「主よ、来てください、遅くならないでください」[1]。ここ数日、教会の祈りは、私たちの救い主、待ち望まれたメシアであるキリストの来臨への願いで満ちています。主は自分の民を救うために来られます。主を出迎えに行く準備ができている人々は幸せです。何世紀にもわたり、人々は救い主の到来を待ち望み、それに希望をおいてきました。キリストの誕生の神秘の近づきを感じられる今、私たちは同じ希望を心に抱いて主に出迎えに行きます。
御ひとり子の受肉によって、神は私たちにその無限の愛を示しました。聖アウグスティヌスは言います:「主の来臨の理由は何か、それは私たちへの愛を示すためである」[2]。そしてそれは御父の愛です。なぜなら神が御子をお遣わしになったのは「わたしたちを神の子となさるため」(ガラテヤ4・4-5)だからです。
イエスの生涯全体は、この限りない愛、私たちへの自己奉献の表れです。イエスに近づいた人々は、それを十分に経験しました。今日の福音書は、助けを求め、イエスのもとに来る大勢の群衆について語ります。「イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。 大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。」(マタイ15・29-30)。私たちの助けを求める声を、イエスは無視しません。私たちに関係するすべてのことは、イエスの心への絶え間ない呼びかけです。私たちの喜びと不安は、イエスの心を私たちに向かわせます。
群衆はイエスと3日間も一緒にいました。おそらく群衆はイエスととても良い時間を過ごしていたのでしょう。主は弟子たちに言います:「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない」(マタイ15・32)。イエスの愛情は大きな問題だけでなく、日常生活の必需品にまで向けられます。
イエスは群衆の世話を3日間したことだけで満足しません。イエスは彼らが家に帰るまでの道のりの心配をします。このイエスの心づかいは、彼を行動へと駆り立てます。「そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、 七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった」(マタイ15・ 35-37)。主は空腹の群衆に食べ物を与え、彼らが帰路において疲れ果ててしまわないようにしました。
今日も昔と同じように、イエスは私たちの必要に動かされ、それを解決するのを手助けしてくれます。私たちが肉体的にも精神的にも飢えることなく、私たちが倒れないようにします。2000年前、主は山上で群衆を待ち、彼らを養うためにパンを提供しました。今日、ご聖体においてイエスは私たちを待っています。私たちは自分の必要、喜び、理想をイエスに提示するためにイエスのもとに向かうことができます。私たちはイエスの優しさと愛を感じ、群衆が3日間イエスのもとに留まったように、主のもとに留まり続けます。
「人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった」(マタイ15・37)。そこにいた群衆は4千人以上でした。主の計り知れない寛大さを観想することは、待降節において主が私たちに与えようと準備している沢山の恵みを、私たちが最大限受け取るために役立つかもしれません。主が群衆にパンをたっぷりと分け与えられた後、7つの籠はいっぱいでした。私たちは次のように祈ることができるかもしれません:「主よ、来てください。私たちの心はあなたを待っています。来てください。私たちの空の心は、あなたで満たされることを望んでいます」。
ミサの第一朗読では、神が人々のために用意する祝宴について読まれます。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(イザヤ25・6ー9)。この神聖な祝宴は、毎日の聖体拝領で実現します。
[1] 聖務日課、待降節第1水曜日、昼の祈り
[2] 聖アウグスティヌス、De catechizandis rudibus、 4番