「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放された」(ルカ1・67)。9ヶ月の沈黙の後のザカリアの言葉です。この賛歌は、神は何と善き方であることか、と要約できるでしょう。教会は、待降節をこの福音で締めくくろうと望んでいます。この聖なる人は、9ヶ月の無言期間を罰として受け入れていたのではありません。全く逆に、贈り物として感謝しました。息子ヨハネが告げ知らせるであろうことを、ふさわしく準備する素晴らしい機会になったのですから。神は、毎年、私たちにも同じような贈りもの、待降節を与えてくださいます。この準備期間を最高に活用できたでしょうか、どうでしょう?いずれにしても、自分が貧しい馬小屋だと思えるとしても、主が私たちの心で働かれたのですから、神に感謝することは、私たちに大いなる善をもたらしてくれるでしょう。神は、私たちの馬小屋、つまり心を特別な場所として準備されたのです。
最も良いのは、ご降誕の夜、羊飼いの一人に起こったようなことを経験することでしょう。「すてきな話が言い伝えられています。イエスがお生まれになったとき、羊飼いたちはさまざまな贈りものをもって馬小屋へと駆けつけたそうです。それぞれ、自分の持っているものを携えて行きました。労働の実りを届けた人もいれば、何か貴重なものをもって行った人もいました。皆が何かしらの贈りものを携えている中、何も持たない羊飼いが一人いました。その人はとても貧しく、差し出す贈りものがなかったのです。他の人たちが競って贈りものを差し出す中、彼は離れたところに立って恥ずかしそうにしていました。やがて、聖ヨセフと聖母は、すべての贈り物を受け取るのが大変になってしまいました。とくにマリアは幼子を抱きかかえていて大変でした。そして何も持っていないその羊飼いを見て、マリアは近くに来るよう頼み、その腕に幼子イエスを預けます。幼子を受け取ったこの羊飼いは、身に余るものを受けたのだ、あらゆる時代でもっとも偉大な贈り物を手にしたのだと気づきました。彼は自分の手を見ます。ずっと空だったはずの手です。その手は神のゆりかごになっていました。彼は自分が愛されていると感じ、羞恥心は消え去り、他の人々にイエスを示し始めました。この最高の贈り物を、自分のもとだけにとどめておけなかったのです」[1]。
「あなたの手には何もないと思えたり、あなたの心に愛が足りないと感じたなら、今夜はあなたのためにあります。神の恵みが現れました。あなたのいのちをさらに輝かせるためです。その恵みを受け取ってください。そうすれば、クリスマスの光はあなたの中で輝き続けるでしょう」[2]。私たちの内的戦いや使徒職の実りについての、個人的な見解の遥か彼方を眺めると、事実、私たちの手には何もないことが分かります。聖ホセマリアが非常に大切なものとして馬小屋を示し、勧めていました。「あの冷たい孤独の中で、聖母と聖ヨセフと共に、イエスが好み、イエスを温めるもの、つまり私たちの心を差し上げましょう」[3]。
多分、これまでに、手一杯の善行、つまり聖性と周りの人たちへの愛情があるなら、落ち着いていることができるでしょう。しかし、いろいろな望みを達成できないことが、たびたびあるものです。私たちの生活は、約束や片づけるべき事柄などで織り成されており、気づかないうちに時間が過ぎ去ってしまいます。大丈夫です。今でも同じように馬小屋に近づくことができるのです。そこで喜びと共に迎え入れられるでしょう。そして、私たちの人生のこの時期に、聖母と聖ヨセフは、喜びに満ちて私たちを迎えようと待っておられたことを、知ることになります。
救いが訪れます。ほんのしばらく待たなければなりませんが、もう喜びがあふれ出しています。聖ベルナルドが私たちの切望を再確認しています。「それゆえ、今、私たちの平和は約束ではなく送られてきます。遅れずに与えられます。予言ではなく、実現されます。御父は、いつくしみに満ちた袋と同じようなものを、この世に送られたのです。袋と言いましたが、この袋はご受難によって破られるでしょう。それは中に入っている私たちの贖いの代償を蒔き広めるためです。その袋は小さくても、中身はいっぱいです。実際に、幼子が与えられました。しかし、この子は神でもあるのです」[4]。
ザカリアの言葉は、私たちの救いの成就以前の最後の預言です。神は暗闇で生活している私たちに同情し、救うために来られます。私たちにそれを受ける値打ちがあるかどうかを判断することは、なさいません。私たちは、この義人で信心深いイスラエル人の手を通して、神との親密さを深めたいと望んでいます。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ(る)」(ルカ1・78)。これ以上に活き活きとした表現はありません。
私たちには、偽りによってこの特権を失うことがあり得ます。「わたしたちはさまざまな哲学と行事と仕事のなかで暮らしています。わたしたちの心はこれらのもので占められています。これらのせいで飼い葉桶までの道のりはほど遠いものになっています。神は、さまざまな仕方で繰り返しわたしたちを導き、助けなければなりません。それは、わたしたちが自分の考えや仕事の山から抜け出し、神に至る道を見出せるためです」[5]。この最終段階を、聖マリアの助けのもとに歩んで行くことにしましょう。多分、聖母はベツレヘムまでロバの上だったことでしょう。
聖ヨハネ・パウロ二世の言葉を使うと、今晩、「神が歴史の中に入ってこられます。人類の法に服されるのです。過去が閉じられます。つまり旧約の待望の時代が主のご降誕で幕を閉じます。未来が開かれたのです。恩恵と神との和解の新約です。それは、新しい時間の新たな“開始”です」[6]。私たちは、ホールに、麦わらや産着などで馬小屋を準備しながら、マリア様に同伴します。御子のために不足するものがないようにと、愛情を傾けて作業を続けます。これは、私たちが大好きな役目です。そして、両方とも私たちに必要だと思われたことがわかります。
[1] フランシスコ、説教、2019年12月24日。
[2] 同上。
[3] 聖ホセマリア『神との対話』“絶え間なく祈る”2番。
[4] 聖ベルナルド「ご公現についての最初の説教」1-2。
[5] ベネディクト十六世、説教、2009年12月24日 (霊的講話集2009, p. 400)。
[6] 聖ヨハネ・パウロ二世、説教、1979年1月1日。