「兄弟姉妹の皆様。わたしたちの第一の大いなる望みはこれだといいたいと思います。すなわち、世の和解のためのパン種となる、一致と交わりのしるしである、一致した教会です」。このように、レオ十四世は就任ミサにおいて、その教皇職を特徴づける願いを表明しました。
本稿は、ローマに在住する多様な国籍の神学・哲学の学生たちとの対話の中で行われた、オプス・デイ属人区長フェルナンド・オカリス師のクラスを要約したものです。学生たちの具体的な体験に根ざした問いを出発点として、一致が賜物であり、共に担うべき課題であり、そして──聖ホセマリアの言葉を用いれば──「支配的情熱(dominant passion)」であることが、具体的に考察されます。
属人区長フェルナンド・オカリス師による導入のことば
オプス・デイの一致は、その根本において、教会の一致への参与です。聖ホセマリアは、オプス・デイは教会のごく小さな一部分であると、しばしば語っていました。したがって、オプス・デイの一致を成り立たせている要素は、本質的には、教会の一致を支えている要素と同じであることが分かります。
一致は、普遍性、聖性、使徒継承性と並ぶ、教会の基本的な特性の一つです。また、福音書の中でも、とりわけ明確に表現されている特性でもあります。主ご自身が弟子たちについて語りながら、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」[1]と祈られたとき、そのことがはっきりと示されています。この祈りは、キリスト者の一致を理解するための、きわめて深い手がかりを与えてくれます。
実際、教会の一致──したがって、イエス・キリストの弟子たちの一致──の最終的な実体は、神ご自身の一致への参与にあります。私たちは、三位一体の神秘を限られたかたちでしか理解できませんが、その一致をとりわけ聖霊において見ることができます。なぜなら、結びつけるものは愛であり、聖霊は愛そのものだからです。
このため、教会の一致そしてオプス・デイの一致における、より人間的な側面もまた、愛によって形づくられているときにこそ、本来の価値を発揮します。それらを単に組織的な要素として見るのではなく(もちろん、その側面もありますが)、人と人とを結びつける愛の表現として、その最も深い意味を認めることが大切です。
この観点から、教会の一部であるオプス・デイの一致は、三つの側面に分けて考えることができます。これは、かつて神学の教授であったヨセフ・ラッツィンガーが、教会について語る際に用いた区別に従ったものです。すなわち、教会が「目に見えるかたちで何であるか」、「本質的に何であるか」、そして「活動において何であるか」という三つの観点です。
まず第一に、教会は目に見える存在です。これは、教会が一つの民、すなわち人間から成る共同体であるということを意味します。そこには一つの際立った特徴があります。それは、多くの民から成る民であるという点です。聖ペトロの第一の手紙は、教会を populus adquisitionis[2](神がご自分のものとされた民)と呼び、この現実を非常に印象的に表現しています。
聖霊降臨以来、普遍教会は一体を成しています。それは、目に見える民の、目に見える現実です。始まりは小さなものでしたが、教会は最初から普遍性へと招かれていました。このきわめて多様な民から成る共同体に、目に見える一致を与えている主な要素は三つあります。すなわち、共通の信仰告白、秘跡的生活、そして共通の頭としてのローマ教皇の存在です。同じ信仰を公に告白し、異なる典礼や儀式を保ちながらも同じ秘跡的生活を営み、同じ普遍的な統治の原理を共有すること──これらが、多様な民と文化の一致を可能にしている、目に見える要素なのです。
二つ目の「本質的に何であるか」という観点から教会について考察しましょう。ここで私たちは、神秘の核心へと入っていきます。教会はキリストの体です。聖ホセマリアは、「教会とは、私たちの間におられるキリスト」[3]であると力強く語っていました。
これこそが、教会の最も深い現実であり、目に見えるすべてのものに意味と効力を与えるものです。キリストが教会に現存し内側から力を与えておられる、というだけではありません。教会が全体として、真に一つの体なのです。神秘体は単なる比喩ではなく、霊的な現実であり、すべての肢体がイエス・キリストと真に結ばれています。これが、教会の本質です。
この文脈において、ヨセフ・ラッツィンガーは、非常によく知られた簡潔な定義を示しています。「教会とは、キリストの体(聖体)によって生きる民であり、そして感謝の祭儀において、自らがそのキリストの体となる」というものです。聖体におけるキリストの体によって生き、聖体においてキリストの体となる──それが教会なのです。
最後に、第三の側面から教会の一致について考えてみましょう。第一は、教会が目に見えるかたちで人々から成る民であるという観点、第二は、その最も深い現実としてキリストの体であるという観点でした。第三の側面は、教会は、この世における活動において、「救いの普遍的秘跡」であるという観点です[4]。すなわち、教会の聖化の力は、福音を宣べ伝えることと秘跡──とりわけゆるしの秘跡と感謝の祭儀(聖体)──を通して展開され、その結果として人々のうちに使徒的熱意を呼び覚ますのです。
教会の一致──そして、その中にあるオプス・デイの一致──は、究極的には神からの賜物です。それは超自然的なものでありながら、人間的・組織的な表現をも伴います。そして、それはすべての人に与えられる賜物であるがゆえに、同時に、すべての人が大切に守る責任を負っているものでもあるのです。
学生による質問
確かな拠り所が見いだしにくい状況において、内的な一致を生きること
一致が教会全体に属する賜物であるとすれば、オプス・デイの精神の中で、それが「支配的情熱(dominant passion)」の一つとして生きられ、また守られているのは、どのような点によるのでしょうか。
オプス・デイにおいて生きる一致は、本質的には、他のいかなる教会組織においてもそうであるように、教会そのものの一致です。しかし当然のことながら、オプス・デイには、そのあり方を形づくる固有の精神的特徴があります。
その中心となる点は、精神の一致です。オプス・デイには固有の霊性があり、私たち一人ひとりがその精神にあずかるかぎり、そこに深い一致が生まれます。それは画一性ではありません。同じ精神に基づいて考え、生活するという共通性であり、多様な意見が可能な領域については、大きな自由が保たれています。聖ホセマリアは、分母──すなわちオプス・デイの精神──は小さく、分子は非常に大きい、と語っていました。一致を与えるのは、この共通の分母なのです。
この精神は、「福音のように古く、福音のように新しい」[5]ものです。したがって、オプス・デイの中に、教会全体に共通するものとはまったく異なる何かがあると考える必要はありません。むしろ、キリスト教の本質そのものに属する現実を、固有の仕方で生きるということなのです。
では、その固有のかたちとは何でしょうか。オプス・デイの精神の中心に目を向けるなら、まず霊的生活の中心であり根である感謝の祭儀(聖体)をあげることができます。感謝の祭儀(聖体)は教会全体の中心ですが、オプス・デイでは、その重要性を非常に明確に意識し、日々忠実に生きることが強く求められています。すなわち、毎日のミサにあずかり、それを生活全体の中で生きること、さらには──聖ホセマリアが言うように──「私たちの思い」[6]も感謝の祭儀(聖体)を中心とするよう努めることです。
感謝の祭儀(聖体)が中心であり根であるとすれば、オプス・デイの精神の基礎は、神の子としての自覚にあります。これはすべてのキリスト者に共通するものですが、オプス・デイにおいては、霊的生活の土台として特に中心的な位置を占めています。信心業、仕事、日常生活全体を、神の子としての自覚をもって生きるのです。
これに加えて、オプス・デイの精神の軸となるのが、仕事の聖化です。すべての人は、聖性に召されており、また、仕事は聖化されうるものであることを多くの人に告げ知らせるようにと招かれています。しかし、オプス・デイにおいてこの点は、とりわけ固有で中心的な特徴です。なぜなら、聖化と使徒職への努力は、この軸を中心に展開されるからです。
このように、教会の一致に共通するあらゆる要素とともに、オプス・デイには、皆が同じ精神を生きるかぎりにおいて私たちを一つにする、固有の特徴があります。すなわち、中心であり根としての感謝の祭儀(聖体)、基礎としての神の子としての自覚、そして軸としての仕事の聖化です。
パドレ、もし一致が教会全体、そしてオプス・デイのために願い求める神の賜物だとすれば、同時に、それを一人ひとりに与えられる個人的な賜物として願い求めることもできるのでしょうか。
はい、もちろんです。一致は、一人ひとりに与えられる神からの賜物です。それは、私たちの内に一致への願いをいっそう強め、愛と愛情を通して、一致を生み出す者となる力を与えてくれます。
したがって、一致はあらゆるレベルにおいて、実りをもたらすための条件となります。聖ホセマリアは、1931年付の手紙の一つの中で、この点をとりわけ明確に示しています。「神は、私たちの弱さ、私たちのもろさ、そして他の人々の弱さをも考慮に入れておられます。しかし同時に、皆の強さも考慮に入れておられます。それは、愛が私たちを結び合わせるとき生じます」[7]。愛が私たちを結び合わせるならば、一致は力を与えます。そして愛情こそが、本当に人と人を結びつけるのです。
ここでは、「愛情」を、単なる感情と区別して考える必要があります。真の愛情、真の愛は、何よりも行いの中に表れます。すなわち、自己を与えること、献身、他者への関心です。多くの場合、そのような愛には感情的なものが伴いますが、いつもそうであるとは限りません。しかし、真の愛があるところには、必ず一致があります。
突き詰めて言えば、各個人に関する事柄は、一致と深くつながっています。それはまた、使徒的情熱の源ともなります。なぜなら、他の人々の使徒的使命を自分自身のものとして生きるよう、私たちを導くからです。それは、たとえ自分自身の活動がより限定されていたり、働く場が少なかったりする場合であっても、励ましと推進力を与えてくれます。他の人が行っていることは、私たちのことでもある──このような意識が、力と実りを生み出すのです。
オプス・デイはまもなく百周年を迎え、そのメッセージは、異なる世代や文化、世界のさまざまな地域に生きる人々に届いてきました。今日、文化的変化や現代特有の状況のただ中にあって、私たちはどのようにして一致の道具となり、その責任を担っていくことができるのでしょうか。
一つは、一致についてたびたび黙想し、それを本当に主に願い求めることです。各自が置かれている状況の中で、どのように一致を生きるべきかについて、主が具体的な光を与えてくださるよう祈るのです。
そのうえで、一致を助ける要素は多くありますが、とりわけ重要なのは、オプス・デイの一致が「家族の一致」であるという点を理解することです。家族の一致を抜きにして、オプス・デイの一致を語ったり、理解したりすることはできません。これは、この精神にきわめて固有で、本質的な特徴です。
この一致は、常に、私たちの聖なる創立者との直接的な結びつきとして現れます。聖ホセマリアは、その著作を通して、その精神を通して、また私たちに遺してくれた霊的遺産とその生涯を通して、今も天から私たちのパドレ、すなわち父であり続けています。一致を大切にするという個人的な責任の一部は、どこにいようとも、私たちのパドレである聖ホセマリアの姿が生き生きと保たれるよう助けることにもあります。すなわち、さまざまな必要の中でその取り次ぎを願い、記憶の中にその存在を留め、そしてその考え方に従って行動しようと努めることです。教皇聖パウロ六世は、福者アルバロ・デル・ポルティーリョに「何かをしなければならないときには、創立者ならどうしただろうか、と考えなさい」と語られました。ドン・アルバロはこの言葉に深く感謝し、大きな喜びを覚えました。というのも、彼は最初からそのように生きてきたからです。聖ホセマリアとの一致は、オプス・デイの一致のきわめて重要な部分を成しています。
これらすべてと並んで、パドレに対する子としての結びつきもあります。それは、その時々の属人区長が誰であるかにかかわらず、オプス・デイ全体に真の一致をもたらす、子としての関係です。二つの部門を含むオプス・デイ全体の一致は、常に最も根本的なもの──すなわち、精神の一致──の上に支えられています。
パドレ、時として誤解や過去の傷が、一致を生きるうえでの妨げとなることがあります。痛みやわだかまりが残っている場合、どのようにして信頼を再び築いていくことができるのでしょうか。
このような場合、まず大切なのは、人々が主に目を向けるよう助けることです。神は一人ひとりを、私たちの想像をはるかに超えて、限りなく愛しておられます。このきわめて深い真理に立ち返ることは、他者に向き合う姿勢そのものを変えてくれます。そして、とりわけ、過去あるいは現在の出来事によるわだかまりや不満が心に残っているときに、「神は、あの人を限りなく愛しておられる」という事実を思い起こさせてくれるのです。
聖パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、この点を力強く語っています。「主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。(…) 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」[8]。 ここには、きわめて具体的な要素がすでに示されています。すなわち、平和のきずなによる一致です。
平和を与えること──聖ホセマリアは、しばしば私たちに、平和と喜びの種まき人となるよう励ましました。彼は若いころから、個人的な覚え書きの中で、驚きをもって次のように記しています。「主は、私の魂に、もう一つの特徴をお与えになったように思う。それは平和、平和を持つ、そして平和を与えるこというものである」。
では、この平和とは何でしょうか。それは、イエス・キリストご自身です。Ipse est pax nostra──「実に、キリストはわたしたちの平和であります」[9]。したがって、一致を大切にするあらゆる働きは、必然的に、イエス・キリストと一致する働きとなります。聖パウロが言うとおりです。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです」[10]。一致をもたらすのは、聖霊です。すなわち、愛の賜物をもって働かれる聖霊です。信仰も人と人を結びつけますが、より根本的に結びつけるのは愛であり、聖霊は神の無限の愛なのです。
私たちは、社会や政治、組織、さらには家庭においてでさえ、分断や個人主義が色濃く見られる状況の中で生きています。そのような中で、単なる外面的な一致にとどまらず、一人ひとりの内側から生まれる、本物の一致をどのように生きることができるのでしょうか。模範となる拠り所が乏しいと感じられるときに、どうすればよいのでしょうか。
聖ホセマリアは、私たちが「一致の道具」となること、すなわち、一致を生み出し、守り、育てる人となることについて語っていました。このように生きるための第一の拠り所は、常にイエス・キリストです。
では、一致を大切にしたいという情熱や願い、方向性は、どのような意味で私たちの生活において「支配的なもの」となりうるのでしょうか。それは、一致への願いが思考や感情にまで深く浸透し、その結果として、生き方そのものを自然に動かすようになるときです。そうなると、他の人のことが自分自身のことになります。すなわち、その人の内的生活、仕事、健康や病、あらゆる状況が、それぞれにふさわしい形で、自分のこととして受け止められるようになるのです。その人のために祈り、その歩みを助け、成功を自分のことのように喜ぶようになります。他者に関わるすべてが、私たち自身のものとなる──それが一致です。
一致はまた、苦しんでいる人とともに苦しむことへと私たちを導きます。そしてそれは、他者の欠点や限界に向き合う際の態度の中で、きわめて具体的な形を取って現れます。
さらに、一致への願いが心を支配するようになると、人と人を結びつけるものを進んで育てようとする姿勢が、自然に生まれてきます。同時に、たとえ些細なことであっても、不一致の原因となりうるものを避け、場合によってははっきりと退ける態度も養われていくのです。
パドレ、時には、一緒に働き、共に決定するよりも、個人で判断して進めたほうが速いように感じられることがあります。オプス・デイでは、協働的な意思決定(collegiality)が通常の働き方とされていますが、これを障害ではなく、豊かさとして理解し、生きるためには、どのように考えればよいのでしょうか。
オプス・デイの組織の中で、協働的な意思決定は一致のきわめて重要な側面です。それは、統治においても使徒的活動においても、あらゆるレベルにおいて生きるべきものです。協働的な意思決定は賢明な判断を可能にし、誰か一人が、他の人の意見を聞かずに指示を出してしまうことを防ぎます。聖ホセマリアは、神からの光を受けて、最初からこのあり方を定め、オプス・デイ全体においてそれが実践されることを望みました。
聖ホセマリアは、この点を、ある手紙の中で非常に力強く述べています。「私は、すでに皆さんがよく知っているこの言葉を、これまで数えきれないほど繰り返してきましたし、生涯にわたってさらに繰り返すでしょう。オプス・デイにおいては、あらゆるレベルで、専断に陥らないために、協働的な意思決定による統治を求めます」[11]。
私たちは、単に忙しさを理由に、専断的な働き方に陥ってしまう危険があります。すなわち、「急いでいるから」「他の人を待つ必要はない」「彼らの意見を参考にする必要はない」と考えてしまうことです。しかし、聖ホセマリアはしばしば次のように語っていました。「急ぎの案件は待つことができる。そして、とても急ぎの案件は、待たなければならない」。これは時間を無駄にするためではなく、定められたとおりに、しっかりとものごとを検討するためです。この進め方は、実りを保証するだけでなく、心の平安ももたらします。
一人で決定することは、特に事柄が複雑な場合、かえって不安を生むことさえあります。それに対して、他の人の知見を頼りにすることは、状況をよりよく見渡す助けとなります。これは、経験が豊かな人や、特定の分野に詳しい人にも当てはまります。経験上、より知識の少ない人が、他の人には見落とされていた光や解決の糸口、あるいは重要な視点を示してくれることも少なくありません。
ですから、「協働的な意思決定」がより多くの時間を要するとしても、それには十分な価値があります。それは支払うに値する「代価」です。なぜなら、そこから得られるものは非常に大きいからです。協働的な意思決定は、単なる作業の仕組みではなく、何よりも一つの精神です。すなわち、私たちは皆、他者の光を必要としている、という確信です。そして、この精神は、あらゆるレベルで生きるべきものなのです。
ここでしばしば湧いてくる一つの疑問があります。意見の相違や分裂を生むことを恐れて、自分の考えを率直に言うことに不安を覚えることがあるのではないでしょうか。すべての点で皆が常に同意できるわけではないことを承知したうえで、自分の意見を表明する自由と、一致を大切にする姿勢との間に、どのようにしてバランスを見いだせばよいのでしょうか。
一致へのこの「支配的情熱」は、必然的に多様性を尊重する姿勢へと私たちを導きます。一見すると矛盾しているように思えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。一致とは、皆が同じように考えることではなく、ありのままの他者を愛し、その中に結びつきを見いだすことです。そういった意味で、理解することは先に述べた「他の人のすべては、私たち自身のものでもある」というあり方と結びついており、批判的な態度を避ける助けにもなります。
このように生きるために、まず大切なのは、意識的にそうしようと決意することです。一致の重要な要素の一つは、他者の意見を受け入れることであると理解することです。しかしそれは同時に、自分の考えを述べることを恐れない姿勢とも結びついています。もちろん、常に賢明である必要があります。何でも、いつでも、どんな言い方でも「話せばよい」というわけではありません。しかし、たとえば会議や話し合いの場など、ふさわしい場においては、自分が少数意見になると思われる場合であっても、自分の考えを表明することは良いことです。それは自分の考えを押しつけるためではなく、良心に従って思っていることを、率直に述べるためです。これは一致を壊すどころか、むしろ一致へと通じる橋を築くものです。
思い出すのは、私が教理省の顧問に任命された頃のことです。私は、長年にわたり顧問を務めていた哲学者コルネリオ・ファブロを訪ねました。彼とは以前から定期的に会っていましたが、そのとき彼はこう強調しました。「私の経験から、あなたに一つだけ助言します。会議では、たとえ他の全員が反対意見であっても、常に自分の考えを述べなさい。必ずそうしなさい」。私はこの助言を、皆さんにもそのままお伝えしたいと思います。
また、一致を大切にすることは、非常に直接的で目に見える形で、キリスト者としての兄弟愛を大切にすることにつながります。これは、常に人と人を結びつけようと努め、オプス・デイの中にグループを作ることを避け、すべての人を平等に扱い、他者の人生に対する真摯な関心を育む努力を意味します。聖ホセマリアは、一致へのこうした姿勢を持つ人々の存在を、心から喜んでいました。
性格や好みの違い、あるいはそうした違いから生じる人間関係の難しさがあっても、驚く必要はありません。聖ホセマリアはある手紙の中で、次のように述べています。「相性の良し悪しを超えた兄弟愛を、常に実践しなければなりません。よく一致した家族を形づくる者としてふさわしい態度と理解をもって、真の兄弟として互いに愛し合いなさい」[12]。これは美しく、同時に要求度の高い言葉ですが、それを生き、伝えていくことは、私たちの手に委ねられています。
最後に、何度も黙想するに値する、聖ホセマリアが1957年に書いた手紙の一節を、思い起こしたいと思います。「中央委員会のお御堂の聖櫃に、私は「Consummati in unum(完全に一つになる)」と書くようにお願いしました。私たちは皆、イエス・キリストとともに一つです。神の炉の中に置かれて、知性、意志、そして心におけるこのすばらしい一致を、常に保つことができますように。そして、すべての恵みを人々に届けてくださる聖母が、一致とともに、明晰さ、愛徳、そして剛毅を与えてくださいますように」。
これは単なる敬虔な結びの言葉ではありません。確かに敬虔な結論ではありますが、同時にきわめて論理的な結論でもあります。この言葉は、私たちを自然に、一致のための祈りへと導きます。実際、私たちは毎日、一致のために祈っています。そしてその祈りは、感謝と希望に満ちた心で捧げられるべきものです。なぜなら、私たちが願うオプスデイの一致は、すでに存在しているからです。その一致が保たれ、私たちがそれを大切にし、その大きな賜物に感謝できるようにと祈るのです。
私たちは、場合によって、一致にあまりにも慣れ親しんでしまったがゆえに、それを十分に評価しない危険があります。だからこそ、一致をより大切にし、より深く感謝し、よりよく守る恵みを願い求めることが重要です。一致を抽象的な理念としてではなく、具体的な身振り、決断、態度の中で生きること──そこにおいて、一致は真の「情熱」となるのです。
[1] ヨハネ17・21。
[2] 一ペトロ2・9。
[3] 聖ホセマリア『知識の香』131番。
[4] 教会の3つの側面については第二バチカン公会議『教会憲章』を参照。
[5] 聖ホセマリア『手紙6』31番。
[6] 聖ホセマリア『鍛』268および835番、『知識の香』における聖体への言及部分を参照。
[7] 聖ホセマリア『手紙2』56番。
[8] エフェソ4・1-4。
[9] エフェソ2・14。
[10] エフェソ4・3-4。
[11] 聖ホセマリア、1951年12月24日付手紙、5番。
[12] 聖ホセマリア『手紙30』28番。
