「ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」(ルカ5・17)。典礼はこの福音書の場面を待降節第2週に位置づけることで、私たちが、私たちを癒す神の力に、ますます信頼するように招いています。
その家には多くの人々が集まっていました。「すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。 しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」(ルカ5・18-19)。これは大胆な行為であり、それは男たちの中風の人に対する愛の表れでした。またそれは病人の、主の癒しの力に対する従順さと信仰の表れでした。病人は危険を顧みず、床ごとつり降ろされることを許可しました。それは、イエスが他の場所で行った奇跡が、彼においても実現すると、確信していたからかもしれません。
もしかしたらその場にいた人々の中には、この出来事をイエスは不愉快に思うだろうと考えた人もいたかもしれません。しかし主の反応は異なりました。福音書は言います「イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた」(ルカ5・20)。「このいやしのわざを通じて、イエスは自分が何よりも霊をいやすことを望んでいることを示しました。中風は、罪のために自由に動くことができず、善への道を歩むことができず、自ら最善を尽くすことができない、すべての人を表すたとえです。実際、霊のうちに巣食った罪は、偽りと怒りとねたみを初めとする罪のひもで人を縛り、少しずつ人を動けなくしてしまいます。だからイエスは、律法学者のいる前で、つまずきを引き起こしながら、まずこういったのです。『あなたの罪はゆるされる』」[1]。
主の慈しみは、私たちの喜びと主への信頼の究極の源です。「私は あまりにも罪深い人間だから主は耳を貸してくださらない、とでも思うのですか。そんなことはありません。主は憐れみの泉です。(...) 聖マタイの話に注目してみましょう。あの病人はひと言も口にしません。 ただ、そこ、神のみ前にいるだけです。それに対しキリストは、 病人の痛悔の心と功徳もない自らを悔やむ病人の心に動かされ、すぐに、いつもの 憐れみをお示しになりました。『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』(マタイ9・2)と」[2]。
そのとき、律法学者やファリサイ派の人々は疑念の声を上げ始めました。「神を冒瀆するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と(ルカ5・21)。少し謙虚であれば、弟子たちのように、「もし彼が罪を赦すのであれば、それは神が彼と共にいるからである」と考えることができたかもしれません。しかし、彼らは自分たちの権威・権力を維持することにこだわり、イエスの働きを妨げることだけを考えていました。「イエスは、彼らの考えを知って、お答えになった。『何を心の中で考えているのか。 〈あなたの罪は赦された〉と言うのと、〈起きて歩け〉と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に、『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』と言われた」(ルカ5・22−24)。
イエスは、罪の赦しこそメシアの最も重要な使命であることを明らかにしました。その権威を示すために、中風を癒やします。しかし、何より重要だったのは、病人が内なる喜びを回復し、赦しの恵みを受けたことでした。「弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで荒れ地に川が流れる」(イザヤ35・3ー6)。
「ここでいわれているメッセージは、明らかです。罪によって麻痺した人は、神のあわれみを必要としています。このあわれみを与えるためにキリストは来られました。それは、その人の心がいやされて、人生全体が再び元気を取り戻すためです。(…)けれども、神のことばはわたしたちに、中風の人を担いだ人びとがもっていたような、信仰の目と信頼をもつように招いています」[3]。
癒やされた人の反応は理にかなっていました。「その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」(ルカ5・25)。神の憐れみ、罪の赦し、病の癒しを経験した者は、自身の喜びを他者に共有し、自身の幸せの理由を愛する人々に伝えたいと望みます。癒やされた人は、周囲の雰囲気から生じる困難や、律法学者、ファリサイ派の人々の批判に怯むことなく、神が自分の内に行ったことを証して帰っていきました。「時間を無駄にしたくはありません。キリスト教が生まれて以来ずっと、環境上の困難はあったのですから、 環境を口実にすることはできないでしょう。 そこで、 次の事実を肝に銘じておいて 欲しいと思います。 周りの人々を効果的に神のもとに連れて行けるか否かは、 内的生活の深さに比例するということです。キリストがこうお決めになったのです」[4]。
「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた」(ルカ5・26)。聖母は21世紀においても、私たちの証の実りとして、このような出来事が繰り返されるように、御子の前で取り成してくれています。
[1] ベネディクト十六世、「お告げの祈り」のことば、2006年2月19日。
[2] 聖ホセマリア『神の朋友』253番。
[3] ベネディクト十六世、「お告げの祈り」のことば、2006年2月19日。
[4] 聖ホセマリア『神の朋友』5番。