1974年9月1日、3ヶ月に及ぶ中南米諸国への旅行からマドリードに帰った聖ホセマリアは、疲労困憊でした。健康診断をして休息を取るよう指示されました。その間もできる限りメンバーと話すか機会を持ちました。1月の初旬の団らんで「私はもうすぐ73歳だ。私はこの世から去ろうとしている」と言っています。その後、視力をほとんど失ったり、心臓の発作で倒れたりしながらも、治療と休息のおかげで外見上は元気を回復していき普段の仕事ができるまでになりました。そこで、中南米の旅行を再開することにしました。医者たちは、医者を付き添わせスケジュールに十分余裕をもたせること、そして1500メートル以上の高地は避けることを条件に旅行の許可を与えました。
1975年2月4日ベネズエラの首都カラカスに到着。今回は大勢の人々との団らんにも臨みました(写真上)。いつもように様々話題がでましたが、当時激しくなっていた貧富の差の問題にも触れました。ベネズエラは石油産油国として豊かになっていましたが、同時に大勢の貧困者を抱えていました。どうすれば子供を健全に育てることができるかという父親の質問に対して、創立者はこう答えました。「私なら、子供を散歩に連れて行きカラカスという大都市の周囲に広がるスラム街を見せます。子どもたちが、貧しさのために人間らしい生活のできない人が一人もいなくなるようにと考えながら、自分の財産を上手に管理するように導いてください」と。そして、他の人々の苦しみに無関心でいてはいけない。みんなが社会に愛と正義が広がるよう働く必要がある、と強調しました。
15日には中米グアテマラに移動。2月19日に行われたメンバーとの団らんでは、ちょうど霊名の祝日にあたっていたドン・アルバロにお祝いを述べその長年にわたる忠実な奉仕に皆の前で感謝を表しました(写真下)。しかし、体力が尽きました。もう健康を回復する見込みはありませんでした。そこで23日帰路につきました。空港では枢機卿の強引な頼みを受け、見送りにきていた大勢の人々に祝福を与えました。

3月28日は司祭叙階金祝です。このころ過去の思い出を話すことが増えてきました。