教皇様は「見捨てられた聖櫃の使徒」を列聖されました。

10月16日(日)、教皇フランシスコは福者マヌエル・ゴンサレス司教を列聖されました。新聖人は20世紀前半、スペインのマラガとパレンシアの司教を務め、彼の聖体への愛は世界的に知られていました。聖ホセマリア・エスクリバーの友であり、聖体への信仰の模範でもありました。

20世紀前半のスペインの教会で最も知られた人物の一人であったマヌエル・ゴンサレス司教は、見捨てられた聖櫃の使徒と呼ばれました。聖体への信仰の模範として、2001年、聖ヨハネ・パウロ2世により列福され、その15年後、慈しみの聖年の終りに列聖されました。

聖マヌエル・ゴンサレスは1877年、スペインのセビリアで生まれました。司祭叙階後、パロマレス・デル・リオ(セビリア)とウエルバで働きました。当時、スペイン社会は混とんとしており、宗教に対する無関心が広がっているました。その中で、聖人は愛とすぐれた賢慮もって、信心の道を開拓しました。

司祭となったこの聖人の教えに際立っていたことは、「聖体化する」という言葉を「発明」したことだと、専門家たちは言います。それは、「人々がキリストから湧き出る命を生きるために、人々のために躍動しているイエスの聖心に人々を導き入れ、皆を聖体に近づける」という意味なのです。

マラガ、マドリード、パレンシア

1916年、マラガの司教となりました。特に力を注いだことは司祭の養成でした。彼の挑戦の一つは、「聖体が中心となり、できる限り大きな影響を与える神学校を築く、すなわち、本質的に聖体的な神学校の建設」だったのです。

1932年にはマドリードへ移ります。このマドリード滞在中、聖ホセマリアは司教をしばしば訪れました。二人の友情は、その後も絶えることがありませんでした。

1931年、スペインに反キリスト教的な共和制が樹立すると、彼はマラガを離れることを余儀なくされ、ジブラルタルに移りました。その後、1932年にはマドリードへ移ります。このマドリード滞在中、聖ホセマリアは司教をしばしば訪れました。二人の友情は、その後も絶えることがありませんでした。ゴンサレス司教に良き牧者の姿を見た聖ホセマリアは、まだ司教が生きていたときにも、彼のことを「聖人」と呼んでいました。

マヌエル・ゴンセレス司教とオプス・デイ創立者 from Opus Dei

1935年、パレンシアの司教に任命され、1940年1月4日に当地で帰天。パレンシアの大聖堂に葬られました。聖体の小聖堂にある彼の墓には次の言葉が刻まれています。「聖櫃のそばに葬られることを願う。生前、私が舌と筆で訴えていたように、死後も私の骨がここを訪れる人に言い続けるように。『そこにイエスがおられる!そこにおられる!イエスを見捨てないでください!』」

『道』に記された信仰の模範

『道』の531番には、聖マヌエル・ゴンサレス司教と聖ホセマリアの友情が表れています。「『わが主を大切にしてください。お願いします』と、老司教は、涙を浮かべて、叙階されたばかりの司祭たちに語っていた。主よ、多くのキリスト者の耳と心に、同様に叫びかける声と権威がほしいと思います。」

この「老司教」とは、聖マヌエル・ゴンサレスのことであると聖ホセマリアはしばしば説明していました。その深い聖体への信心ゆえに大変尊敬していたのです。その司教の言葉と執筆から、聖ホセマリアも多くのアイデアを引用していました。 。ゴンサレス司教に良き牧者の姿を見た聖ホセマリアは、まだ司教が生きていたときにも、彼のことを「聖人」と呼んでいました。

スペイン内乱が勃発してからも、二人の友情は続きます。1938年、聖ホセマリアがブルゴスに落ち着くと二人の付き合いが再開しました。その2年後、聖マヌエル・ゴンサレス司教は帰天します。その際、聖ホセマリアは司教の秘書に手紙で送り、次の依頼を書き添えました。「マヌエル司教様の思い出になるものいただけましたら、私にとってどれほどの喜びであるか、ご理解いただけるものと存じます。このような厚かましいお願いをできるでしょうか?」

この「老司教」とは、聖マヌエル・ゴンサレスのことであると聖ホセマリアはしばしば説明していました。その深い聖体への信心ゆえに大変尊敬していたのです。その司教の言葉と執筆から、聖ホセマリアも多くのアイデアを引用していました。

今でも、聖マヌエル・ゴンサレスが創立した「償いの聖体の家族」に属する男女の信徒、司祭、修道者、子どもたちや若者たちの生活を通して、新しい聖人の聖性は輝き続けています。