黙想の祈り: 待降節第1火曜日

この記事では次の3つテーマについて黙想します:ご自身を現される神。神の教えを理解するための幼子のような単純さ。日々の生活を照らすイエスとの付き合い。

ーご自身を現される神

ー神の教えを理解するための幼子のような単純さ

ー日々の生活を照らすイエスとの付き合い


聖ホセマリアの教えと模範に導かれて、私たちは世界を情熱的に愛することを学びました。私たちは、被造物のすべての善と崇高な現実を楽しみます。それらが神からの賜物であることを知っているからです。同時に、世界の美しさを損ない、神の愛に満ちたご計画から遠ざけてしまう世にある悪に対しても無関心ではありません。

世にある悪の原因は多数ありますが、私たちの創造主の善意について、多くの人々が無知であることはその大きな原因の一つです。「神の最大の敵は無知であると言っても過言ではありません。神への愛は、神を知ることによって生じるからです。無知は多くの悪の根源であり、人々の救いへの大きな障害です」[1]。一方で、神の私たちに対しする愛を知るとき、神が私たちの幸福を願っておられることを発見したとき、私たちは何よりも神を愛し、すべての善の源である神に近づくことを望みます。「わたしの聖なる山においては何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ11・9)。

「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、 この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(ヘブライ1・1ー2)。神は私たちが神を知ることを強く望んでおられます。それゆえ自らこの世に来て、ご自身をお示しになりました。

それゆえ、私たちは感謝に満たされ、今日のミサの福音にあるイエスの賛美の祈りに心を合わせることができます:「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(ルカ 10・21)


「主は力強く来られ、しもべの目を開かれる」[2]。 この約束はイエスがこの世に来られることによって実現しました。「‭‭エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。 知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」(イザヤ11・1ー2)。主は今も、私たち一人ひとりと個人的に対話し、私たちを教え、導き、励ましてくださいます。神はしばしば人や状況を通して私たちに語りかけ、私たちの生活全体を神との出会いの場としてくださいます。もし観想生活を送ろうと努めるなら、私たちは日常生活のあらゆる出来事の中に、私たちを探しておられる神の声を発見することができるでしょう。

この日常生活における神との対話において、主は私たちが信頼を持って主に近づくことをお望みです。そのことを通して、主は私たちが理解できない事柄を、主の光で照らしてくださいます。それゆえ、私たちは幼子の単純さをもって神の御前に身を置き、自分の心にある疑問を神の心に向かわせるのです。反対に、肉において賢い者にとっては、主の言葉は意味をなさないように思えるかもしれません。ですから、たとえ部分的にしか主の言葉を理解できないことがあっても、心を神に開き続けることが大切です。「神は決して私たちをお見捨てになりませんから、神のすぐ傍にいるなら、幾多の困難も消え去ることでしょう。ご自分の弟子、病人、足の悪い人に向けられた愛が、 異なった仕方で再び示されます。 イエスはお尋ねになります、「どうしたのか」と。「実は…」と 答えは じめるやいなや、光が与えらるか、あるいは少なくとも、現状を受け入れることができ、 平和を取り戻すのです」[3]

私たちが子どものように大胆に主に近づくなら、主はご自分の知恵を私たちに現し、ご自分の計画を私たちに知らせてくださいます。主はまた、私たちを平安と喜びで満たし、人生の困難に対処する力を与えてくださいます。


イエス・キリストにおいて、啓示のすべてが含まれています。「‭‭すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」(ルカ10・22)。「イエスは神について何かを語るのでも、御父についてただ語るのでもありません。むしろイエスが神の啓示です。なぜならイエスは神であり、だから神のみ顔を示してくださるからです」[4]。神がキリストにおいて肉となられたのは、私たちが神を見、神と直接の関係を結び、神の知恵の計画を知ることができるようになるためでした。人生の疑問に対する答えを求めるとき、私たちはイエスに立ち返ればよいのです。キリストとの対話において、余計な心配や不必要な疑いの存在の余地はありません。すべての知恵は、人となられたみことばの神秘の内に含まれています。

使徒たちは、自分たちが理解できなかったたとえ話の深い意味をイエスに尋ねたり、起きた出来事の説明を求めたりしました。私たちも同じように気軽に、主との会話を始めることができます。イエスとの個人的かつ日常的な交流により、私たちはますますイエスをより良く知り、人生の様々な状況に対し、イエスと同じような反応をすることができるようになります。私たちとイエスの対話が、私たちと他の人々にとって光になるように、聖霊にお願いすることは有益です。


[1] 聖ホセマリア、書簡(1940年3月11日)、11番

[2] 待降節第一火曜日、アレルヤ唱

[3] 聖ホセマリア『神の朋友』249番

[4] ベネディクト十六世、一般謁見演説(2013年1月16日)