の役にも立たないことは歴然としています。知性が事物を認識するときにたどる通常の道・感覚的な経験も、ここでは充分ではありません。聖体に関するかぎり、役立たずの感覚を補うのは聴覚だけです。神の言葉は精神の理解能力を越える事柄を明かしますが、信仰によってそれを受け入れて初めて、目にはそうとしか見えなくても、実体はパンではなく、キリストの体であり、またぶどう酒はではなく、贖い主の血であることを知るに至るのです。

知性も失敗します。パンとぶどう酒の感覚的な面−形態−を留めながらも、実体的な現実はキリストの体と血である得るということを理解するのは、知性にとってはできない相談であるからです。「理解しがたいこと、見えないことを、自然のレベルを乗り越えて、生き生きとした信仰が保証する。」31

聖体の神秘を前にして、人間理性は不可能と判断することが、実は確実な事実であることが分るのは、この信仰の徳のおかげです。「主よ、御身を固く信じます。信仰をくださったことを感謝します。御身を信じ、御身の比類のない愛を信じます。御身は、聖変化の後、祭壇上に実際に現存され、また聖櫃に留まってくださいました。私は、御身の御声を耳にし、御身を眺め、御身に触ることができるよりも確かなこととして、聖体の御身を信じます。」32

「キリストご自身、そしてパンとぶどう酒との外観の下に実際にましますイエスを信じるなら、私たちの全信仰を表すことになる。」33 また、創造主の力も信じます。「これは私の体である」と宣言し、そして「これは私の血である」と続けるイエスを信じます。みことばが聖母の胎内で人となったとき、また感嘆すべき聖変化・実体変化が実現するとき、驚嘆すべき働きをなさる聖霊を信じます。

次のように教える教会を信じます。「我々の救い主キリストは、パンの形態の中に捧げたのが自分の真の体であると言われた。(マタイ26,26以下、マルコ14,22以下、ルカ22,19以下、1コリント11,24以下参照)従って、神の教会が変わることなく常に信じてきたことを、この聖なる公会議も繰り返して宣言する。すなわち、パンとぶどう酒の聖別によって、パンの実体はことごとく主キリストの体の実体となり、ぶどう酒の実体はことごとくその血の実体に変化する。聖なるカトリック教会は、この変化を正確かつ適切に全実体変化と言い表している。」34

この公会議と全聖伝を受け継いで、後年の教導職は次のように強調しています。「この神秘についてある程度理解しようとする神学上の説明はみな、カトリックの信仰から外れないために、次の点を維持しなければならない。すなわち、その現実自体において、人間の精神とは独立して、パンとぶどう酒は聖変化の後、存在をやめたと主張しなければならない。したがって、我々の前に現実に存在するのは主イエスの崇拝すべき体と血であると主張すべきである。」35

特に、この「聖体の年」には、聖体に関する教会の教導職文書のうち、幾つかの重要なものを再読し、黙想するよう勧めます。36これら尊ぶべき諸文書を深い感謝の心で受け入れ、これらの教えの中で、イエス・キリストの権威によって伝達される神の言葉に対する「信仰の従順」を強めましょう。37

Credo quidquid dixit Dei Filius: nil hoc verbo veritatis verius.

神の御子の言われたことは、何事であれ信じます。この真理の言葉にまさるまものは、世にないからです。

いのちを与える言葉

私たちの信仰は主の言葉そのものを根拠としています。教会はその言葉をあるがまま、つまり完全に現実な意味で理解してきました。パンと魚を増やした後、主は仰せになりました。「私は天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである。」(ヨハネ6,51)比喩的にお話になったのではありません。もし、そうであったのなら、幾人かの弟子たちも含めて大勢の人がこれらの言葉につまづいたとき、説明の仕方を変えたはずです。しかし、そうなさらないどころか、逆に、力強い調子で仰せになりました。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血は真の飲み物だからである。」(ヨハネ6,54-55)人々がこの食べ物を感覚で捉えることのできる物的な糧だと考えることのないように、お続けになります。「命を与えるのは『霊』である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6,63)

これは、Verbum spirans amorem、つまり愛の言葉であって、愛に導きます。神の愛を人類に現わし、福音(良い便り)を告げるからです。「三位一体の神は人間が非常に気に入っおられたのです。」38 私たちのことを、どうでもいいとお思いになるはずがありません。困っているときに助けに来てくださらないことがあるでしょうか。「シオンは言う。『主は私を見捨てられた、私の主は私を忘れられた』と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることは決してない」(イザヤ49,14-15)。神は、人となられたみことばの、人としての心を通して、私たち一人ひとりを気遣い、見守っておられます。「イエスは空腹や苦痛に心を動かされましたが、特に無知に同情なさいました。『イエスはおびただしい群衆を見て、牧者のない羊のようなその人々を憐れみ、長時間教えられた』(マルコ6,34)」39

信頼の態度

自然のレベルでは、学問や知識の基礎として感覚的な経験を重んじます。しかし目が、「地上のものごとに張り付いている」と、創立者が書き記したようなことが起こりやすいし、起こっても不思議ではありません。「心の眼が鈍り、理性は自力ですべてが理解できると信じて神を除外します。(…)人間の知性は自分が宇宙の中心であると思いこみ、『神のようになる』(創世記3,5)ことに夢中になり、自己愛で一杯になって再び神の愛に背を向けるのです。」40 現代は「人間をすべての中心に置こうという世界的な風潮や、人間の超越的な召し出しを知らない物質主義の雰囲気を助長しています。」41 そのような時、私たちは、他者に対して開かれた態度、他者の言葉を充分に信頼する態度を、自分のうちに、そして周りの人々のうちに、育てなければなりません。

少し前に、「神による浪費」42とも言えるエウカリスチアを理解するには、「愛することができなければならない」と書きましたが、それと同じように「耳を傾けること」、そして何よりも、神と教会に信頼を寄せることが大切であることも考えてください。信仰とは、知性の服従であると同時に、知性の高揚です。聖体のイエスを信じるならば、私たちを神からも人々からも遠ざける不幸な渦から解放されます。また「悪の中でも最悪の悪」を秘めた「すべてにおける思い上がり」43から身を守ることができます。このように、パンの形態の下に隠れた神のみことばに知性を服従させるなら、自分の感覚や判断だけを頼りにしないために、また誤ることも人を誤りに導くこともあり得ない神の権威を心の中で強めるために、助けになることでしょう。

聖櫃には力の源が隠れています。聖櫃は、疑いを退け、恐れや心配を取り除くために、もっとも確実な避難所です44。これは新約の秘跡であり永遠の契約、最終的かつ決定的に新しい契約です。これ以上の可能性はないからです。キリストなしには、人は暗闇の世に住むことになるでしょう。キリスト信者の生活も、主から離れてしまうと、ますます暗闇に閉ざされることでしょう。この秘跡の有する永遠の新しさによって、古いものや不信や罪が永遠に追い散らされるのです。「はかないものや危険なものはすべて、また、失望、不信、悲嘆、卑怯など、役に立たないものは、すべて捨て去られなければなりません。聖体は神の子たちに神的な新しさを与えたのです。従って、気持ちや振る舞いを一新し、in novitate sensus(ローマ12,2)考え方を改めて、この恩恵に応えなければなりません。私たちには、活力の新たな原理である強力な根、主に接ぎ木された根が与えられたのです。」45

In Cruce latebat sola deitas, at hic latet simul et humanitas.

十字架上では神の本性だけが隠れていましたが、ここではその人性も隠されています。

カルワリオのキリストと共に

聖体祭儀は、私たちをカルワリオへと導きます。「ミサにおいて行われるこの神的ないけにえの中で、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を神に捧げた(ヘブライ9,27)その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身を捧げている。(…)捧げものは同一である。あの時、自分を十字架の上で捧げたキリストが、今司祭の役務を通して捧げているからである。違うのは捧げ方だけである」46からです。そして、カルワリオへは、「ただ深い信仰をもって思い出すだけでなく、実際にそれに触れながら、近づきます。なぜなら、聖別された奉仕者の手を通してこのいけにえを捧げる共同体の中で、それは<新たに現存化>され、たえず秘跡として永続するからです。」47

ゴルゴタのイエスの近くに、もう一つの十字架があり、そこに良い盗賊ディマスがいます。私たちはこの盗賊と共に、同じ御方を仰ぎ、劇的な出来事に参与しています。また、私たちは、ディマスと同じように、この御方を固く信じ、あるいは信じたいと望んでいます。彼はイエスが神の国をもたらした方であることを信じました。そして痛悔した彼は、キリストと共に御国にいたいと願いました。私たちも同じように、私たちを救うために人となられた神の御子が神であることを信じています。しかし、私たちとあの痛悔した罪人との間には違いがあります。盗賊はキリストの人間性を見たものの、その神性を見ることはできなかったのに対し、私たちは秘跡におけるイエスの神性も人性も眺めることができないのです。

痛悔した盗賊

もう一人の悪人と違ってディマスは自分の非を認め、当然の報いとして罰を受け入れ、「この方は何も悪いことをしていない」(ルカ23,41)と、イエスが聖なるお方であることを宣言しました。私たちを主の御国に受け入れてくださるようお願いしましょう。もっと清くなって主を心にお受けするために、罪を告白し、赦しをお願いしましょう。また必要なら、教会が教えるように、真実の痛悔をもってゆるしの秘跡に与りましょう。

「聖なる儀式に近づくためには充分な準備が必要である。(…)キリスト者は、最上の準備をしてこの秘跡に近づくようにしなければならない。このことについて使徒は次のような恐ろしい言葉を使っている。『主の身体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである。』(1コリント11,29) したがって、聖体を拝領しようとする者は、『おのおの自分を調べなければならない』(1コリント11,28)というパウロの命令を思い出さなければならない。

大罪を持つと自覚する者は、たとえ痛悔したと思っても、ゆるしの秘跡によって罪の赦しを受けた後でなければ聖体を拝領してはならない。これは教会の慣習である。」48

十字架につけられたキリストの謙遜な姿に感動したディマスは、空元気(からげんき)に駆られたりせず、反抗したい心に打ち勝って苦しみを穏やかに受け入れました。「ベツレヘムでの、ナザレトでの、カルワリオでの、イエスの謙遜。しかし、聖なるホスチアにおいては、それ以上にへりくだり、自らを空しくされた。馬小屋におけるよりも、ナザレトにおけるよりも、十字架におけるよりも。」49 Latro poenitens 良い盗賊の謙遜に倣いましょう。今私たちが信仰の目で眺める聖体の自己放棄は、ディマスが自分の目で見たカルワリオの自己放棄を遥かに超えた模範ですから、私たちには彼以上の謙遜な心が必要です。「私」が全面的に幅を利かせて高慢になり、安楽や官能を求めたり、人から認められ感謝されたりして当然と思うとき、取るべき手段は、十字架像を眺め、聖櫃を訪れること、特にミサ聖祭に与ることです。このような結論に達した創立者は、『道』の533番をこう締めくくられました。「それゆえ、ミサを愛することは、私の重大な義務である。」50

すべての徳のび

聖トマス・アクゥイナスは、イエスは十字架上ですべての徳の模範をお与えになる、と書いています。すなわち、passio Christi sufficit ad informandum totaliter vitam nostram51 人生に必要なことをすべて学ぶには、十字架像を眺めるだけで充分であり、nullum enim exemplum virtutis abest a Cruce52 そこでは、徳の模範としてのすべてがそろっていると主張します。正にその通りで、十字架上には、剛毅、忍耐、謙遜、離脱、愛徳、従順、名誉を忌み嫌うこと、貧しさ、委託など、すべての徳の模範が明らかに見られます。

エウカリスチアについても同じことが言えます。聖体は、愛と謙遜の比類のない学び舎です。この神の賜において、その他のキリスト教的徳をも深めることができるのです。「聖体と祈りの中で、すべての人に喜んで仕えて生きる方法を学びます。仕えながら統治すること、従いたいと望んで自由に従うこと、多様性を尊重して一致をもとめること。」53

聖体は、仕事や家庭、普通の人に共通な種々の状況の中で、日々育てるべき諸徳を学ぶ学び舎であることが分かります。待つこと、そして人々を受け入れることができ、手を差し伸べる心づもりが常にできるようになるための場所なのです。聖体のイエスの沈黙は、私たちのようにnel bel mezzo della strada街中で、見かけはあまり重要ではないように思える幾多の仕事や活動に忙殺されていながらも、自らを聖化すべき者にとって、特に雄弁な語りかけだと言えます。この学び舎の沈黙の中から、慎ましく過ぎ行く日常生活には聖性と使徒職の可能性が常にあることを、主は明確に教えておられます。そして、その可能性には、常に私たちの事柄に関わり私たちと語り合う神、私たちの髪の毛が一本落ちること(マタイ10,29参照)にも関心を持たれる神の、すべての宝と力が秘められているのです。

聖体のイエスを観想していると、神のみ旨を果たす以外のことを望まず、正しい意向で行動する必要を感じるようになります。人々が天国に行くことができるよう仕えるのです。人々のために身を捧げることの重要性が分かり、忍耐強く人目に立たずに、兄弟である人々に付き添うために献身します。小さくても具体的で役に立つことを実行して、友情と愛を示します。人々のために時間を惜しみなく使う広い心で、皆のために、そして一人ひとりのために、適切な言葉をかけ、必要な助言と慰めを与え、教理を解説し、兄弟的説諭を実行するようになるのです。

「主は極みまでご自分を低くされ、あらゆる冒涜(ぼうとく)や罵(ののし)り、多くの人々の冷淡で無関心な態度などを意に介せず、たとえ一人でも、傷ついた聖心の鼓動に気づく人のためにと、無防備の状態で留まっておられます。」54

人々に役立つために献身する

聖櫃に実際に現存されるイエスを思うと、「隠れ、そして消え去ること」がどれほど素晴らしい効果を生むかが分かります。これは、dolce far niente「極楽蜻蛉(ごくらくとんぼ)の暮らし」をし、人々から遠ざかり、自分の家庭や職場、社会で周囲に影響を与えなくなることではありません。それどころか、神に光栄を帰し、人々の自由を尊重することです。また、それは、人間的な言葉ではなく、自らの献身と喜ばしく惜しみない徳を実行することで、人々を主のもとへと「強制的に」向かわせることなのです。

聖体の主を眺めていると、「パンになること」がいかに相応しいことかが納得できます。パンになれば、人々が聖性の道を前進するために、私たちのもの、つまり私たちの祈りと奉仕と喜びを、その糧とすることができるからです。華々しさや大げさなこともなく、「隠れて目立たぬ犠牲」55が必要なことが納得できます。「イエスは、愛ゆえに、あなたのために、聖体のうちに残ってくださった。

人々がどういうふうにして主を受けるか、そして、あなたがどのような受け入れ方をするかを知りつつも、主はお残りになったのである。

残ってくださったのは、あなたが食し、訪問し、あなたのことをお話しできるため、また聖櫃のかたわらでの祈りのうちに、あるいは聖体拝領において、主と付き合い、日毎よりいっそう深く主を愛し、他の大勢の人たちに同じ道を歩ませるためである。」56

主のようになろうと思えば、私たちの生活全体が人々への奉仕そのものになるまで、余すところなく惜しみなくすべてを人々のために捧げ尽くさなければなりません。聖体の主は神の雄弁さをもってこう教えておられるのです。「愛徳があれば、そして、たとえ自分には辛くても、神の侮辱とならず人々を喜ばせることが実行できるなら、あなたは聖人になるだろう。」57

Ambo tamen credens atque confitens, peto quod petivit latro poenitens.

主にある二つの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことを私もお願いします。

痛悔の歩調

カルワリオの場面に戻り、良い盗賊の願いに耳を傾けましよう。聖ホセマリアは、Adoro te devote を黙想する度に非常に感動していました。「あの聖体讃歌の一節、『悔い改めた盗賊の乞い願ったように…』、を何度も繰り返した。悔い改めた盗賊のような祈願は、何度繰り返しても感動する。

盗賊はあのひどい罰に値することを認めた。そして、たった一言でキリストの心を奪った。彼は天国の扉を『開けた』のである。」58

特に晩年になってから、教会が直面する困難を目の当たりにした創立者は、心から神の慈しみに依り頼み、皆のために、盗賊に対するような神の理解と愛をお願いしておられました。自分には何の功徳もないと考え、「すべてをなさったのは主である」と確信していました。困ったことや試練にあったとき、主の助けを受けるために正義を訴えたことはなく、ただただ神の慈しみに寄りすがっていました。このようにキリストを信じることから痛悔が生まれ、いつも喜んで改心を繰り返しておられたのです。このように生きる創立者は、cor contritum et humiliatum, Deus , non despicies (詩編50[51],19)「打ち砕かれ悔い改める心を、神は侮られない」と確信しておられました。

今私たちは天国での仲介に依り頼み、創立者のような信仰と痛悔の歩調を自分のものにしなければなりません。これこそ本物の内的生活の明白な印だからです。聖体に接すると、私たちの希望と神の慈しみへの信頼を様々な形で強めることになるでしょう。特に、自分の惨めさを発見して十字架の足元に置き、欠点と戦いつつ、主の十字架を私たちの生活と弱さの上に、凱旋(がいせん)の心意気で掲げることにしましょう。

神の憐れみに注目する

ディマスは、人々を襲って盗むという以前の「専門職」が、神の憐れみと恩恵を受けて形を変えられたことに気付きました。十字架上にいながら、信仰と誠実な痛悔によってキリストを「襲い」、その聖心を「盗み」、主と共に栄光に入ったのです。創立者は、「聖櫃を『襲う』という愛のこもった習慣」59を私たちに伝えました。何よりも、私たちが聖化する仕事そのものを、イエス自身がミサで捧げるいけにえに一致させ、そこから湧き出る力を汲み上げて働くようにと教えられました。

私たちもlatro poenitens 悔い改めた盗賊と同じようにしなければなりません。聖化は主の憐れみのお陰ですから、主の憐れみに期待をかけます。神の赦しと恩恵を受けた私たちは、すべての人々に対して兄弟愛を実行するとき、その賜物を反映させなければなりません。聖性・完全性は直接憐れみに結びついているからです。これについては、主ご自身が明らかに言われました。「天の父が完全であるように、あなた方も完全な者になりなさい」(マタイ5,48)、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい」(ルカ6,36)と。

しかし、「心のこもらない同情には憐れみのかけらも見られません。憐れみとは、溢れんばかりの愛のことで、当然ながら溢れんばかりの正義をもたらします。」60 決してこれを忘れないでください。憐れみの心とは、簡単に言えば、善きサマリア人のように、人々に自らを与え、献身することです。もちろん自分の務めを疎かにすることはできませんが、同時に自分の安楽を犠牲にし、大小様々な個人的な計画や関心事を切り捨てる決意が必要です。「憐れみとは、心を繊細に保ち、犠牲をいとわぬ寛大な愛で、人間的にも神的にも心の痛みを感じることです。」61

このように考えると、この活動的な心の状態は、神であり人であるキリストに当てはめることができます。私たちの憐れみを神ご自身に向けるとなれば、それは馬鹿げたことです。しかし、イエスの人性に向けることはできます。主ご自身が、あなたたちの兄弟である人間、特にもっとも小さな人にしたことは私にしたことだ(マタイ25,40参照)と、言われたからです。さらに、「偉大なる孤独の人」となり、聖櫃に隠れておられる人としての主に対して、何らかの形の憐れみを、償いとして示すことはできます。「自ら進んでこもって」62おられる「愛の牢獄」に主をお訪ねすることは、深い愛と信心の行為です。主は世の終わりまで私たちと共にいたいとお望みだからです。

「主と親しく交わり」、主に付き添い、主に愛情を示すための機会は本当にたくさんあります。聖ホセマリアはこう励ましてくださいました。「聖体のイエスよ、御身は多くの見捨てられた聖櫃の中で優しく私たちを待っていてくださいます。私たちのセンターでは、いつも御身と『よく』接したいと望んでいます。御身を愛情で包み、礼拝し、償いと小さな勝利の香を捧げ、私たちの敗北への心の痛みをお捧げします。」63

Plagas, sicut Thomas, non intueor, Deum tamen meum te confiteor.

私はトマのように御傷を見なくても、御身が私の主であることを宣言します。

トマの最初の反応

イエスの復活後八日目、最後の晩餐の高間で、主はトマに傷を見せて仰せになります。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20,27) 私たちも、感謝の祭儀において、栄光に輝く主の御体を実際に見ると同時に、いけにえの状態の体Chrsitus passusを眺めることにもなります。御体と御血が秘跡の形態の下に分かたれているからです。「聖体のいけにえは、救い主の受難と死の神秘を現存させるだけではありません。そこではキリストの犠牲に続いて起こった、復活の神秘をも現存させています。生きて復活した方だからこそ、キリストは聖体において『いのちのパン』(ヨハネ6,35.48)、『生きたパン』(ヨハネ6,51)となることができるのです。」64

使徒聖トマは、イエスがゲッセマニで捕らえられた時、そして、それに続くキリストの「人間的には失敗としか思えない状態」を目の当たりにして、混乱し、落胆してしまいました。感受性の強い人だったので、落ち込みも激しかったのでしょう。それゆえ、他の十人以上に、主の復活という現実を受け入れることが難しかったのです。特に、再びイエスを信じ、再び主に希望し、再び確たる熱意に満たされることが難しかったのです。端的に言えば、主を愛すること、主の愛を感じることができなくなったのです。だから、条件を付けてしまったのです。

神は段階的にご自分を啓示されました。この啓示の歴史的な流れは、何らかの形で一人ひとりの信仰の歩みに当てはまります。この信仰の道で始める新たな歩みはいずれも「新たな」委託です。それは、キリストとの一層確かな一致を目指して、自分自身をますます無にしていくことですから、さらに困難な歩みだと言えます。警戒しなければなりません。聖トマに起こったことが私たちにも起こり得るからです。不信に陥ったり、深く信じることにためらいと抵抗を感じたりしても、いぶかったり恐れたりする必要はありません。しかし、そうならないために、聖櫃の前で、また他の機会に、もっと信仰を込めて繰り返しましょう。Dominus meus et Deus meus!「私の主、私の神」(ヨハネ20,28)と。

使徒たちは、イエスが預言者であり神から遣わされた方であること、イスラエルを救うメシアであり救い主であること、神の御子であることを信じていました。しかし、イエスがその救いをどのように成就なさるのか、師である方の御国がどのような形をとるのかについて、間違った考えを持っていました。キリストは少なくとも三度ご自分の受難と死を説明されましたが、使徒たちがすべてを理解していたわけではありません。ですから、神の計画を荒々しく突きつけられ、それを目の当りにした弟子たちは、聖ヨハネを除き全員が、無気力に負け、受難の悲劇に打ちのめされた結果、恐れをなして逃げてしまいました。特に聖トマは、復活して栄光に輝くキリストを受け入れることがなかなかできなかったのです。しかしながら、度々出現する主に出会って、彼らの不信は消えてゆきます。聖トマ自身、無気力な状態から立ち直り、先ほど話したように、Dominus meus et Deus meus! 「私の主、私の神」と叫んで、素晴らしい信仰と愛を表すことができたのです。

試練の時に

様々な理由で、私たちも信じることに最初は抵抗を感じることがあるでしょう。ネガティヴな経験が度重なり、反キリスト教的な雰囲気に苦しめられたとき、あるいは、「思いがけない十字架との出合い」65のときです。この十字架は非常に具体的で露骨な現れ方をします。「なぜなら、神は私たち全員に全面的な自己否定をお求めになるからです。私たちは泥でできた哀れな人間ですから、時々反抗します。特に、仕事をするにあたり、神のためであるはずなのに、自我が割り込むに任せた場合にそうなってしまいます。」66

この種の状況は、その本来の姿、すなわち、もっと神に近づき、神をもっとよく知り、もっと愛し、もっと効果的に仕えなさいという招きとして受け入れるならば、神の恩恵を受けて必ず乗り越えることができます。この状況を克服するために最も確実な手段は、十字架につけられて栄光を受けたキリスト、秘跡のうちにいますキリストとの出会いを通して手にいれることができます。そのときこそ、特に、御傷をご自分の愛の証拠としてお見せになる主と話すために、聖櫃を訪れるときです。実際には見ることができませんが、主の御傷を信じると、使徒たちと同じように、「キリストは苦しみを受けて栄光に入る」(ルカ24,26)という神秘がなぜ必要だったかが判ります。十字架を神の贈り物として受け入れれば、「苦しみの中に栄光と幸せを見るように努めよう」67という、創立者の勧めが理解できることでしょう。

キリストの御傷へ

繰り返しますが、特別に厳しく困難な状況に陥っても、驚いたりおびえたりしないでください。そのような時には、信仰の「明暗」、すなわち信仰の特徴である明るく見える面と暗くて見えない面が混在する中で、特にその暗い面が際立っているのです。また、このような時には、キリストを認めるのがさらに難しくなり、神がお望みになる道がどこを通るのかさえ分からなくなります。この種の内的試練は、人間の惨めさや神に応えない態度が原因で襲ってくることが時としてありますが、そうでない場合も多いようです。大抵の場合は、私たちをキリストに一致させ聖化するために、神がお望みになったご計画の一部なのです。

使徒聖トマのように、キリストの御傷のもとに「行く」時が訪れたのです。聖ホセマリアはこう説明されました。「イエス・キリストと共に生きるなら、必ず主の十字架に出合うことを忘れてはなりません。神の御手に自己を委ねると、主は、内外からの苦痛、孤独、反対、中傷、名誉毀損、嘲笑を味わうにまかせられることがしばしばあります。私たちが主に似た者となるようにお望みだからです。さらには気違いと呼ばれ、馬鹿者扱いにされることさえお許しになります。

思いがけないときに、こっそりと、あるいは横柄無礼(おうへいぶれい)にも正面から訪れる犠牲の機会を愛すべき時が来たのです。(…)

イエスの至聖なる人性に心から感嘆し、それを愛するならば、主の御傷を一つずつ発見していくことでしょう。辛くて激しい受け身の浄化のとき、隠そうと努める涙が甘くもあり辛くもあるとき、救いの御血に清められ、強められるために、至聖なる御傷の一つひとつの中に入り込まなければなりません。(…)

それぞれ自分の必要に応じて近づきなさい。そして人間的愛情も神への愛もことごとく主の御傷に注ぐのです。これこそ一致を望む心のあらわれであり、キリストと血を分けた兄弟、同じ御母の子である自分を知ることに他なりません。私たちをイエスのもとへ導いてくださるのは聖母なのですから。」68

祭壇上と聖櫃で私たちを待つ復活されたキリストとの出会いを、試練の時だけではなくいつも、もっと辛抱強く求めましょう。強い信頼と確信を持って、聖体のイエスの前で祈らなければなりません。子供のように大胆に、多くの必要や意向のために祈るのです。使徒聖トマは、信じるための条件として主との出会いを求めました。神の恩恵に守られてイエスの前にいるならば、霊的困難がすべて消えてしまうと、今私たちは確信しています。

主の神性も人性も、目にすることはできません。しかし、固く信じて主の元に行きます。「イエス・キリストは、秘跡の形態のもとに隠れて現存なさる聖櫃の中から、私たちを見つめ、耳を傾け、私たちを待っていてくださいます。(…)イエスはお尋ねになります。『どうしたのか』と。『実は…』と答え始めるやいなや、光が与えられるか、あるいは少なくとも、現状を受け入れることができるようになり、平和を取り戻します。」69 こうして、私たちは、忠実を保ち、励ましと力を受けて、キリストに出会ったこと、キリストに触れたこと、キリストが生きておられることを、すべての人に、人目を気にせず、ごく自然に、しかし緊急事として、告げ知らせることができます。Iesus Christus heri et hodie, ipse et in saecula!「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」(ヘブライ13,8)であるという真理と喜びを、聖ホセマリアのように味わうことができるのです。

Fac me tibi semper magis credere, in te spem habere, te diligere.

どうか、私がますます深く御身を信じ、御身に希望し、御身を愛することができますように。

聖体の人、信仰と愛と希望

聖体への信心が深まると霊的生活も進歩します。これは創立者が力を込めて教えておられた点です。自らの霊的な経験から得た実りを、私たち一人ひとりに勧めています。「聖体を中心にして生きる人になりなさい。子よ、あなたの思いと希望の中心が聖櫃にあれば、聖性と使徒職は何と豊かな実を結ぶことだろう。」70

聖性への望みと使徒職の熱意は、聖体を観想することから確たる力の源と支えを得ることができます。「みことばとパン、祈りと聖体にましますイエスと絶えざる交わりを持たないで、キリスト信者らしく生きることができるとは思えません。幾世紀にもわたって代々の信者が聖体への信心を具体化してきた理由がよく分かります。」71

神が人間に近づき、ご自分のもとに引き寄せようとなさるとき、私たちは信仰を固め、希望を増し、愛を深める覚悟をすべきです。そして、祈りと償いを増やし、たびたび秘跡にあずかり、聖体への信心を深め、対神徳を強めなければなりません。創立者はいつもそうされていました。特に、主があの愛の予感を与えてご自分を明かし始められてからはそうでした。聖カルロス神学校時代には、聖櫃の主の御前で一晩中祈っていました。そして時が経つに連れて、主と共にいることがどれほど急を要することであるかを、ますます深く理解していかれたのです。

キリスト者の道は根本的に対神徳の小径です。つまり、超自然的な知識、無限の善である三位一体への歩み、愛の交わりの実りなのです。これが卓越した形で現れるのが、聖体礼拝です。聖体を礼拝することは、できるだけ私たちの近くに留まろうとされた神に向かうことだからです。同時にそれは、同じ理由で、私たちがこの三つの対神徳を深めるのに最も良い手段でもあります。創立者は毎日、特にミサ聖祭で、聖別されたホスチアと御血の入ったカリスを掲げるとき、adauge nobis fidem, spem, caritatem!「信仰、希望、愛を増してください」と繰り返して、この三つの徳をお願いしておられました。

信仰と希望と愛は、神のみが人々に注ぎ込み、神のみが強めることのできる超自然の徳です。だからといって、この神の贈り物を頂くのに私たちの協力が免除されているわけではありません。全能の神はどのような計画を実行するにあたっても、御自分の愛を押しつけるようなことは決してなさらないからです。神は「奴隷ではなく子どもとしての私たちをお望みで、私たちの自由を尊重されます。」72 それゆえ、通常は、言葉で言い表せない神の働きを、人間が自らの努力で受け入れ、神と共に歩むようにとお定めになりました。これほどまでに私たちを尊重してくださる神の慈しみに、感嘆するほかはありません。

主の細やかさ

イエス・キリストが聖体のもとに隠れておられるのは、秘跡としての必要性に応じた結果ですが、それはまた、人間の自由をどこまでも尊重したいという神のお望みに従われたからでもあります。隠れておいでになる主は、私たちが主を探し求めるようお招きになる一方で、私たちとの出会いを求めて自らおいでになります。「偶然に出会ったふり」73をなさるのです。聖ホセマリアにはこのようなことが度々起こりました。気付かぬうちに、そうするつもりもないのに、聖書の言葉を「反芻(はんすう)し熟考していた」のです。それらの言葉は、創立者に仕事の新たな側面を見出させ、神の御旨を示し、主にお願いしていた問題や疑問を解決してくれたのです。「福音史家によれば、奇跡の後で人々が自分を王にしようとするのを知ったイエスは姿を隠された。

私たちを聖体の奇跡にあずからせてくださった主よ、お願いいたします。姿を隠さず、共にお留まりください。私たちが御身を見、御身に触れ、御身を感じ取り、常に御身と共に居たいと望みますように。どうか、私たちの生活と仕事の王になってください。」74

対神徳である信仰と希望、愛徳の実行は、その性質上、神との一致を目指して常に深まっていくもので、決して充分という状態になりません。神を本当に愛しているなら、主に対する愛が不足していると常に感じ、日々いっそう深く主を愛さなければならない、と思うはずです。もう充分だと思うのは、わずかな愛しか抱かない人だけです。創立者はこう尋ねられます。「それ以上は無理だと言う。それ以下はできない、と言えないのだろうか。」75 改めて聖櫃に隠れておいでになる主キリストにお願いすることで、それに答えましょう。Fac me tibi semper magis credere, in te spem habere, te diligere! どうか、私がますます深く御身を信じ、御身に希望し、御身を愛することができますように。

キリスト者の生き方全般について言えることですが、この「もっと、もっと」という心が張りつめた状態の根源と中心は、エウカリスチアにあります。聖体のイエスは、神が「徐々に、しかも、益々」自らを人間お与えになる過程の頂点にあるからです。そして主とひとつになるとき、私たちが「徐々に、しかも、益々」奉献の度合いを深めてゆくよう、神は私たちの手を取って「優しく、力強く」導き、さらに上に向かう傾向をお与えになります。聖ホセマリアはこう書きました。「日々の聖体訪問を始めた…。だから、聖体ランプが本当に気に入ってきたとあなたが言っても、不思議だとはぜんぜん思わない。」76 聖櫃の前で熱烈な信心を込めてイエスにお願いしましょう。私たち全員に益々「業を伴う信仰、愛の苦労、希望に支えられた忍耐」(1テサロニケ1,3)をお与えください、と。

O memoriale mortis Domini, panis vivus, vitam praestans homini.

主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン。

十字架のいけにえの記念

ミサ聖祭は主のご死去の記念であり、キリストが命の糧として御体と御血をお与えになる宴です。ピオ十二世はこう教えます。「神の英知の計画に従い、救い主のいけにえは、死を象徴する外的なしるしによって、驚くべき方法で示される。パンがキリストの体に、ぶどう酒がその血に『全実体変化』transsubstantiatioすることによって、キリストの体も血も現存する。キリストのおられる聖体の形態は、流血による体と血の分離を象徴している。このようにして、カルワリオで現実に起こったキリストの死の記念は、祭壇で奉納されるたびごとに、繰り返される。しるしがパンとぶどう酒に分かれていることは、キリスト・イエスが、いけにえの状態にあることを意味し、表現しているのである。」77

ヨハネ・パウロ二世はこの教えを説明し、こう書いておられます。「ミサは十字架のいけにえを現存させます。それは十字架上のいけにえに何かを加えるものでも、それを増すものでもありません。繰り返されるのは、十字架上のいけにえを記念する祭儀であり、このいけにえを『記念しながら再現すること』(memorialis demonstratio)です。こうして、キリストが捧げた、贖いのためのただ一度の決定的ないけにえが、どの時代にも常に現存するのです。したがって、聖体の神秘におけるいけにえとしての要素を、十字架と切り離して考えたり、カルワリオでのいけにえを間接的にのみ表すものだと考えたりすることはできないのです。」78

それゆえ、ミサ聖祭はゴルゴタでの贖いのみわざの単なる記念では決してなく、秘跡的にそれを現実化し再現するものです。秘跡はすべて、それが意味することを実現するのですから、ミサはカルワリオにおけるイエスのいけにえそのものを意味し、それを現存させ、主の受難と死去の生きる記念をもたらすのです。「教会がエウカリスチアを行うとき、キリストの過ぎ越しを記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度捧げられた犠牲は、常に成し遂げられた状態にあるのです。」79 ミサのいけにえにおいて、私たちはすべてをイエス・キリストの捧げものに一致させます。教会の頭である主は父である神にご自分を捧げ、礼拝と感謝、人類の罪の償い、世界が必要としているすべてのことの祈願とされるのです。

霊的生活の中心であり根源

創立者はカテケージスの中で、最後の晩餐と主の十字架が、ミサ聖祭と緊密につながっていることを力説されていました。多くの所でエウカリスチアのいけにえとしての本質的な意味が軽んじられているときに、ミサ聖祭の無限の価値を特に強調されました。ある時、誰にでも分かる言葉でこう説明されました。「神として人としての愛の表明の瞬間である聖なるエウカリスチアの制定と、十字架上でのいけにえとを、私は完全に区別します。最後の晩餐のイエスは苦しむことができる状態でしたが、まだ苦しんではおられませんでした。カルワリオでは、永遠の司祭の姿で苦しんでおられました。イエスはご自分の生活という歩みで世を聖化した後、十字架上で釘付けにされ、私たち一人ひとりを愛して死去されました。その御血のすべてが私たちの霊魂、一人ひとりの霊魂の値であったのです。」80

このいけにえをもって、主は私たちの永遠の贖いを勝ち得てくださいました(ヘブライ9,12参照)。この犠牲は「人類の救いにとって決定的に重要なものでした。そのためイエス・キリストは自らをいけにえとして捧げ、御父に返す前に、私たちがその場にいたかのようにしてそれに与る手段を私たちに残してくださいました。こうして信者の一人ひとりは聖体にあずかり、尽きることのない報いを得ることができます。これこそ、時代を超えて幾世代ものキリスト者が体験してきた信仰です。」81

聖ホセマリアはこの信仰の遺産を余すことなく受け入れ、その教えに含まれていることがらすべてを徹底的に実行されました。聖なる教父たちの勧めと模範に従って、一日中ミサ聖祭で実現されることに倣うよう努め、人々にもそのように勧めました。「祭壇で捧げられるホスチアにおられるイエスと一致してください!」82と教え、教えていたことをいつも実行していました。つまり、キリスト者の霊的生活の中心であり根源であるミサ聖祭を、日々の生活の礎にしておられたのです。さらに、エウカリスチアの神秘を深く考察し、その光に照らして、それを人々に伝えたのです。

ミサ聖祭は「三位一体の神の御働きであって人間の働きではありません。ミサをたてる司祭は、自分の体や声をお貸しすることによって主の御旨に仕えますが、自分の名においてではなく、キリストのペルソナと御名において振る舞います。

人間を愛する三位一体の神は、聖体に現存するキリストから、教会のため、人類のため、すべての恵みが生まれるよう配慮してくださいます。これがマラキアの預言したいけにえです。(…)聖霊の協力のもと、御父に捧げられるキリストのいけにえであり、無限の価値を有する奉献であって、旧約の犠牲では獲得できなかった救いがこの犠牲により、私たちの中で永遠に続くものとなるのです。

聖なるミサにおいて、聖三位一体の神自身が教会に与えられますから、ミサによって私たちは信仰の主要な神秘に導かれることになります。こうして、ミサはカトリック信者の霊的生活の中心であり根源であることがよく分かります。ミサはすべての秘跡が目指す秘跡です。洗礼において与えられ、堅信によって強められ成長した恩恵の生活は、ミサによって絶頂に達するのです。」83

応える努力

繰り返しになりますが、神の子は、感謝の祭儀であるごミサを霊的生活の中心と根源にしなければなりません。この秘跡において神の御子のいけにえが最高潮に達するからです。ミサは単に主のいけにえを私たちに示し、日々の応え方の模範にするだけではなく、贖いの恩恵を与え、神の栄光と人々の救霊のために、主のように自分自身を捧げることを可能にしてくれるからです。

筆舌に尽くしがたい賜をいただくからには、それに応える努力をしなければなりません。そして、私たちのすべてのことを、御父に対するイエスの捧げものに真心を込めて一致させるよう努めましょう。「祭壇上の聖なるいけにえの時、司祭は神の御体と御血のカリスを手に取り、地上のものすべての上に掲げ、『キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに』、すなわち私の愛によって、私の愛と共に、私の愛のうちに、と唱える。

司祭のこの動作に一致しなさい。それだけでなく、これをあなたの生活に組み入れなさい。」84

創立者は、ミサ聖祭が霊的生活の中心であり根源であると教えられただけではない、という点を強調したいと思います。それだけではなく、聖なるいけにえを通して自らを私たちに与えられた三位一体に対して、各自がどのように応えるべきかについても教えました。それは、一人ひとりの霊的戦いが、本当にごミサを中心にし、いけにえから力を受け、この燔祭(はんさい)を支えに繰り広げることができるようになるためです。

いろいろなことを勧められましたが、中でも、一日を二分して、半分をミサの準備、もう半分を感謝に捧げるのが非常に役に立つと言われていました。夜の休息を活用して、聖体に関することがらを中心とする神との観想的な対話に力を入れていましたし、感謝の祭儀を構成する様々な瞬間に、一つひとつの動作と言葉を味わい、またその意味を見出す努力を傾けておられました。このような努力の結果、いつも新たな意味合いを見つけていましたが、それらを、信仰と希望、愛、そして具体的な状況や意向に結びつけていたのです。創立者の説教『聖体─信仰と愛の奥義』85は、本当に大きな助けとなります。

これらはすべて、キリストの恩恵・神の活力という樹液とともに、聖体という根からもたらされますが、先に述べたように、私たちにもそれを受けとる努力が要求されています。聖ホセマリアは、この素晴らしい戦いを日々続けるようにと励まされました。「祭壇上の聖なるいけにえがあなたの内的生活の中心となり源となり、一日全体が礼拝の行為になるよう戦いなさい。すなわち丸一日があずかったミサ聖祭の延長および次のミサの準備となり、それが射祷や聖体訪問、専門職と家族生活の奉献などとなって溢れ出るように。」86

キリストとの交わりと教会の一致

祭壇上の犠牲では、会食といけにえの両面が一つになっています。キリストは、司祭を通してご自分をいけにえとして父なる神に捧げ、御父は、それを糧として私たちにお与えになります。聖体のキリストは「神の子供たちのパン」87です。主の御体と御血を拝領した私たちは、特定の恩恵で満たされます。それは霊魂内で体を作る食物と似たような働き、つまり「支え、成長させ、力を取り戻し、喜びを」88与える恩恵です。しかし、食べ物は食した人に吸収され同化されるのに対して、聖体の場合は逆に、拝領した私たちがキリストの体に吸収され同化され、私たちの方がキリストに変わるのです。「キリストの御体と御血にあずかるとは、われわれが拝領した御方に変えられることに他ならない。」89

聖体は教会の中で比類のない一致の秘跡としてそびえ立つものです。皆が同じ「パン」を食し、唯一のキリストの体となるからです。ミサ聖祭と聖体拝領は教会を築き、一致と堅固さをもたらし、一体性を与えます。「聖体を拝領する人々は、キリストにより一層親密に結ばれます。それゆえ、キリストはすべての信者を教会というただ一つの体に結びつけます。聖体拝領は、すでに洗礼によって実現された教会との合体を新たにし、強めます。洗礼によって、私たちはただ一つの体を形作るように召されました(1コリント12,13参照)。エウカリスチアはこの招きを実現します。」90

皆さん、教会の見える頭に一致して聖なるいけにえを行い、またあずかることがとても大切です。全員が普遍教会の頭である教皇に、皆さんはそれぞれの地方教会の頭である司教に、そして、特にこのパドレに堅く一致していなければなりません。「教会の一部分」であるオプス・デイの見える頭・一致の要として、神のお定めになったのがパドレだからです。

Praesta meae menti de te vivere, et te illi semper dulce sapere.

私の心を御身によって生かし、甘美な御身を常に味わわせてください。

キリストによって生きる

「キリストの体は、神のみことばと結ばれた体であるから生命を与える。」91 聖ルカはこう書いています。「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気を癒していたからである。」(ルカ6,19)また、聖体は単に生きるパンであるだけでなく、命を与えるもの、キリストにおける神の命を与えるものです。聖体を頂く人は、おのおの聖パウロと共に次のように言うことができるでしょう。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2,20)

Praesta meae menti de te vivere...私の心を御身によって生かし...というこの一節は、すべてにおいていつもキリストによって生き、主の愛に完全な忠実を保つ振る舞いをし、主の優しさを常に味わい楽しむようにと招きます。私たちの喜びと「楽しみ」をキリストの内に見出し、「鉄が磁石に吸い寄せられるように」92主のもとに行きましょう。

このような誠実な望みと願いは、生活の一致を渇望し大切にするのに大いに役立ちます。言い方を変えれば、一人の主のみに仕えること(マタイ6,24参照)、一つのことだけを探し求めること(ルカ10,42参照)、そして、唯一の愛である主だけにすべてを従わせることです。自分の望みではなく神のお望みのことを望み、神がお望みの方法で、お望みの度合いまで、人々を受け入れます。キリストと一致する、すなわち神の御旨を果たすことが私たちに固有な性格の本質な特徴となるようにしましょう。それは「キリスト・イエスと同じ心」(フィリッピ2,5)を持つことです。そうできるよう主に願いましょう。聖ホセマリアは「私のキリスト、私の心のイエスよ、私が御身の目で見ることができますように」93とお願いされていました。

私たちキリスト者は、主と一緒ならomnia sanctaすべては聖なるものであり、主と離れてはmundana omniaすべてが俗世間的なものになる、ということを忘れてはなりません。キリストへの忠実を保とうとするとき、当然引き受けなければならない事柄を前に、愛ゆえに決然とそれに立ち向かうべきです。自然さという隠れ蓑をまとって、愛の不足に引きずられてしまわないようにしましょう。私たちと神とのつながりは、唯一の模範であるキリストを基礎にして始めて実現できます。イエスと御父とは全く一つであることを明確に認めなければなりません。主は「私と父とは一つである」(ヨハネ10,30)と仰せられたのです。

生活の一致

ミサ聖祭は、それ自体、人の生活を本当に首尾一貫したものにする力がありますが、それは、ミサ聖祭を自分の霊的生活の中心とするよう戦う時、さらに大きくなります。カルワリオのいけにえが無血で再現され、秘跡に留まるイエスは、ご自分の奉納に一致している人々の仕事と意向を全面的に受け入れてくださいます。さらに、これらすべてを、キリストが御父にお捧げになる礼拝と感謝、償いと祈願において、再び取り上げてくださるのです。

キリストは、地上での歩みを続ける間、アダムに始まる人間の歴史を集大成し、ご受難において、ご生涯を集約なさいましたが、同じように、ミサのいけにえにおいても、神が人類にお与えになったものすべてが一つに集められ、聖霊の働きのもと、キリストにおいて人類が御父に捧げるすべてが統合されるのです。要約すれば、「聖体は(…)、人間に対する神の憐れみの数々を集約し実現させる」94と言えるのです。

ミサ聖祭には、私たちの行動のあるべき姿が要約されています。すなわち、愛情のこもった礼拝と感謝、償い、祈願、言い換えれば、神への献身と、神ゆえに行なう人々への献身のことです。私たちに重くのしかかることや悩みの種、よろこびと夢で満たしてくれるもの、日々の仕事の小さなこと一つひとつ、これらすべてをミサ聖祭に集めなければなりません。私たちと人々の心配事、そして全世界の憂いを肩に乗せて、ミサ聖祭に赴かなければならないのです。

以前の降誕祭に、皆さんの兄弟たちに次のように言ったことがあります。自分の意向や必要だけを携えて馬小屋へ行くようなことがないようにしよう。幼子のもとへは、オプス・デイの人たち全員の、教会の、世界中の、苦しみと緊急に必要なことがらをたずさえてください、と。今、同じことを皆さんに繰り返し勧めます。ごミサに与るときには、あらゆる時代の人々の罪を背負って十字架につけられたキリストのように、すべての人にとって急を要する物的霊的なことを主にお願いすべきです。主と共に、主のように、十字架に上がる努力をしましょう。そこで主は御父に、例外なく一人ひとりが、必要な恩恵をふんだんに与えられるよう、取りなしてくださいました。そして今は、この世の祭壇と聖櫃から取り成しておられます。

1966年、聖ホセマリアを襲った強烈な体験のことを覚えているでしょう。次のように語っています。「何年も経ってから、あの司祭は大発見をした。ミサ聖祭はほんとうの仕事、神の仕事であることが分かったのである。その日のミサで苦しみと喜びと疲れを感じた。『神の仕事』で体力をすっかり消耗しつくしたと感じたのだった。

キリストにとっても、初めてのミサ、十字架は、骨の折れる仕事だった。」95

創立者はこのことを、長年ミサ聖祭を全生活の中心にするよう努めてきたことに神が報いてくださった、また同時に、それがオプス・デイ特有の精神・生活の一致を達成する超自然的で確実な道であることを確信させようとお望みになったのだと解釈しました。私たちもまた、来る日も来る日も、何をするにつけても、イエス・キリストに思いを馳せ、主のご計画に従い、また、主の甘美なみ教えを掘り下げて理解するために、戦いましょう。

Pie pellicane, Iesu Domine, me immundum munda tuo sanguine.

優しいペリカン、主イエス、どうか、汚れた私を、御血をもって清めてください。

ますます清くなる

昔の人々は、ペリカンが自分の胸をくちばしで傷つけて血を出し、その血で雛を育てると信じていました。そのためこの鳥の姿が、伝統的に聖体の象徴として使われていたのです。こうして、聖体が持ついけにえと会食との両面が切り離なせないことを、別の形で表そうとしていたのです。実際、ミサ聖祭において「我々の贖いの業が行われ」96、キリストの御体と御血が私たちに与えられます。

この秘跡には、キリストの御血が、人々を贖うと同時に糧となり、また喜びを与えるものであることがはっきりと表れています。それは、すべての罪を洗い清め(マタイ26,28参照)、心を清らかにする御血(黙示録7,14参照)であり、貞潔な体と清い心の男女を生み出す御血(ザカリア9,17参照)、人々を酔わせ、聖霊で我を忘れさせ、舌を解いてmagnalia Dei「神の偉大さ」(使徒言行録2,11)を止めどもなく歌わせ語らせる御血なのです。

聖体は、カルワリオのいけにえそのものなのですから、すべての罪を赦し、すべての恩恵を与える力を備えています。カルワリオと同じように、ミサ聖祭から他の秘跡が生まれ、さらには私たちをその目的であるイエス・キリストの燔祭へと導きます。使徒職において繰り返して欲しいことですが、大罪を赦すために神がお定めになった秘跡は、ミサ聖祭ではなく、ゆるしの秘跡、つまり神および教会との和解の秘跡です。ゆるしの秘跡において、この秘跡で直接ゆるしを受けていないすべての大罪を、深く痛悔しつつ心から誠実に司祭に告白した後、罪のゆるしを受けなければなりません。97

相応しく拝領する

さらに、聖体は愛の表明であり、愛の交わりですから、主の御体と御血を拝領したい人は、恩恵によってイエスに一致する明確な心づもりがなければなりません。「一生に一度しか聖体を拝領できないとすれば、主をお迎えするためにどんなに心を込めて準備をするか、考えたことがあるだろうか。

いとも簡単に主に近づくことができる状態を感謝しよう。ただし、その感謝は、主を拝領するためによい準備をすることによって示さなければならない。」98

この準備の質とその細やかさの程度は、前にも思い起こしてもらったように、拝領する人の内的な細やかさと深さ、特に、聖体のイエスに対する信仰と愛にかかっています。「聖体の主を拝領するとき、この世の重要人物を迎えるように、いや、それ以上に飾り立て、明かりを灯し、晴れ着を着て、お迎えしなければならない。

どのような清さ、どのような飾り、どのような明かりで、と尋ねるなら、『あなたの感覚一つひとつを清め、能力一つひとつを飾り、心全体を明かりで灯して』と答えよう。」99

聖体拝領を完全な準備ができるまで延ばすべきでないことは当然です。そうでないと、いつまでも拝領の時機は訪れないでしょう。気持ちが伴わなかったり時々気を散らしたりしても、ミサ聖祭にはあずかるべきです。「聖体を拝領しなさい。それは決して、尊敬を欠くことではない。敵の罠から逃れ出たばかりの今日こそ、聖体を拝領しなさい。

イエスが『医者を必要とするのは、健康な者ではなく、病人である』と仰せられたことを忘れたのだろうか。」100

また、度々聖体拝領をするにもかかわらず、神の寛大さから見て期待できるだけの効果がないと思えても、聖体拝領を止めるべきではありません。「ずいぶん長い間、毎日、聖体を拝領してきました。他の人でしたら聖人になっていたでしょうに、私はいつまでたっても同じです、とあなたは語った。

そこで私は答えた。わが子よ、毎日の聖体拝領を続けなさい。そして、考えてみなさい。もし、そうしていなかったら、自分はどうなっていたのであろうかと。」101

キリスト者なら、聖体拝領を度々することは、教会の昔からの伝統であり、自らの惨めさでさえ消し去ることのできない、本当の愛の表われであると考えるべきです。「使徒たる者よ、イエスのあなたに対する親しさ、長年、そんなに主のすぐ近くにいたことについて、何とも思わないのか。」102

先に述べたような誤った言い分やそれに似たようなことが頭に浮かんだら、その時こそ、常にも増して、聖なるミサで繰り返す百人隊長の言葉Domine, non sum dignus!「主よ、私はあなたをお受けする値打ちがありません」を、イエスへの感謝と信頼の心で繰り返すときです。完全な神であり人であるキリストの威厳と完全性を前にすると、私たちは何も持たない物乞いであり、高慢という重大な病に汚れた者、出来事の中に常には神の御手を見ることもかなわない人間、また別の時には、神の御旨を前に立ちすくんでしまう存在です。しかし、このようなことがすべて事実であるとしても、拝領を断念するような態度を正当化することはできません。逆に、創立者に倣って、度々繰り返すべきです。「主よ、清さと謙遜と信心を持って、あなたをいただくことを望みます」と。

Cuius una stilla salvum facere totum mundum quit ab omni scelere.

御血の一滴だけで、世のすべての罪を償うことのできる御方。

聖体の効力を知らせる

この一節は再びエウカリスチア固有の特徴について述べています。すなわち、かつて私たちに与えられ、今も絶えず与え続けられている、神愛の「過剰」「行き過ぎ」とも言うべき特徴です。聖歌のこの一節は、聖体の秘跡の贖罪面に言及します。人類のあらゆる罪をすべて消し去るためには、人であり神である方の一滴の血で充分でしたが、御血を余すところなく流すことをお望みになったのです。「兵士の一人が槍でわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」(ヨハネ19,34)昔の諸民族の間で、そして今日でもある程度まで、血は命のしるしです。キリストは余すところなく血をお流しになりましたが、それは、神の全生命を私たちに与えようとお望みになったからでもあります。

イエスが私たちのためにすべてを捧げ尽くされたことを観想し、「神であり人であるキリストと、救いの御業とを切り離すことはできない」103ことを度々考察すると、自分が聖体の人として生きるだけで満足するのではなく、他の人にもそうなる決心をするよう励まし勧めなければならないことを自覚するようになります。

私たち一人ひとりが、聖体のうちに主を求め、主と付き合うことだけでは不充分です。使徒職を通して、できるだけ多くの人にも「感染」させ、この比類のない友情を考え、それを育ませるよう努力しなければなりません。「秘跡に現存されるイエスを深く愛しなさい。そして多くの人が主を愛するように働きかけなさい。この気遣いがあってはじめて、人々を教えることができます。自分が実行し、所有し、そうであることを教えることになるからです。」104

カトリック信者の中にも見られることですが、悲しいことに、多くの人がこの大事なことを知らないでいます。ですから、子供たちよ、ミサ聖祭とは何か、どんな値打ちがあるのか、どのような心構えがあれば聖体拝領ができ、また拝領すべきなのか、なぜ聖櫃におられる主を訪問する必要があるのか、どのようにして「信心の礼儀作法」105の価値と意味を表わすべきかについて説明するのが、どれほど重要であるかを考えてください。

そこには、無尽蔵の豊かさを秘める畑が広がっており、主の祝福を受けて多くの召し出しの実りをもたらすはずの個人的な使徒職が待ち受けています。創立者は最初から繰り返しこのように教え、日々の行動でそれを示されました。「王たるキリストのこの御旨を果たすためには(創立者はオプス・デイが世界中に広まることをこう表現されました)、内的生活を深める必要があります。つまり、聖体の人、たくましい人、祈りの人となりなさい。そうしてのみ、オプス・デイの精神が要求する周囲を揺り動かすような影響力で、人々を目覚めさせ動かすことができるからです。」106

犠牲と償いを愛する

本当に聖体の人、祈りの人になるためには、自発的な、あるいは受け身的な犠牲を通して、主の十字架にいつも一致していることが必要です。ドン・アルバロが、創立者の質問を書き残してくれました。ある時、あるグループの子供たちに、「オプス・デイにおいて主がお望みのような使徒になるために何をしようか」と問い掛け、すぐに力強く確信を持ってこう答えました。「私たちも十字架につけられたキリストのようになることです(…)。犠牲を捧げ償いをする人の願いを主は聞き入れてくださいます。」107

ドン・アルバロはすぐに、自分と皆のために結論を引き出しました。「主と共に世を贖うという偉大な約束を忠実に果たすには、情念や情欲を十字架につけて、主イエス・キリストと個人的に一致しなければなりません(ガラテヤ5,24参照)。これが、私たちのうちで日々繰り返されるべき、あの神の『逆説』です。『生きるためには死ななければならない』(『道』187)」108

まさに神の御子のいけにえであるこの秘跡から、十字架上のキリストと一致するための恵みと力をいただきます。決して疑わないでください。犠牲の生活は聖体に対する信心に由来し、それを根源としています。私たちが、cum gaudio et pace「喜びと平和のうちに」十字架につけられたキリストに一致した生き方をするなら、「神への愛ゆえに従い、へりくだる」なら、「考えと感情、感覚、能力、言葉、行為、これらすべてを、聖母とその御子の十字架への愛によって『しっかりと縛り付けて』いる」109なら、その時こそ、本物の聖体の人であると言えます。聖体の人は必然的に、常に同時に司祭の心を持つ人です。具体的に、償いと犠牲を捧げる望みのうちに自己を与え尽くすなら、その時はじめて「根本から、徹底的に、聖体中心」110の人になるのです。

私たち一人ひとりとミサを祝うのはイエスであり、私たち一人ひとりがキリストの供物と一致して、父なる神に自分を供物として捧げます。従って、ミサは「私たちのミサ、イエス」であるという事実を真剣に受け止めれば、そのときこそ、ミサ聖祭は二十四時間続くことになります。「主を心から愛しなさい。熱心に償いをし、心から悔い改めなさい。そして、司祭が祭壇に向かう前にするように、まず私たち自身のために償う必要があります。司祭の心を持っている私たちは、司祭であるキリストに堅く一致して、一日をミサに変え、私たち自身とすべての人々の過ちを償う聖なる捧げものを、御父にお捧げします。(…) ミサ聖祭において、また一日中、主を大切にしてください。」111

Iesu, quem velatum nunc aspicio, oro, fiat illud quod tam sitio, ut te revelata cernens facie, visu sim beatus tuae gloriae.

今は隠れていますイエス、乾き望むものをお与えください。覆いを取られた御身の顔を見出し、御身の栄光を目にする幸いな者となりますように。

キリストとの出会いを渇望する

Adoro te devote は最終章で、主よ、心からお会いしたいのですという望みを表明します。とても理にかなった結びです。聖体は「未来の栄光の保証」112ですから、永遠の命に前もって与らせてくれます。「まことに、聖体は、地上に現れた天を垣間見ることです。そのとき天のエルサレムは栄光を帯びて輝き、私たちの歴史の雲間から差し込んで、私たちの旅路を照らすのです。」113

この教会の最も大切な宝物は、前もって永遠を先取りしています。至福の聖人たちは神とキリストを直観し、満ち足りた状態にいますが、その彼らと同じく、私たちはすでに「子羊の婚宴」の会食者になっているからです(黙示録19,6-10参照)。完璧な形ではなく不完全ながら、すでに私たちは、神の恩恵によって、現実そのものに与っています(Iコリント13,10-12参照)。洗礼によって与えられ、栄光に輝く完成へと招かれている新たな命は、秘跡の賜のおかげで、大きく成長して堅固なものとなるのです。

聖体のイエスを受ける私たちは、死と審判の不確かさを落ち着いて迎えることができます。主が「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6,54)と約束なさったからです。「聖体によってキリストに養われた者は、来世において永遠のいのちを得るのを待つ必要はありません。彼らはすでに地上でそれを得ています。聖体は、将来、人間を完全に包むはずの、充ち満ちた豊かさの初穂です。なぜなら、私たちは聖体によって、世の終わりに私たちの体が復活することの保証も与えられているからです。」114 聖体を信じ、聖体に希望をおくなら、多くの恐れから解放されます。聖櫃に主が現存なさっているのを知るだけで、暗闇を恐れるというような小さなこと、非常に人間的なことを克服するのに役立ったと、聖ホセマリアは話されていました。

感謝の祭儀は「神の恩恵のおかげで、人間がこの世でできることの中でも、もっとも神性でもっとも超越的な行為をすることになります。いわば今から、この世と時間の絆から解き放たれて、天にいます神のそばにいることになります。天国では、キリストご自身が私たちの涙を拭ってくださり、死はもはやなく、悲しみや嘆き、苦労もありません。古い世界は過ぎ去っているはずだからです(黙示録21,4参照)。」115

この秘跡は、この世とあの世を結ぶ扉のようなものです。危篤の人に病者の塗油が授けられるときだけではなく、本質的な意味でそうなのです。すでに栄光に輝くChristus passus「苦しむキリスト」が現存なさるからです。その結果、本質的にはすでに後の世に属する主の命ではあるものの、秘跡を通して、この世の条件のもとにあるキリストの命にあずかるのです。それゆえ、聖体への信心があれば、世の中で観想生活をするよう促され、私たちはますますオプス・デイになります。地上と天国との両方で愛しつつ歩むことになるからです。「私たちはこの世のものですから、天国と地上の『間』にいるのではありません。同時に、地上と天国にいるのです。これは、私たちがこの世にいる間、どのように生活しなければならないかを表す公式だと言えるでしょう。」116

永遠のいのちの保証

神の救いの計画は、来るべき永遠において成就しますが、その「前段階」として既にこの世で始まります117。このように、信仰には、顔と顔を合わせて神を知ることの糸口、光栄ある真福直観の何らかの始まりが含まれています。聖体において、栄光へと向かう傾きは、何よりも付き合いから生まれる愛を支えにしています。聖体に生かされている人なら、今礼拝しているパンの内に隠れたもう御方を、直接に公然と礼拝することを渇望します。ひそかな愛との付き合いを重ねるうちに、その愛を公然と自分のものにしたいと思う心に抵抗できなくなるからです。「人間としてのイエスと付き合いなさい。主はあなたの魂に、主の御顔を眺めたいという『満たし得ない』渇望をお与えになるだろう。」118

これは常に聖人たちの焦燥(しょうそう)の的でした。聖ホセマリアも例外ではありません。「愛し合っている者同志は会う努力をし、相手だけを見つめるものです。これは当然なことでしょう。人の心は抵抗できない力を感じるのです。私がイエス・キリストの御顔を眺めたいと熱望していることを否定するなら、嘘をつくことになります。Vultum tuum, Domine, requiram(詩編26,8)『主よ、御身のみ顔を探し求めます』目を閉じて、神がお望みの時に訪れる、主との出会いを考えると喜びに満たされます。そのときには、『鏡におぼろに映ったもののようにではなく…、顔と顔を合わせて』(Iコリント13,12)主を見ることができるのです。子供たちよ、そうなのです。『神に、命の神に、私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか。』(詩編42,3)」119

聖体に対する信心は、この渇望を引き起こし、強めてくれます。そして、遂には、キリストと共にいることだけが唯一大切なことになってきますが、だからといってこの世から遠ざかるわけではありません。逆に、イエス・キリストの聖心に堅く結びついていますから、情熱を傾けてこの世を愛するようになるのです。聖体において、主との付き合い、親しみが深くなると、幸せとは、古くなって消え失せてしまうこの世のあれやこれやの善の中にあるものではなく、常に主と共にとどまることにあるという、深い確信が刻み込まれます。主こそ幸せそのものであるからです。すでに今、この秘跡において「無限の宝、高価な真珠である」120主を所有しているのです。「あの司祭は聖体を与えるとき『そら、今、あなたに幸せそのものを渡しますよ』と叫びたかった。」121

聖マリア、聖体に生かされた女性

ヨハネ・パウロ二世は、「聖体に生かされた女性」という呼び名でマリアを呼び、聖体の神秘を前にして驚嘆できるための、すなわち聖体を受け入れ、礼拝し、感謝できるよう私たちを「教え、導く」模範とするよう教会に提案されました122。

信仰の光を受けると、創立者と同じように、この点がよく理解できます。聖ホセマリアは、次のような考察を勧めてくださいました。ミサ聖祭には「聖母も何らかの形で介入されます。マリアは聖三位一体と全く一致しているのみならず、キリストの御母、キリストの御体と御血の母、完全な神・完全な人間であるイエス・キリストの母だからです。イエス・キリストは、男性の介入なしに、聖霊の御力によって、聖母マリアの胎内に宿り、御母マリアと同じ御血をお受けになりました。そして、その御血こそ、贖いのいけにえとして、カルワリオとごミサで捧げられる御血であるからです。」123

主の十字架のもとで、「よく見よ。これほどの痛みがあったろうか。」(哀歌1.12)と言われた内的な犠牲を、聖母マリアは御子のいけにえに結びつけ、カルワリオでの贖いに協力なさいました。聖母ご自身、「教会と共に、また教会の母として、私たちが感謝の祭儀を行うときに、いつもそこにいてくださいます。」124 そして、すべての恩恵の仲介者として、御子に協力し、イエスだけが実現可能な、聖なるいけにえが有する聖化のための無限の力を、世界中に広げてくださいます。

皆さん、何らかの形で良き盗人ディマスや使徒聖トマに出会ったのなら、聖体におられるイエスをもっと知り、愛し、主から学び、主に倣い、「主とよくつき合う」ために、マリアを見つめないわけにはいきません。この非常に個人的な努力をするなら、絶えず内的に新たにされ、聖性と使徒職の望みに満たされます。そのためには、ロザリオの神秘の黙想が助けになるでしょう。聖母が、その真に清らかな胎内でみことばが人となられることを条件なしに受け入れられたお告げの場面から、神が聖母を女王とし、また私たちの母として栄光のうちにお迎えになった栄光の場面までを、黙想するのです。

「キリストへの道はつねにマリアを通る。そして、キリストに『戻る』道もマリアを通る。」125 聖母に、いつも私たちの手を引いてくださるようお願いしましょう。特に、この聖体の年には、言葉と行いで、聖体の主に「御身を礼拝し」お愛ししています、Adoro te devote! といつも申し上げることができるよう、助けをお願いしましょう。このようにするなら、愛する創立者の声が聞こえてくることでしょう。聖ホセマリアは繰り返し教えられました。「マリアとヨセフにお願いしなさい。ベトレヘムやナザレでのように、何らかの形で聖櫃にもいらっしゃるはずですから。(…)このことを決して忘れないでください。」126

心からの愛を込めて祝福を送ります。

皆さんのパドレ

†ハビエル

ローマ、2004年10月6日、聖ホセマリア列聖二周年記念日

1 第2バチカン公会議『司祭の役務と生活に関する教令』5.

2 聖ホセマリア『知識の香』87.(第2バチカン公会議『教会憲章』11、『司祭の役務と生活に関する教令』14参照)

3 トレント公会議、第13総会『ご聖体についての教令』第一条(『カトリック教会文書資料集』1651).

4 同上、第二条(『カトリック教会文書資料』1652参照).

5 聖ホセマリア『道』538.

6 聖ホセマリア1960年4月14日説教のメモ

7 聖ホセマリア『知識の香』83.

8 同上、84参照

9 聖ヨハネ・クリゾストモ『聖マタイ福音についての説教』82,4(PG58,743)

10 『道』269, 537, 554、『鍛』831, 991、『知識の香』151参照

11 聖ホセマリア、『道』267.

12 聖ホセマリア、『知識の香』84.

13 同上

14 聖ホセマリア『永遠の司祭』1973年4月13日(『教会を愛する』p. 61-p. 80)

15 聖ホセマリア『知識の香』64.

16 聖ホセマリア、1972年10月団欒のメモ

17 聖ホセマリア『知識の香』90.

18 聖トマス・アクィナス『神学大全』II-II, q.84, a.2; ダマスコの聖ヨハネ、Sobre la fe ortodoxa(正統信仰について), 4, 12 (PG94,1133) 参照

19 聖ホセマリア、1970年4月4日団欒のメモ

20 聖ホセマリア『道』539, 538 (『拓』685, 686,『鍛』887参照)

21 聖ホセマリア『知識の香』161.

22 聖ホセマリア1960年4月14日説教のメモ

23 Lauda, Sion, Salvatorem,/ lauda ducem et pastorem / in hymnis et canticis. / Quantum potes, tantum aude: / quia maior omni laude, / nec laudare sufficis.「シオンよ、たたえよ、救い主を。私たちの導き、牧者である主をほめよ、たたえよ。力の限り主をたたえよ、あらゆる賛美も及ばぬみあるじ、どれほどたたえても決して足りない。」(ローマミサ典書、ご聖体の祝日の続誦『Lauda Sionシオンよ、たたえよ』)

24 聖ホセマリア『鍛』838 (832と837参照)

25 同上824.

26 聖ホセマリア『拓』818.

27 聖ホセマリア『道』633.

28 聖ホセマリア『知識の香』151.

29 同上156

30 聖ホセマリア『永遠の司祭』1973年4月13日(『教会を愛する』p. 61−p. 80)

31 ローマミサ典書、ご聖体の祝日の続誦『Lauda Sionシオンよ、たたえよ』

32 聖ホセマリア、1973年3月28日手紙7.

33 聖ホセマリア『知識の香』153.

34 トレント公会議、第13総会『聖体についての教令』第4章(『カトリック教会文書資料集』1642)

35 パウロ六世、1968年6月30日『神の民のクレド』、ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』15参照)

36 たとえば、ピオ十二世、1947年11月20日、回勅『メディアトル・デイ』、パウロ六世、1965年9月3日、回勅『ミステリウム・フィデイ』(信仰の神秘)、ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』、『カトリック教会のカテキズム』1322−1419などを参照

37 第2バチカン公会議『神の啓示に関する教義憲章』10参照

38 聖ホセマリア『知識の香』84.

39 同上109.

40 同上6.

41 聖ホセマリア、1973年3月28日手紙10番.

42 聖ホセマリア『知識の香』80.

43 同上6.

44 聖ホセマリア『拓』817参照

45 聖ホセマリア『知識の香』155.

46 トレント公会議、第22総会『犠牲としてのミサの祭儀について』第2章(『カトリック教会文書資料集』1743)

47 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』12.

48 トレント公会議、第13総会『ご聖体についての教令』第7章 (『カトリック教会文書資料』1646~1647)

49 聖ホセマリア『道』533.

50 同上

51 聖トマス・アクィナス、Colacion 4 sobre el Credo.

52 同上

53 聖ホセマリア、1931年3月24日手紙61.

54 聖ホセマリア『永遠の司祭』1973年4月13日(『教会を愛する』p. 61−p. 80)

55 聖ホセマリア『道』509.

56 聖ホセマリア『鍛』887.

57 同上556.

58 聖ホセマリア『十字架の道行』第12留「黙想のしおり」4.

59 聖ホセマリア『道』876.

60 聖ホセマリア『神の朋友』232.

61 同上

62 聖ホセマリア『鍛』827.

63 聖ホセマリア、1973年3月28日手紙7.

64 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』14.

65 聖ホセマリア『十字架の道行』第5留.

66 聖ホセマリア、1972年6月25日団欒のメモ

67 聖ホセマリア、1937年4月9日説教のメモ

68 聖ホセマリア『神の朋友』301-303.

69 同上249.

70 聖ホセマリア『鍛』835.

71 聖ホセマリア『知識の香』154.

72 同上129.

73 聖ホセマリア『永遠の司祭』1973年4月13日(『教会を愛する』p. 61−p. 80)

74 聖ホセマリア『鍛』542.

75 聖ホセマリア『道』23.

76 聖ホセマリア『拓』688.

77 ピオ十二世、1947年11月20日、回勅『メディアトール・デイ』69

78 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与えるご聖体』12.(トレント公会議第総会『犠牲としてのミサの祭儀について』第2章、『カトリック文書資料集』1743参照)

79 『カトリック教会のカテキズム』1364.

80 聖ホセマリア、1970年5月22日団欒のメモ

81 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』11.

82 聖ホセマリア、1960年4月14日説教のメモ

83 聖ホセマリア『知識の香』86―87.

84 聖ホセマリア『鍛』541.

85 聖ホセマリア『知識の香』88―91参照

86 聖ホセマリア『鍛』69

87 ローマミサ典書、ご聖体の祝日の続誦『Lauda Sionシオンよ、たたえよ』

88 聖トマス・アクィナス『神学大全』III,q.79,a.1.

89 大聖レオ『受難に関する説教』12,7(PL54,357)

90 『カトリック教会のカテキズム』1396.

91 エフェソ公会議、431年(『カトリック教会文書資料集』262)

92 聖ホセマリア『神の朋友』296.

93 聖ホセマリア、1975年3月19日説教のメモ

94 聖ホセマリアConversaciones con Mons. Escriva de Balaguer (会見記) 123

95 聖ホセマリア『十字架の道行』第11留「黙想のしおり」4.

96 第2バチカン公会議『教会憲章』3.

97 ヨハネ・パウロ二世、1984年12月2日、使徒的勧告『和解とゆるし』31,1参照

98 聖ホセマリア『鍛』828.

99 同上834.

100 聖ホセマリア『道』536.

101 聖ホセマリア『道』534

102 同上321.

103 聖ホセマリア『知識の香』122.

104 聖ホセマリア、1970年4月4日団欒のメモ

105 聖ホセマリア『道』541.

106 聖ホセマリア、1934年4月1日Instruccion 3.

107 ドン・アルバロ、1978年6月16日手紙.("Cartas de familia", I, n.28).

108 同上 n.31.

109 同上 n.32.

110 聖ホセマリア『鍛』826.

111 聖ホセマリア、1968年10月6日団欒のメモ

112 第2バチカン公会議『典礼憲章』47.

113 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』19.

114 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』18.

115 聖ホセマリアConversaciones con Mons. Escriva de Balaguer, 113(『教会を愛する』81-97『愛すべき天地』)

116 聖ホセマリア、1975年3月27日説教のメモ

117 ヨハネ・パウロ二世、1995年3月25日、回勅『いのちの福音』2参照

118 聖ホセマリア『十字架の道行』第6留、「黙想のしおり」2.

119 聖ホセマリア、1973年12月25日説教のメモ

120 聖ホセマリア『道』432.

121 聖ホセマリア『鍛』267.

122 ヨハネ・パウロ二世、2003年4月17日、回勅『教会にいのちを与える聖体』53-58参照

123 聖ホセマリア『知識の香』89.

124 ヨハネ・パウロ二世、回勅『教会にいのちを与える聖体』57.

125 聖ホセマリア『道』495.

126 聖ホセマリア、1974年6月6日ある対話のメモ

2004年10月6日