黙想の祈り: 待降節第1月曜日

この記事では次の3つテーマについて黙想します:イエスは私たちと共にいるために来られる。いつでもイエスに近づくことができる。祈りを通してイエスとの友情を育む。

イエスは私たちと共にいるために来られる

いつでもイエスに近づくことができる

祈りを通してイエスとの友情を育む


新たな典礼暦が始まり、私たちは、キリストの生涯の奇跡、喜び、苦しみ、栄光を再びたどります。私たちは、イエスの誕生への期待をもってこれらの日々を始め、次に彼の生涯、死、復活、昇天を通して、最終的に聖霊降臨の日にたどり着きます。それは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)というイエスの言葉が実現するための聖霊が、私たちに送られてくる日です。

この年ごとに繰り返される奇跡は、単なる信心的な思い出以上のものです。「それは過去の時代に属する事柄の冷淡で生気のない表現、または単なる過ぎ去った時代の記念ではなく、教会に生きるキリスト自身なのです」[1]。典礼暦のそれぞれの節は、私たちをガリラヤの通りを歩いたイエス・キリストの生涯の特定の瞬間や側面に、私たちを参加させます。なぜなら「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方」(ヘブライ人13・8)だからです。イエス・キリストは地上で生き続け、私たちは彼を知り、愛することができます。さらに言えば、私たちは彼の内に生きることができます。

具体的に、この待降節の日々において、私たちはメシアの到来を本当に生きています。「その日が遅れることは決してない」(イザヤ13・22)。教会は繰り返します。新たに、イエスは私たちの世界にやって来て、私たちの生活に内在します。彼は私たちと一緒に歴史の道を歩みたいと願っています。イエスは私たちの喜びと悲しみを共有し、私たちに日々の使命を遂行するために必要な力を与えたいと望んでいます。私たちはこの待降節の間、私たちが神の子とになるために、神が人間となったことに感謝することができるでしょう。


「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。」(マタイ8:5-6)。この善良な百人隊長は、愛している僕を助けることができない苦い無力感に直面し、謙虚で信仰に満ちた態度で、誠実にイエスにその悲しみを打ち明けます。彼はただ状況を伝え、自分の魂にあるものをイエスに率直に伝えます。

私たちも困難や悲しみを抱えています。ですから、この百人隊長が行ったように、私たちもイエスを信頼し、助けを求めます。イエスがどれほど私たちに必要か、またイエスがどれほど私たちを助けることをを熱望しているかを思い出すことは良いことです。どんな時でも、私たちは安心して率直な心でイエスに向かうことができます:「イエスよ、私は解決策がわからないいくつかの問題を抱えており、それが私の平和を奪っています。あなたを信じていますが、時々あなたに対する信頼が足りないことを自覚しています。私は自分の人生を完全にあなたの手に委ねることを学ぶ必要があります」。

今日、私たちは福音書の百人隊長を倣い、主に私たちの心を主に開きたいと思います。 静かに、イエスとの対話の中で、私たちの生活や困窮を彼に見せましょう。イエスはそれらをご自分のものにしてくださいます。それを知った私たちは安心することができます。


「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。イエスはその百人隊長の信仰を賞賛しました。「「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(マタイ8: 10)。 大きな信仰、同時に謙虚で簡潔な信仰、この百人隊長の言葉を、私たちが聖体拝領の前に唱えます。

私たちは毎日御聖体に近づくことができます。百人隊長と同じ謙虚さと信仰の力を持って、聖体拝領でイエスに近づきます。聖ホセマリアは「み言葉とパン、祈りと御聖体にましますイエスと絶えざる交わりをもたないで、キリスト信者らしく生きることが出来るとは思えません。しかし、何世紀にもわたって代々の信者が御聖体への信心を具体化してきた理由はよくわかるのです。あるときは公に信仰を宣言する大衆的な行事をもって、又あるときには、教会内の神聖で、平和な雰囲気の裡に、あるいは心の奥底で沈黙の中に、人々は代々御聖体への信心を表してきたのです。」[2]

御聖体と親しさの内において、私たちはイエスとの友情を育むことができます。 イエスは常に私たちの傍らにおり、彼の恵みで私たちを助け、彼の存在で私たちを喜ばせ、私たちに対する彼の愛を教えてくれます。 時々、ご聖体におられるイエスに物理的に近づくことができないかもしれませんが、私たちはいつでも心の静けさの中で神と出会うことができます。聖母マリアが何度も行ったように (ルカ2・19参照 ) 。聖母は、私たちが、新しい典礼暦年の門出に、聖母の子であるイエスの生活の各瞬間に入り込むことができるよう助けてくれることでしょう。


[1] ピウス12世、回勅Mediator Dei、205番

[2] 聖ホセマリア『知識の香』154番。