「生命の擁護者」としてのあり方

―命を軽視しているような人をどのように助けるか、極限状態に直面して中絶、安楽死などの悲劇的な解決法を選んだ人たちをどのように導くか―

第4回プロ・ライフ世界会議

(スペインのサラゴサで2009年11月6日に開催)での講演

「生命の擁護者」としてのあり方

―命を軽視しているような人をどのように助けるか、極限状態に直面して中絶、安楽死などの悲劇的な解決法を選んだ人たちをどのように導くか―

ナバラ大学神学部教義神学教授 ユタ・ブルッグラフ

始めに

ドイツ人作家カリン・ストラックを思い出します。彼女の生涯の終りの頃に知り合い、友だちになりました。早世(2006年帰天)しなかったら、必ずやこの生命に関する会議に出席していたはずです。

カリンは長年小説家として名声を馳せていました。大学時代には共産党員として熱心に活動し、その後、自由恋愛と同性愛を推奨していました。夫も恋人も持たず、4 人の子どもたちと過ごすことを決意していました。ある日、5番目の子どもを中絶しました。宗教も持たず伝統的な倫理規範にも気を留めることなく過ごしていたにもかかわらず、自分のやってしまったことに心底驚愕したのです。そして、1992年、作家としての感受性からこの苦悩を『夢に現れた私の息子』という本にまとめました。

この本を出版したことで、彼女の生活は根本的に変わりました。これまで彼女に好意的だった大手の出版社だけでなく、著名な雑誌社、ラジオやテレビも、彼女をボイコットしてしまったのです。カリンは全く孤立状態になり、人々から顧みられなくなりました。そして、次第に深まっていく現代社会の病を、身をもって知るようになりました。

彼女は急進的で勇敢な女性でした。社会的な安寧のためだけ、間接的だけであったにしろ多くの中絶を支援していたことに気づくと、四人の子どもたちと彼女は名声を放棄しました。ところで、数週間後、末っ子と一緒に交通事故に遭ってしまったのです。彼女も子どもも危篤状態に陥り、様々な手術が必要で、長期間の入院を余儀なくされました。彼女の経済状態からするとそれは大変なことでした。カリンは困窮していたからです。

しかし、彼女は一人ではありませんでした。ドイツ、スイス、オーストリアのプロ・ライフのグループと、中絶に反対する彼女の本を読んだ多くの人たちが、カリンを助けるためのネットワークを作り、彼女を精神的にも経済的にも援助しました。そして、抜本的に生活を変えて再出発する力を彼女にもたらしたのです。カリンはこの世を去る少し前の手紙で私にこう語りました。「今、私は他の人たちの家庭を清めています。私もそろそろ学び終えていい頃だと思っています。私はもう著名人ではなく、また著名人になりたいとも思っていません。ついに私は平和を得たのです」と。

カリンを助けた人たちに目を向けることにしましょう。彼らは困窮していた彼女を経済的に助けました。が、それ以上に、痛ましい状況にあった彼女に、新たな喜びと新たな希望をもたらしたのです。彼女をよりよい生き方に目覚めさせ、全面的に彼女の命を守ったといえるでしょう。

これから話すことは、「命の擁護者」として、圧力団体や政治的なグループに対して言うためではなく、パンフレットに書いたり、何らかの組織を作ったりするためでもありません。ただ、皆さんと共に、「反対派」の人たち、つまり中絶経験者、あるいは中絶や安楽死を願っている人に対する、私たちの日々の振る舞い方について考えてみたいと思っています。

「擁護者」のある人たちは会を組織していますが、そうでない人もいます。命を守るためにグループに属することはよいことですが、必ずしも必要なことではありません。グループの力はそのメンバー一人ひとりの人間性によることを忘れてはなりません。ですから、効果的に命を護ろうと思うのなら、まず私たち自身を守ることから始めることが非常に大切です。

I. ふさわしい態度

私たちは皆互いに異なった人間ですし、生活環境も違います。さらに、一人ひとりの振る舞い方もそれぞれです。しかし、命を守る方法の中で「擁護者」各自が培うべき共通の要素がいくつかあります。

1. 剛毅

今の世で密かにあるいは白日のもとにまかり通っていることに対して、命の尊厳を主張するためにかなりの勇気と強さが必要です。いくつかのことをお話しします。

ベルリンの壁が崩壊した時、東ドイツは、突然、新しい法律の下に自由な国となりました。そして、秘密警察の書類が公開されたのです。数多くの恥知らずな問題と共に、市民には知らされていなかった多くの特別に重要な事実が発覚しました。ドイツ共産党の秘密警察は西ドイツにおける公衆道徳や私生活での道徳の荒廃に注目していました。そして、人間の尊厳や、結婚と家庭の尊厳を守ることにブレーキをかけるために必要な方法を入手したのです。例えば、誰かがテレビやラジオ、あるいは新聞に命を守るための発言をすると、あらゆる報道機関から辛辣な批判を浴びせられました。厳格で高慢な「ファシスト」と呼ばれました。そして軽蔑され、からかわれ、最終的に黙殺されたのです。多くの批判が偽名でドイツ共産党から届きました。

私たちが命を守るために働くつもりなら、自由で逞しい心が必要です。周りの思惑に振り回されないようにならなければなりません。本物の「擁護者」なら、ばか者扱いされても、落ち着いてそれを受け止めます。現代社会に順応することが「正常」だと考えてそれに順応するよりも、命を守ることのほうがずっと健全です。自身の考える能力や自然さを放棄することなく、困難があるにもかかわらず自身の内的光に従って、人間を卑小化・大衆化し、騙したり操作したりする全てのことに反対するからです。

また、発展途上国では、安楽死が公認される前から、多くの病院で安楽死は習慣的に行われていました。秘密裡に危篤状態の病人を死なせていたのです。当時、知人のピエトの母親は痛ましい病気で瀕死の状態でした。最後の数日間はひどく苦しんでいました。母親を家族全員が見守っている時、主治医が姿を現して皆を見回した後、ピエトを廊下に呼び、こう言ったのです。「聞いてください。あなたのお母さんが安らかに死んでいくように注射をしたいと思います。しかし、あなたが異なる信念を持っていることを知っています。それで、あなたの同意が必要です。問題を作り出さないために」。ピエトは許可せず、医者は注射を断念しました。母親の臨終は長く苦しいものになりました。のちに、ピエトは私に言いました。「私にはこのことがトラウマになりました。母が死んでいくのを見ても助けることができません。そのうえ、家族の者はその苦しみを私のせいにし、私の頑固さを咎めました」と。

現実には極めて厳しい状況があります。よろめいてしまう危険があります。命に関する完全な視点に基づく固い信念を自分のものにしていなかったなら、落伍してしまうこともあり得るのです。

2. 謙遜

「生命の擁護者」はこの世の悪に対立する心づもりでいます。ですから、社会的な名声を失っても、最後まで力を尽くすことには価値があると考えます。

しかるに、私たちは皆、弱い者であり、疲れてしまうことを弁えておくべきです。皆が悪に加担します。第二次世界大戦中、アメリカのトラピスト修道士トーマス・マートンは痛悔の心と共にこう強調しました。「各人、自らの大きな過ちを認めるべきです。私たち皆が何らかの形でこの戦争の責任を負っています…。皆、ヒットラーの業に加担し、彼を力づけたのです」と。

マートンの伝記を書いた人によると、彼は次のことをよく理解していました。「世の中に見られる罪、悪や暴力と同じものが自分の心に隠されていた…。世の穢れは汚い自分の心を写し出したもの」だと。孤独と沈黙のうちに、マートンは自分の中に全人類の惨めさが息づいているのを自覚しました。同時に、彼は愛を焦がれ求める心も持っていました。自分の心の中に世界を見たのです。

こういう体験談を聞くと、人間性を深く見つめるように、また複雑な状況を軽はずみに判断しないように促されます。黒と白の二色だけがあるのではありません。世の中は、大罪人だけでもないし、一方、他人のために歌いつつ死んでいく殉教者だけでもありません。

ヨハネ・パウロ二世教皇はアウシュビツ収容所訪問の際に身をもってこの点をお示しになりました。教皇は、ご自分の数多くの友人や幼い頃の同級生たちが亡くなったこの恐怖の場所にお入りになると、説教をなさることも訓戒をお与えになることもなさらずに、「私は告白します」と、神にご自分の罪の赦しを願うお祈りをなさったのです。

私たちは皆、この世の出来事に個人的に深く係わっているのです。この事実を謙遜に受け入れるなら、自己の奥深くを見つめるようになり、社会の一隅を占めている自分の周りだけでもよりよい環境にすることができます。そうすれば、あらゆる偽りを退けてより清らかな目で、人々の中にある多くのよいものや美しいものを見いだすことができるようになります。

また、ロバート・リー将軍は、ある集会で指揮下のある士官について最高の賛辞を持って話しました。出席していたある兵隊はあっけにとられて言いました。「将軍、あなたが今お褒めになった人は、あなたをこき下ろす機会を狙っている最も質の悪い敵の一人なのをご存じないのですか」。リー将軍は答えました。「知っていますよ。しかし、私が頼まれたのは彼についての私の意見であって、私に対する彼の意見ではないはずです」と。

私たちが謙遜になるよう誠実に戦っている時だけ、人は私たちに心を開く気になるものです。まず自分の欠点や過ちを認めて話すことが大切です。中国の賢人、老子が2500年も前にこう言っています。「河や海が数知れぬ渓流の注ぐ所となるのは、身を低きに置くからである」と。真理を伝えたいと思うなら、このようにしなければならないでしょう。それぞれの人に合ったやり方をすべきです。そうすると、人々は真理を重たく感じることなく、また侮辱的な言葉として受け取ることもありません。一人ひとりの人は、確かにいろんな面で私たちよりも優れています。ですから、私はあらゆる人から学ぶことができます。

3. 傾聴する

謙遜なら、他人と温かく接し、他人の話に耳を傾けることができます。自分の思いをすぐに表さないためには、強さと克己心が必要です。怒ったり咎めたりすることは役に立ちません。それは通常、相手に自己防衛の機会を与え、自己を正当化させてしまいます。辛辣な批判で人を傷つけても、人を正せないばかりか、状況を悪化させてしまうものです。傷つけられることは恨みの原因となり、時には何十年も恨み続け、死ぬまで続くこともあり得るのです。

間違いを犯した時、人は内心その間違いに気づいているはずです。そんな時、私たちがその人に優しく上手に対応することができたなら、私たちの前でもその間違いを認めるはずです。しかし、正しくないことだと必死になって認めさせようとするなら、決して自分の間違いを認めないことでしょう。

落ち着いて振る舞うための秘訣は、人そのものと、その人の振る舞いを混同しないことです。全ての人はその過ちに勝る存在です。アルベルト・カミューが説得力のある例を示しています。彼はフランスにおける蛮行に関するナチ宛の公開書簡でこう語っています。「皆さんのなさったことにもかかわらず、皆さんは人間であり続けます…。皆さんは他の人々を尊敬なさいませんでしたが、私たちは皆さんを人として尊敬するように努めます」と。一人ひとりの人間は、その幾多の過ちにも勝る存在なのです。

私たちの多くは、私たちの考えに人々を同調させようと話しがちです。しかしまずは、当事者が話さなければなりません。抱いている問題について、また戦いや苦しみについて、当事者は私たち以上によく知っているからです。非難されるのではないかと恐れたり遠慮したりせずに話せるような雰囲気、自分の弱点を表明できるような雰囲気を作り出すことが大切です。

難しいことですが、私たちは人々の心の奥深くまで入り込む術を心得るように招かれているのです。言っていることだけではなく、言いたいと思っていることを推し量り、言葉だけではなく、言葉に込められたメッセージを聞き取らなければなりません。度々、ゴミ箱の役割を担うことが求められます。この「ゴミ箱のような聴き手」が非常に少なくなっているので、多くの苦しむ人たちが孤独に陥っているといえるでしょう。破滅的な感情と恐ろしい経験でいっぱいになっているのに、誰にも話すことができないからです。

私たちが上の空で話を聞いているような態度をとるなら、話している人の話の腰を折ってしまうことになります。これはあるまじき態度です。そのような態度では、話している人を助けることなどできません。相手は、話したいと思っている自分の考えや体験を言い尽す前に、そっぽを向くことになるでしょう。まず私たちのすべきこと、それは助言ではなく相手に寄り添うことです。

落ち着いて最後まで相手の話を聞かなければなりません。人が言い残している言葉こそ、決定的な言葉であり得るのです。まさに、そうだからこそ、それを引き出さなければならないのです。それゆえ、グアルディーニは忠告します。「『見、聞き、感じるため』の練習をしなければなりません。表明された気持ちや考えの後ろには多くの気持ちや考えが隠れています。隠れていたことが最終的に明かされても、さらにその後ろには隠れている事柄があるものです」と。対話が上手だと言われる人は、立派に話す人ではなく、他人の言うことに関心を持って聴く人です。

4. 理解する

懐胎したのに中絶を強制されて自暴自棄になっていたある女性を思い出します。数週間、助けてくれる人を探しましたが、誰に助けを求めるべきか分かりませんでした。彼女と話したとき、どうして命を守る会で一所懸命協力している友だちに話さなかったのかと尋ねました。すると彼女はこう答えたのです。「無理です。このことに関して話すことはできません。友だちにとっては言語道断のことですし、私たちの友情は壊れてしまうでしょう」。しかし、とてつもない苦しみに陥った人がいたなら、その人のため、その人と共に戦う友だちが必要なのではないでしょうか。フランスのことわざに「同じ罪を犯した者同士の連帯より強いものはない」とあります。

落胆したり失敗や苦悩に陥ったりした時、何にも増して重要なことは理解してくれる人に出会うことです。叱ったり冷たい態度で決めつけたりせず、外見とは異なる人間の内なる思いを共有することが大切です。人間は誰しも、残忍な殺人者でさえ、慰められたりほっとしたりすることを願うものです。アメリカの犯罪者クローリが、度重なる殺人により電気椅子で処刑される直前にこう書いています。「私は疲れきった心、よい心を上着の下に持っている。この心は誰をも傷つけないことだろう」と。その人の生い立ちを知っていますか。幼少時から、内的な空しさや怠け心を助長し、彼を操っていた事柄が分かりますか。何が彼を自暴自棄に陥らせ、憎しみを植えつけたのでしょうか。一人ひとりの考えや行動には隠れた理由があります。この理由を見つけたなら、彼の行動の手がかり、多分、その性格を知るための手掛かりをつかむことができるかもしれません。

様々なひどい状況が溢れている世の中で、私たちは同情できる可能性を見いだすよう招かれています。英国の著述家グレアム・グリーンが書いています。「物事を奥底まで知るならば、星にさえ同情することだろう」と。

もちろん私は、公の裁判に関して述べているわけでも、罰を云々しているわけでもありません。ただ、間違いを犯した人に対する私たち一人ひとりの態度について述べているに過ぎません。日々の生活の中で、他人を断罪することも他人の意向を裁くこともすべきではありません。このようなことを「街中で」つまり公にするとなれば、ファリサイ的と言えるでしょう。それだけでなく、新たな暴力や迫害の渦が始まるでしょう。このような状態から真の解放されて自由になるには、はただ一つ、神の恩恵に助けられて心に触れ、変わるよう働きかけることです。

辛辣なあるいは嘲笑的なコメントは全く助けにならないばかりか、相手をより惨めな状態に陥らせるだけです。逆に、心から相手に関心を持ち、相手の人となりや状況を気遣うなら、相手も好意的に応えてくれます。理解することは健全な結果をもたらします。

一人ひとりの人は、自分が受けるに値する愛以上の愛を必要とし、また思ったよりもずっと傷つき易いものであると知る必要があります。最も乱暴な人に至るまで、人は生きている間、自らの過ちを悔い、生活を立て直し、成長することができます。「将来のない罪人はなく、過去のない聖人はいない」と諺にあります。

理解するとは、各々は自らが犯したすべての悪とは別の存在であり、善をなし得る人間であると、固く信じることなのです。腐敗しきった人間など皆無です。一人ひとりのうちで光が輝いています。理解できたとき、私たちは次のように言います。「決してあなたはそういう人ではありません。あなたがどんな人かを知っています。実際、あなたはもっともっと素晴らしい人です」と。他人のためにできる限り全ての善を望みましょう。人々の全人格の成長、最高の幸せを望むよう心底誠実に努めましょう。

実際、人々に愛情を示し、希望を与えることのできる人がいるものです。その人がいると穏やかな雰囲気が醸し出されます。そういう人たちと一緒にいると、自分が信頼できる人に委ねられていることが実感できます。人々は自らの失敗にもかかわらず尊重され愛されていることを感じます。こうして、心の重荷を下ろして落ち着き、これまで知ることのなかった価値あることを見いだすことができるのです。

II 友情を培う

過ちや間違い、卑劣さや悪徳に陥っている人がそこから抜け出て、新たな識別を持つよう願うのならば、まずその人と友情関係を築くことが必要です。信頼があれば相手の助言を受け入れ、誰よりもよい友だちであり続けるでしょう。

友情は私たちの生活に新たな光を投げかけ、生活をより潤いのあるものにします。ゲーテはそれを詩的にこう述べています。「世界が、山や川、町だけで成り立っているなら、想像することさえ、限りなく空しい。けれども、私たちには、あちこちに自分に協調する誰かがいること、黙っているとはいえ一緒に住む誰かがいることを知っている。まさにそれだけで、この世は居住可能な楽園になる」と。

現代の特徴とも言える大衆化や匿名状態を前にして、私たちは心温まる場所や家に居るように感じることのできる空間を必要としています。友だちの中で信頼が生まれ、家庭を体験します。祖国と家庭のない現代、多くの人にとって友情は家庭であり祖国なのです。

政党や職業、宗教や国籍の違う友人のいる人は幸せです。その人の前には果てのない大海原が広がっています。様々な人と付き合い、愛しつつ、思いは広がり、心は大きくなります。多くのものを受け、多くのものを差し出します。こういう人こそ、解決策のないような状況に立たされている人を最もよく導くことができます。もちろん、友情を強制することはできません。それは天からの賜物です。しかし、この賜物を頂けるよう努めなければなりません。

1. 不可欠な条件

人の生活の中に大胆に入り込むには、自分自身が平和に過ごしていなければなりません。自分自身とよく付き合い、ある意味で「自分自身の友だち」にならなければならないのです。

中絶を繰り返していた女性を知っていますが、彼女は素晴らしい思考の転換後、命を守るため果敢に働きました。あるとき、私に打ち明けました。「率直に言って、私は自分を憎んでいます。中絶した全ての女性を憎んでいます。この罪を犯した人には、二つの道しかありません。良心の声を沈黙させるために命を守るために戦うか、それとは反対のために戦うかです」と。

しかし、命を守るのは自分自身の問題解決のためではなく、人々を助けるためなのです。私たちの内部に渦巻く苦々しく嫌な思いを伝えるだけなら、人を息苦しくさせるだけで効果的な働きはできません。そんなことをすれば、人々は自分を守るために私たちから逃げていくでしょう。

自分自身に喜びを感じていなければ、どこにいても喜びを感じることはできません。自分自身ときちんと向き合っていなかったら、誰とも真実の出会いは実現しません。自分自身が落ち着いていないのなら、周りに平和を振りまくことはできません。

中絶の経験のある人には、第三の可能性があります。「自分自身の友」になることができれば、落ち着いて命を守ることができるということです。ところで、どのようにすれば、そうできるのでしょうか。友情には真に誠実な態度が不可欠です。嘘に基づいて友情を築くことはできません。ですから「自分の友」になるには、正しい意向で振る舞うことが必要です。自身の中に起こってくる大きな問題を押さえつけてはなりません。自身の心を整えて善の方に向け、自らの存在の意義を全面的に捉えるようにしなければならないのです。

人が神と、また自分自身と仲直りすれば、自らの「証言」を、説得力を持って世に発信する幸運を手に入れることになります。これは素晴らしい仕事であり、償いの機会でもあります。これはまた、日毎に自身の傷を深みから癒すための方法でもあります。

2. 優しさの価値

私たちの会話には力を示す二つの形があります。相手を突き落とすか、あるいは引き上げるか、言い換えれば、破壊的な態度か建設的な態度で振る舞うかです。

攻撃的な言い方や皮肉、横柄で無愛想な言葉、権力を誇示したり人を非難したりすることは、破壊的な態度です。そのような態度では、反抗心を起こさせ、時には公然と反逆が生じます。

相手を打ちのめすためのテクニックなど必要ではありません。どんなことでも相手を打ちのめすことができます。時には立腹よりも無関心によって人は傷つきます。高い代償を払わなければなりません。議論すると、対立し、反論し、よそよそしくなってしまいます。内心のざわつきに引っ張られるままにしていると不快感を与え合うことになります。時には、何らかの勝利を手にするでしょうが、それは空しい勝利です。人は自分の意思に反して強制されても意見を変えることはありません。そして自分がはまり込んでいる悪の輪から抜け出さずに相手を非難する傾向が出てきます。

確かに強制的な態度で悪を避けることもあるでしょう。たとえば、無罪の人の死を回避することなどです。しかし、それは人を善に向かわせるためのふさわしい手段ではありません。普通の場合、強制によって得た変化は、心からのものではなく長続きしないものです。誰に対しても、よくなれと強要することはできません。

中国人は「静かに歩む者は、素晴らしいことを極める」と言います。同じことを「太陽と北風」の寓話も語っています。太陽と北風の間で、どちらが強いかと議論が始まりました。まず北風が言いました。「向こうからマントを羽織った青年が来ます。賭けてもいいですが、あなたより私の方が早くマントを脱がすことができますよ」。北風は、全力で青年に吹きつけ、まるで台風のように、吹き荒れます。ところが全力で吹きつければ吹きつけるほど、青年はいよいよ強くマントに包まります。ついに北風は静まり、敗北宣言をします。そこで太陽が青年に微笑みかけます。それほど経たないうちに暖かくなり、青年はマントを脱ぎました。

確かに、優しさは猛々しさよりも力があります。心を通してのみ、相手の知性に訴えることができます。相手が私たちを避けるなら手の施しようがありません。私たちにとって最も重要なことは、相手を心から愛し、相手の幸せを望むことです。それを相手が感じ取ったなら、そのときこそ、友人になる可能性が生まれるときです。こうして、一人ひとりが相手の言葉に耳を傾け、一人ひとりが相手から学ぶことでしょう。

他人に対する先入観をなくすとき友情が生まれ、その友情は深まります。友情は、非常に親密に時間とともに育まれるものですから落ち着きと強い感受性を必要とします。愛する人は、自分自身の命、自分に備わっているものなど、相手に与えるものです。喜びや悲しみ、夢や失意、経験や計画、考えや出合った真理を、喜んで分かち合います。一言で言うなら、自分に関することを全て話そうとします。そのような雰囲気があるなら、あらゆることを、自分の過失がどれほどひどかろうと、全てを話す気になるものです。

3. 真理を伝える

人との交わりを建設的なものにするには、すでに双方の間にあるつながりを積極的に深めるようにすることが大切です。相手のよい点を見なければなりません。私たちは皆、他人から期待されていることに従って行動しがちだからです。だから、世間にはこんな金言があるのです。「ある人に善人になってもらいたいなら、すでにその人が善人であるかのように相対しなさい」。

私たちは常に自分の言葉で話さなければなりません。使い古された言い回しでは、そっぽを向かれてしまいます。言葉というものは、最良の例に至るまで、使われ過ぎると陳腐なものになってしまうことを忘れてはなりません。命を擁護するため主張されている言葉も、度々使われると印象が薄くなってしまいます。同じことを言い表すにしても創造性のある言い方を考える必要があります。

相手を真に愛する人は相手の犯した悪を軽く見たり見過ごしたりはしません。それぞれの状況に合わせて、誠意をもって道徳的に要求されていることを伝えるように努めるでしょう。偽りの約束を求めたりはしません。偽りの約束では、恒久的な平和をもたらさないことを知っているからです。ナタリア・ホルストマンとエンリケ・スエイロが強調しています。「基本的な倫理規範を避けるのは正当なことではありません。善いことがあり悪いことがあります。その善性と悪性は人々の合意のもとに決められるものではありません。タバコが人に有害なのは箱にそう書いてあるからではない。男尊女卑が忌むべきことだというのは政府がそれを禁じるからではない。いずれもそれ自体が害を及ぼすのであって、誰かがそう言うとか言わないとかの問題ではない」と。

一見苦々しく思うことであったとしても、人には真実を知る権利があります。それゆえ、私たちは寛大な人たちのお陰で手に入れることのできた光を、他の人にもたらす重大な義務があるのです。

同様に、人々とのあらゆる関わりを誠実なものにするには、自分がどんな人間であるかを知らせることが必要です。私が相手を知りたいように、相手は私を知りたがっているのです。私たちが違いを表さないようにするなら、誰もそれを口に出さなくなってしまいます。そうすると、平穏な状態が暫くは続くでしょうが、それは外面だけのことで、心の底ではお互いにあるがままの状態を受け入れていないのです。そして私たちの関わりは日毎にますます外面的なものになって失望し、遅かれ早かれ関係は壊れてしまうでしょう。

錯綜した関係ができてしまうと、誰の助けにもなりません。ですから、真理を明確に、できる限り完全に説明することが必要です。私たちが細やかに相手を尊重しつつ振る舞うなら、友だち関係は難しくならないばかりか、友情は深まっていくのです。「愛に欠けることを真理として受け入れてはなりません。また真理に欠けることを愛として受け入れてはなりません。いずれが欠けていても破壊的な嘘になってしまいます。」これは哲学者ユデット・シュタインの言葉です。特に命を守るため、ふさわしい言葉のように思えます。全ての真理が偽りと混ざり合わされると、偽り以外の何ものでもなくなるのです。

4. 障害を乗り越えるよう助ける

ソクラテスは、誰にも何も教えないのがよいといいます。この偉大な先生は同時代の人たちを自ら見つけた真理に導いていました。彼の方法は人間の心を深く理解していたことを反映しています。度々、私たちは人々が便宜を図って伝えてくれたことよりも、自分のやり方で見つけ出した真理を重要視するものです。

心理学では「奪われた意向」というものについて話します。熱意を込めて何かをしようと思っているとき、誰かがそれは確かにあなたがすべきことです、などと言おうものなら、とたんにやる気をなくしてしまいます。そのとき私は仕事の立役者ではなく、部下のように感じるのです。することを決意した事柄について、他人から命令されることを喜ぶ人は誰もいません。

このように、何よりもふさわしい事は、当事者の高貴な動機を大切にし、当事者自身でよいことをしたり悪いことを痛悔したりするように助けることです。落ちた井戸から出ようと決断することはその人自身であり、またそうでなければなりません。これは、友の傍らに寄り添うことによって可能になります。人は友の傍らにいるとき、本物の自分自身との関係を打ち立て、自らの心に誠実なものと真なるものを受け入れることができるのです。山の空気に包まれていると感じ、そのお陰で普段とは異なった呼吸ができるのです。普段どおりにそれぞれのやり方で呼吸できているお陰で、山の清浄な空気に包まれているように感じます。その空気のお陰で、そこにある崇高で高貴なものとの交わりが築かれていきます。

私たちの役目は何よりも、人の最も親密で真実な思いと関わり、その心に秘めている衝動を表すよう勧めることです。私たちが傍らにいて助ける人であることを、認めてもらえたら、そのときこそ私たちは救いの道が実現可能であるという固い信念を伝えることができます。

夜の闇に包まれていても、よき友は元気づけ光と希望を与えます。大きな過ちを犯して意気消沈している人をそこから抜け出るよう助けます。自らの過ちとそれから波及している全てのことを認める強さと立ち上がる力を与えます。そして、あらためて生きる決意の素晴らしさに気づかせます。日本のことわざにあります。「旅は道連れ、世は情け」。

結び

命を愛することは、度々、勇気と剛毅、正義のうちに表われます。同時に、謙遜、傾聴と憐れみによって示されます。いつも真理を擁護しますが、その最もよい面は、本物の友情が築かれることです。

私たちは、身体的に命を失う危険にいる人にも、霊的に命を奪われる危険のある人にも、生きてほしいと望んでいます。誰もが私たちの心遣いを必要としています。そして、悪事を働いた人はその害を被った人よりももっと傷ついていることを忘れてはなりません。

こういうわけで、中絶された子どもとや安楽死で世を去った老人よりも、ひょっとすればもっとずたずたになっている犠牲者たちに目を向けてお話ししました。中絶や安楽死の責任者たちにも命について考えてもらいたいと思います。彼らが自らの過ちから抜け出て、自分の行動を見直すよう助けなければなりません。それとともに、「真理は強要されるものではなく、真理自体の力によって」伝えられることを、しっかりと認識している必要があります。

「擁護者」が、全ての人の最もよい点を見抜き、悪事を働いた人と出会うことに慣れると、自分自身の生活をも高めることになるでしょう。人々との誠実な付き合いは生き方を向上させるものです。アイディアが豊かになり、ますます力強くなります。「擁護者」はより深く愛することができるようになり、より正しく導くことができるようになります。混沌とした世の中で、理解するための知恵、戦うための忍耐、そして言葉に尽くせない喜びを身につけることができるでしょう。それらは、人々を暗闇から光へ導くための熱意からもたらされるのです。その生き方を要約すると、アントニオ・マチャドの有名なモットー「考えは高く、思いは深く、話は明確」ということになります。

ユタ・ブルッグラフ