「オプス・デイの重みと神様の力」

ハビエル神父との対談は二時間半に及んだ。インタビューをしたとき、ハビエル神父はまだ属人区長(プレラートゥス)に選ばれてはいなかったが、この記事が世に出る頃にはそうなっているだろう。エチェバリーア神父は、表情をほとんど変えずに話す。動作や身ぶりにも地味である。その性格や率先力、力や熱情を内に秘めている。会談中、ずっと両手は静かに置かれたままだった。知的で鋭く見通すようで生き生きとした視線。それが全てを物語っていた。

ハビエル・エチェバリーア神父とのインタビュー

「エポカ誌」ピラール・ウルパノ、1994年5月

ハビエル神父との対談は二時間半に及んだ。インタビューをしたとき、ハビエル神父はまだ属人区長(プレラートゥス)に選ばれてはいなかったが、この記事が世に出る頃にはそうなっているだろう。エチェバリーア神父は、表情をほとんど変えずに話す。動作や身ぶりにも地味である。その性格や率先力、力や熱情を内に秘めている。会談中、ずっと両手は静かに置かれたままだった。知的で鋭く見通すようで生き生きとした視線。それが全てを物語っていた。

Q1.神父様についてはほとんど何も知りません。どこで、どのような家庭にお生まれになったのですか?

A.1932年6月14日、マドリッドのフォルトゥニー通りで生まれました。父はマドリッド大学工学部の教授をしていました。兄弟の中で誰も工学部に進んだ者がいなかったので、父は、私がその道へ進んでくれたらと考えていたようです。私が工学部に入る準備をするために、一冊の本を書いたぐらいです。しかしながら私は文系の方が好きでした。父は私が数学を勉強するのを手伝ってくれました。そして、どんな問題であっても、いつも三つか四つの解決法を示してくれましたが、そのことが私に数学に対する嫌悪感を持たせました。それで、法学部を選んだのです。

Q2.弁護士を目指しておられたのですか?

A.いいえ。私は、祖父のように株の売買をしたかったのです。金を稼いで、良い暮らしをしようと考えていました。その後、神様が私の人生に入ってこられ、計画を変更しました。ここローマのアンジェリクム大学で教会法修士課程、ラテラノ大学で法律の博士課程を終えました。

Q3.ご兄弟は何人ですか?

A.十一人になれたのですが、生まれたのは八人だけです。現在、私は生きている七人の中で末っ子です。だから、甥や姪の五十人近い子供たちがいます。自分の孫のようなものです。私の家族は元々ギブスクワ出身でしたが、私の祖父母の時代からマドリッドに住んでいます。

Q4.スペイン内乱について何か覚えておられますか?

A.内乱中は、エリソンドとサン・セバスチャンにいました。マドリッドのアパートの門番が私たちのことを密告したと聞いて、そこへ逃げたわけです。当然、エスパニョレト通りのそのアパートにはすぐに捜索の手が伸びました。そのころ、私はまだ幼かったので、いくつかの断片的な思い出しかありません。例えば、家族が戦争の状況を把握するためにラジオを聞いている様子などです。また、相手側に対し怒りや憎しみなど少しもなかったことを覚えています。私の両親が望んでいたことは、ただ共産主義者たちによる迫害が一日も早く終わることだけでした。

内乱中は、マリア会の学校に通っていました。マドリッドに戻ってからは、ガルシア・デ・パレデス通りにあるマリスト会の学校に行きました。そこは、エスクリバー神父がオプス・デイを『見た』場所のすぐ側でした。しばらく後、その学校は、あの「ザリガニ」電車が通るシスネ大通りと呼ばれていたエドゥアルド・ダト通りに移転しました。

偶然、私が小さい頃に住んでいた同じアパートにオプス・デイの一つのセンターがありました。マルティネス・カンポス通り15番です。そこから別の場所に引っ越したときのことをよく覚えています。1940年か1941年のことだったでしょう。門番のおじさんは、次のように説明してくれました。「あそこは何かの事務所で、何人かの人も住んでいるんだ」。きっと何か他にも知っていたでしょうが、それしか言いませんでした。不思議なことに、それが私の記憶に残っています。ずっと後になって聞いたことですが、創立者はその家を頻繁に訪れ、エレベーターに乗る代わりに階段を使って上り下りしていたそうです。ひょっととすると何度か創立者と階段ですれ違ったのではないか…、そして私の守護の天使に召し出しのことを祈ったのではないか…と思いました。誰かが側を通るときによくそうしておられましたから。

Q5.どのようにオブス・デイを知られたのですか?

A.私の一人のいとこがオプス・デイのメンバーでしたが、彼に尋ねようとは一度も思いませんでした。1944年、「カトリシスモ」誌に、司祭に叙階されるオプス・デイの最初の三人(工学部出身)についての記事が出ました。私の友人の一人が1948年に偶然その雑誌を目に留め、6、7人の友達に見せました。それはとても目新しいことで、私の友人たちは本当に興味をそそられました。しかしながら、正直に言って、私はそうでもありませんでした。ある日曜日、6月6日、映画を見に行く予定でしたが、一人が私に電話をして計画の変更を提案しました。「ディエゴ・テ・レオン通りのオプス・デイの寮まで、オプス・デイとは一体何なのかを探りに行かないか?」そして、我々6人で行ったわけです。非常に暖かく迎えてくれました。六人のグループではなく、各自に一人のメンバーが付いてくれ、知りたいことをなんでも尋ねることができました。そこから出るとき、私のポケットには、当時列福調査が始まったばかりのイシドロ・ソルサノの出来たての祈りのカードが入っていました。イシドロは、オプス・デイのメンバーでエンジニアでした。そして、まねることが可能で魅力的な「信徒の聖人」に思えました。

それは、父が亡くなる前の日の午後のことでした。夏の休暇をサン・セバスチャンで過ごす準備をしていたとき、父は心臓発作に襲われました。私たちがその知らせにあまりショックを受けないようにと、まず父が重体だと知らされたため、もらったイシドロのカードを父のために祈ったのを覚えています。その夏はマドリッドに残りました。それまで一度もそうしたことはありませんでした。そのことは、私がオプス・デイのセンターに頻繁に行くきっかけになりました。また、偶然ですが、エチェバリーア家が新たに引っ越した同じ通り(エスパニョレト通り)にオプス・デイのセンターがあったのです。その青年向けセンターは「エスパニョレト」呼はれていました。そこに行くたびに、何かの用事を頼まれました。ペンキを塗り直すために古い椅子にサンドペーパーをかけたり、家の飾り付けに手を貸したり、修理の手伝いをしたり、というようなことです。自分が他の人のために役に立つこと、そのように扱ってもらえるということが、とても気に入りました。そして1948年の9月8日にオプス・デイに入る許可を願い出ました。十六歳の時でした。

Q6.何があなたを引きつけたのでしょうか?

A.喜びにあふれた雰囲気です。よく勉強し、よく働き、みんなとても朗らかでした。また、身分を変えることなく自分の職業において自分を聖化できるという点。そして、たくさんの人にキリストをもたらすことができるという広大な展望も気に入りました。それに、私は小さいときから人好きで、たくさんの良い友達に囲まれているのが大好きだったからです。

Q7.オプス・デイ創立者との出会いはどうでしたか?

A.パドレは1946年からローマに住んでおられましたが、度々スペインに来られました。1948年の11月、スペインに来られたとき、「ディエゴ・デ・レオン」での団欒に呼ばれました。オプス・デイにおけるパドレとの親子関係は、召し出しの根本をなす特徴です。誰に言い含められたのでもなく、私はパドレを知りたいと熱望していました。その団欒には35人ほどがいたのですが、パドレは手紙を書いたばかりの私たち三人を呼んで、その日の午後にセゴビアにある黙想会の家『モリノビエホ』まで行かないか、と誘って下さいました。

古い車に6人で乗り込み、パドレは後ろの席に座られました。私は前の席に、もう一人と席を分け合いながら座っていました。オドン・モレスが運転しました。目的地まで、話し、歌い、笑い、祈りました。パドレは私たちに、世界中でやるべき、そして私たちを待っている数え切れないほどのオプス・デイの使徒職について話されました。また、その少し震えて抑揚のあるバリトンの声で、愛についてのふつうの歌を、神様のために向けながら歌って下さいました。「♪ 私を喜びで満たしてくれる 一つの愛を持っている…」冗談もよく言われました。カーブを曲がって、遠くに古いおんぼろの家が見えると、「ほら、あれがモリノビエホだ!」と言うのでした。それに何度か引っかかり、がっかりしました。ああ、そういえば、私は車酔いで、吐いてしまいました。しかも父の喪中で喪服を着ていたので、それを汚してしまいました。パドレは汚れをきれいにするのを手伝ってくださり、気にしないようにと慰めて下さり、11月というのに窓を開けて旅を続けるようにして下さいました。これほどいっぱいの愛情を注がれ、よく面倒をみてもらったので、ただの「パドレ(父)」ではなく、「パドラッソ(すごくやさしい父)」だと感じました。

「モリノビエホ」ではエルミタ(聖母庵)と聖堂を見て回りました。数人の大学生が、芸大の学生の指導を受けながら、装飾をしていました。聖堂の木製の椅子の背もたれの部分には、聖母の連祷の祈りの言葉や射祷が刻まれていました。私はパドレの聖母に対する優しく、また強い愛に大きな印象を受けました。椅子に刻まれた祈りを一つ一つ、まるで愛する女性に投げかける愛の囁きのように、熱く震える声で口にされたからです。それは、繊細で同時に力強く、霊的で同時に男らしいものでした。それらの言葉を言われるとき、パドレは祈っておられる、ということがはっきりと分かりました。

Q8.ドン・アルバロ・デル・ポルティーリョとは、どこで知り合われたのですか?

A.翌年の1949年、私はオプス・デイの学生寮「グルトゥバイ」に住んでいました。ある朝、背が高くローマ風にラテン語を発音する司祭が私たちのためにごミサをたてて下さいました。私は外国人だと思いました。それがドン・アルバロたったのです。彼はすでにローマに住んでいましたが、マドリッドに立ち寄ったのです。朝食が終わるとすぐに皆大学に行きましたが、昼食の後、団欒がありました。その時のことで二つのことを覚えています。ひとつは、教会と、たとえ誰であれ教皇様への忠実と愛について話されたこと。もうひとつは、彼がバチカンでもらったというチェスターフィールド(たばこの銘柄)を一箱くださったことです。そのころのスペインは戦後の品物が不足していた時代でした。安くてひどい刻みの黒たばこになれている者にとっては、アメリカ製のたばこを吸えるというのは映画に出るような贅沢たったのです。そのうえ、バチカンから頂いたものだから、もっと特別な気がしたわけです。

Q9.あなたが聖ホセマリア・エスクリバーを思い出すとき、どんな考え、どんな体験が出てきますか?

A.現実的で素晴らしいイエス・キリストヘの愛情と、父性とが浮かんできます。私は26年間彼の傍らで過ごすという幸運に恵まれました。そして、たとえ一度も見たことがないメンバーであっても、一人ひとりに対する師の誠実な愛情にいつも驚かされました。自分の霊的な娘や息子に起こったこと、手紙に書かれてあったこと、団欒で語られたことなど全てに興味を持ち、まるで我がことのように感じておられました。なぜなら、私たちをご自分の祈りと犠牲の子供として、本当に愛しておられたからです。たとえ誰であれ、彼との間には、どんなささいな障書物もありませんでした。直接会ったことがない娘や息子の死に際しても、肉親以上の深い気持ちをもって、涙を流し、苦しまれるのを目撃しました。そういう知らせを伝えたときは、頭を垂れ、人間的にはすっかり意気消沈しておられました。

Q10.眼を閉じると、どのような姿が浮かびますか?

A.人々の間で、神様について話す姿…人々と会うために行ったり来たりしている姿…少しの努力も惜しむことなく、自分自身のためには一分も残さずに、全ての時間を使って私たち全員のために自身を捧げておられる姿が浮かびます。私たちの全てを、歯の痛みを、試験のことを、家族についての心配事を、これから出かけるサッカーの試合のことを、全てを自分のことのようにご存じてした。私たちは彼の人生そのものだったのです。

Q11.あなたが44年間ともに過ごされたドン・アルバロについてはどのような姿が頭に浮かびますか?

A.いつも自分を消し去り、創立者のパドレを見て、聞いて、世話できる場所に隠れておられる姿が浮かびます。師から学びたいという望みを持って創立者を見ている姿です。しかも、周りの人たちを引きつけて離さないだけの素晴らしい人間的な才能を持っておられたにもかかわらずです。ドン・アルバロは輝くばかりの知性と、幅広い教養と、優雅な振る舞いと、社交性と高いレベルの思考カと、内的生活の深さと、英雄的に実践し続けた様々な徳ゆえに、へつらいではなく正義から、彼は偉大な人物であったと言わざるをえません。そして、大げさに言っているのではないのです。それだけの人物でありながら、いつも創立者のそばに控え、オプス・デイを実現するために自分のことは全て後回しにしていた姿を見てきました。彼は創立者が指示したことの忠実な実行者だったと言えます。

Q12.聖エスクリバーがあなたに特に目をかけていたというのは本当ですか?

A.私に?いや、いや、それはないです。だぶん、彼の側にいた別の人たちにもっと信頼を置いておられたかもしれません。しかしながら、特にひいきした子供というのは一人もいませんでした。もしいたとするならば、それはドン・アルバロだったでしょう。なぜなら彼は教会とオプス・デイにとって非常に価値のある道具だったからです。そして創立者がよく次のように言っておられたことを思い出さなくてはなりません。「私がドン・アルバロ選んだのではないよ。神様が彼を私のそばに置かれたのです。

私自身は創立者からとても愛されていると感じていました。しかし同時にとても要求されました。度々、私を強く矯正されました。ある時、こうまで言われました。「もし変わることができないなら、もうおまえを信頼することはでさないよ」と。そういう言葉を聞くことはとてもつらいことでしたが、パドレはそうおっしゃるだけの理由を持っておられましたし、私自身にも大変役に立ちました。こういったことがあったにもかかわらず、数年後に私を秘書に任命され、次のように言われました。「どの引き出しを開けてもかまわないよ。おまえに対して何の秘密も持つこともないからね」。それは聖エスクリバー神父の意見が変わったからではなく、私を信頼しなかったことが実は一度もなかったということなのです。しかしながら、私はあくまで皆の中の一人にすぎませんでした。実際そうなのです。

Q13.聖エスクリバーがあなたをローマに呼ばれたのですか?

A.いいえ、私がそう望んだのです。1950年、私はここローマで数週間の研修コースをしていました。そのときパドレが、その年にスペインから7名のメンバーが聖十字架ローマンカレッジにやってくるという話をなさったのです。そこで私が「私もその7名の中に入りたいです」と言うと、パドレはすぐさま「ドン・アルバロと話しなさい。あなたの家族と話して問題がないなら、私の方には何も不都合はないから」と答えて下さいました。母と直接話をするためにマドリッドに戻り、話を付けて、そして、今ここにいるわけです。

Q14.なぜ、聖エスクリバーはあなたを「保護者」に選はれたのですか?

A.さあ、分かりません。一度も尋ねたことがないのです。1955年に私は司祭に叙階されました。

1956年、スイスのアインシュテルンの粗末なファウェルホテルで行われたオプス・デイの全体会議の後、パドレが私にこう言われました。「ハビエル、会議が選んだ9人の中から二人の保護者「クストデス」を選ばなければならない。一人はドン・アルバロでもう一人をおまえにしたいんだが、なってくれますか?」その時、私は24歳でした。そして、私以外にもっと長い時間オプス・デイにいる人たち、つまりもっと経験があり価値もあり、そして私よりももっとその役目をうまく果たすことができる人たちがいることを考えました。しかし、私は神様の恩寵とパドレの判断とに信頼を置くことにしました。役目をお受けしますと答えるとパドレはすぐに「それでは規約書をとって、あなたの役目を完全に果たすことができるように勉強しなさい」と言われました。

Q15.「保護者」というのは、どういう役目なのですか?

A.私に任されたのはパドレについての全ての物質的な面です。つまり靴を買い換えなくてはいけないということから、医者に付き添ったり、旅行の準備をしたり、といったことまで全てです。また、説諭ではありませんが、外面的な面でもっとよくしたりあるいは他のやり方ができることについて何かの助言をすることも私の役目でした。1975年に、ドン・アルバロは私が再びクスドティオになるようになさいましたが、今度は霊的な面についてでした。彼の霊的指導をするということです」

Q16.パドレと二人の「保護者」の三人は、空白を作らない継続を意味するのでしょうか。つまり、一人が亡くなれば、二人が残り、もう一人が加わる穴を埋めるという具合に…

A.いや、それが「保護者」の役割ではありません。属人区長、つまりパドレが一番上で孤独を感じることがないように助けることが、その役目です。また、もっと良い指導者になるよう助けるためでもあります。あなたの言う、その継続というのは、ドン・アルバロと私が「保護者」になってから始まったことです。それまではドン・アルバロだけが変わらず、もう一人の「保護者」は交代していました。

Q17.ドン・アルバロがいわゆる「お人好し」であったと思われますか?

A.とんでもない!ドン・アルバロは素晴らしい人物、聖人でした。そして、他の人々のために自分を捧げ尽くしていました。同時に、非常な強さも持ち合わせていました。オプス・デイを統治するにあたって、どこかの国から頼んできたことに対しての手続きが遅れたときなど「書類を置いたまま忘れることなどできません。お役所的な沈黙ほどがっかりさせることはないからです」とはっきり叱られるのを目にしました。

今から40年前、私はローマンカレッジの会計係をしていました。ある時、収支が合わず、600リラ足りないことがありました。600リラといえば約60ペセタ(50円程度)です。35人もの人間が住む家の会計にとっては、ほとんど意味のない金額でした。「心配いらないよ」とでも言ってもらえると思っていた私にドン・アルバロはこう言いました。「見つけなければいけません。最後の一円まではっきりさせるのがあなたの義務ですから。そのお金はあなたのものではなく、皆の代わりにそれを預かっているだけなのですから。」

あるいは、最近のことなら、彼が属人区長で私が総代理のとき、次のように言われました。

「私たちは人から見られるためにいろいろなことをするのではありません。しかし、私たちのことを皆が見ています。だから、いつも神の現存の下に行動する必要があります。私たちの小さな振る舞いや言葉、ちょっとしたことが、他の人たちのつまずきになることもあれば、他の人たちを神様に近づけることにもなります。」

Q18.二人の聖人がパー(棒高飛びの横棒)をあまりにも高いところに上げてしまったので、これからの後継者にとっては、大変だと思うのですが…

A.確かにとても高いところまでハーを上げてしまったかもしれませんが、同時にとても丈夫なポール(棒高跳びの棒)を残して下さいました。まず、二人が天国から助けてくれるでしょう。また、明確な模範を残してくださいました。創立者ならどうするだろうか。あるいはドン・アルバロならどうするだろうかと考え、それに従うだけで、取るべき方向を誤ることはないでしよう。

Q19.しかし、そのような模範の継続というのは、後任の属人区長が前任者の「コピー」になってしまうという危険をはらんでいるのではないでしょうか?

A.それは違います。ドン・アルバロはオプス・デイの精神についてだけ聖ホセマリアを踏襲しましたが、二人の人格は全く別でした。だからこそあれほど素晴らしい組み合わせになっていたのかもしれません。神学や歴史、文学、哲学、芸術、法学などの分野において、二人とも優れた有識者で、その間には意見の一致や意思の疎通がありました。ところで創立者のパドレは大変直感的で、すぐに行動を起こす方でした。それに対して、ドン・アルバロは、もっと内省的でした。創立者は何かが起こるとすぐにそれに反応され、非常に率直に見えました。ドン・アルバロも機知に富んだ率直な反応をされましたが、それを心の中で十分に練ってから外に表されていました。

1958年、教皇ピオ十二世が亡くなるとき、イタリアのテレビが教皇の病気の見苦しい臨終の姿を映像で流したときのことを思い出します。後にイタリアの医学学会は、教皇の部屋でのその映像を撮ることを許可した医者を除名したほどです。聖エスクリバーはそのテレビ映像にショックを受け、父親をひどく扱われた子供のように心を痛めました。ドン・アルバロは黙っていました。ただ後になってから、次のように言われました。「パドレのとられた態度は当然だろう。あれはとてもひどいことだったから…。自分の父親や母親が臨終の苦しみにある姿を見せ物にすることに同意するような息子がどこにいるだろうか」と。

他にもあります。例えは「真実さ」についてです。聖ホセマリアは、誠実で直接的であり、頭に浮かんだことをはっきりとそのまま言われる方でした。ドン・アルバロは、もっと穏やかな気質で、裏表や込み入ったところのない、全く透明な方でした。

Q20.「しかし、好みや趣味などでは、二人は全然異なっていたのではないですか」

「もちろんそうです。例えはエスクリバー師は散歩が唯一の彼のスポーツでした。それに比べて、デル・ホルティーリョ師は、水泳やホッケー、クロスカントリー、テニス、乗馬、サッカーなどのスポーツをよくなさった方でした。

二人の違いはもっと小さなことにおいてさらに明らかでした。例えば、ドン・アルバロはクレルシマン(背広型の司祭服)を喜んで身につけられましたが、創立者はそれを好んで着たことは'度もありませんでした。また、1968年にイタリアのナポリからスペインのカディスに船で旅行したときのことを覚えています。創立者のパドレにとって、何日問も船の中で過こすのは全く楽しいことではありませんでした。「船という狭い空間に閉じこめられて過ごすなんて、時間の無駄のように思えるよ」と言われていました。しかしながら、ドン・アルバロはその旅行を非常に楽しみにしておられました。「海の真ん中にいると、とても.気持ちが休まるんだ」と言っておられました。ですから、二人はとても異なっていたと言えます。しかしながら、二人は同じ道を歩み、同じ精神を生き、そして、よく似た二人の聖人なのです」

Q21.つまり、後継者は自分のスタイルを保ちつつ、二人の先駆者が歩いた足跡をたどるべきであるとおっしゃるわけですね?

A.常識があるならば、聖ホセマリアが踏んだ足跡を辿っていくことでしょう。そこが、アルバロ・デル・ポルティーリョが踏んで行かれたところでもあります。そうしなければ、道を踏み外したと言えるでしょう。しかしながら、「道」に対するこの忠実さは、そこを通る誰からもその人に特有の歩き方まで奪ってしまうものではありません。オプス・デイにおいては、各自の人格が消されるのではなく、もっと素晴らしいものに高められるのです。

Q22.新しい属人区長は、どのような創造的、刷新的な自由を持つことができるのでしょうか?

A.完全な自由です。オプス・デイに「刷新」は必要ありません。私たちは世間のまっただ中に生きていて、いつも今日的だからです。したがって、新しい属人区長は必要とされる創造力を発揮して時代の状況を利用し、社会にオプス・デイの精神を適用させるためにあらゆる手段を活用するでしょう。もうすでに成されたことをそのままコピーするのではありません。現代、聖化すべき毎日の現実は、創立者が生きておられた頃のものとは異なるからです。属人区長は、その時代に固有な現実と対峙しなければなりません。

Q23.もし、次の教皇様がヨハネ・パウロニ世のように好意的でないなら、オプス・デイはこれまでのように安心していられないでしょう?

A.聖エスクリバーが、教皇様たちから見捨てられているとか、軽視されているとか、好意を持たれていないなどと感じたことは、私の知っている限り一度もありませんでした。そういうことは、誰かが思いついて他の人たちが繰り返している嘘にすぎません。私は創立者が「たとえ時には困難なことに思えても、聖座と教皇様とからは良いことしかやって来ません」とおっしゃるのを何度も聞きました。私たちにとって教皇様というのは、誰であっても、神様の前に果たすべき責任を持たれたキリストの代理者です。だから、教皇様が決定されることは、キリストから来るものとして受け取ります。例えば、教皇様の何かの決定が私たちにとって悲しいことや理解できないことであったとしても、それは私たちにとって実は良いことなのです。そういうわけですから、オプス・デイは決して不安になったりしません。教皇様が私たちに好感を持たれることと、我々が教皇様を敬慕することは別です。教皇様への愛情と敬慕の気持ちは決して欠けることがないでしょう。

最後の五人の教皇様と、オプス・デイの二人のパドレとの個人的な親交についての本はまだ存在していません。かつて、パウロ六世教皇は聖エスクリバーを評価していなかったと噂されたことがありました。しかし、実際は、教皇様の秘書たちによって認められたことですが、パウロ六世は『道』を祈りの本として常用していたのです。また、それ以上のこともありました。パウロ六世の晩年、会見の中で教皇機は創立者におっしゃいました。「神父様、あなたは聖人だ。」もちろん、お世辞で言ったのではありません。そして、ヨハネ・パウロニ世とデル・ポルティーリョ師との間の自然で信頼んにあふれた率直な友情については言うまでもないでしょう。教皇様は、そうあって欲しいということを言うのではなく、現実をはっきりと自分に言ってくれる忠実で誠実な息子としてドン・アルバロを見ておられました。

Q24.ヨハネ・パウロニ世はオプス・デイを頼りにしていたと言えますか?

A.そう言うことができるでしょうが、言われているほどではありません。大切なのは今の教皇様や、これから来られる教皇様たちが、頼りにしてくださるようなオプス・デイでなければならないということです。オプス・デイはそのために存在しているのですから。つまり、教会が仕えて欲しい方法で仕えるということです。私たちにとって、たとえ世界中に広がってたくさんの召し出しを獲得したとしても、もしそれが教会によく仕えることになっていないとすれば、全く意味がありません。

Q25.オプス・デイ属人区長は司教である必要がありますか?

A.必要ではありません。しかしながら、経験から言うなら、オプス・デイのため、また他の司教様たちとの関係のためにも、とてもいいことだと言えます。

Q26.エチェバリーア神父様、あなたは44年の間、常に誰かのために生きてこられました。「ご自分の」人生を持たれたことはないのですか。あなたは、あなたとして存在することができたのでしょうか?

A.もちろん自分の人生を持つことができました。私自身、自分がこれほど素晴らしい人生を送るとは、夢にも見ませんでした。自分勝手に生きたとすれは、もっと狭い視野しか持てなかったでしょう。毎日毎日、あれほどの人間的、霊的な高さを持つ二人の人物の側にいるのでなければ、世界中と通じ合い、人類全体のことを心にかけるなど、望みもしなかったことでしょう。世界中の文化に興味を持つこともなかったでしょう。人々に奉仕するという望みもなかったでしょう。教会と社会という広い視野を持つこともなかったでしょう。また、世界中の人々の置かれている状況や労働環境を、興味本位ではなく、人間としての自由や尊厳を心にかけて見ることもなかったでしょう。全ての国、全ての社会分野にいる、あらゆる宗教の人々が生活している場所にまで出かけて行く、現代に生きるキリストの弟子として、また一人の司祭として、私はうらやまれるほど様々な望みを実現できました。二人の霊的、キリスト教的大人物と過ごせたおかげで、世界規模の心を持つことができました。

Q27.数年前、説教中に心臓発作を起こされましたね?

A.ええ、スペイン北部のアストゥリアスでした。

Q.そして、説教を最後までやり終えた…?

A.そうです。でも、(笑いながら)心臓発作だと分からなかったからですよ。

Q.では、説教を途中で放り出してしまう弱虫な人がいたとしても、彼を理解されますか?

A.理解するだけでなく、その人を誉めます。そうしなくてはなりません。仕え続けるために、早く治すべきですからね!

Q28.もう、あなたについて人物評が広まっているそうですね。厳しく、口うるさく、非情で、聖エスクリバーの懐で育てられた人物だと…?

A.私は聖エスクリバーの側で「育てられた」ことに大きな誇りを持っています。もっと学びたいぐらいです。私にいつも教えて下さったのは、司祭としてもっと広い心になることです。敵がどこから来ようが、どのようにやって来ようが、たとえ自分に死をもたらすほどの敵であっても、両手を広げて全ての人を受け入れること。いつでも、どこでも、どんな状況でも、自分を必要とする人のために心を大きく広げていなさい、と教わりました。

Q29.でも神父様、あなたは強い性格をお持ちでしょう?

A.それはそうです。聖エスクリバーと知り合う前から持っていましたから…。

Q30.聖エスクリバーが亡くなったとき、デル・ポルティーリョ師は、「新しいパドレが選ばれるまで」と言って、まだ温かい遺体の胸にかけてあった聖十字架の遺物をはずして、自分の胸にかけられました。ドン・アルバロが亡くなったとき、あなたがその遺物を身に付けられたのですか?

A.ええ。でも、すぐにではなく、二日後です。跡継ぎについての憶測をさけるために、ドン・アルバロがなさったのと同じ行動をとることを避けたかったのです。ドン・アルバロのタンスの中に聖十字架の遺物を見つけたとき、司祭の胸にかけられていた方がよいと思いました。それで、私の胸にかけました。

Q31.その時、オプス・デイの「重み」を感じられましたか?

A.オプス・デイの重みを感じましたが、同時に神様の力も感じました。オプス・テイは、好むと好まざるとにかかわらず、霊的に一枚岩です。すなわら「一つの心、一つの魂」です。私が誤らないように、全員が祈っています。そして、世界中のあらゆる場所のあらゆる人たちから、何百通という手紙が届いています。

Q32.オプス・デイの「重み」とは何でしょうか?

A.それは、自分の仕事と、身分上の義務と、周りの人たちとの付き合いとを通して、神様との約束に応えていこうという、七万人以上の人たちの聖性です。そして、その重みを感じることができます。なぜなら、私たちは皆弱いので、時には最高のものを捧げることができなかったり、教会というこの大きなオーケストラの中で調子を狂わせてしまうことがありえるからです。

Q33.ある機会に、ヨハネ・パウロニ世はオプス・デイを評して、「オプス・デイは強大だ!」とおっしゃいましたね?

A.その通りですが、その言葉に対してドン・アルバロはすぐにこう答えました。「教皇様、私たちの唯一の力、たった一つの武器は祈りです」と。そして教皇様はうなずきながら、「私もその意味で言ったのです」とおっしゃいました。ヨハネ・パウロニ世は、教皇位についた1978年にデル・ポルティーリョ師がメントレッラの巡礼地から書かれた手紙に強い印象を受けておられました。次のことが書いてありました。オプス・デイの全ての宝、つまり毎日のごミサでの祈りを教皇様に捧げるとありました。その数は当時で60.000ほど。現在は74.000あまりでしょう。

Q34.聖エスクリバーとデル・ポルティーリョ師というオプス・デイの二保護者が眠るここビラ・テベレの地下に降りられるとき、ご自身のために何を祈られるのですか?

A.良き牧者であること。忠実で、全ての息子と娘のために自分を捧げ、子供たちとほんのわずかも離れることがないように、と祈ります。(完)