黙想の祈り:聖母のみ心(6月8日・土)

黙想のテーマ:「聖霊の宿、マリア」「心の清い人は幸せ」「心で全てを熟慮する」

聖霊の宿、マリア

心の清い人は幸せ

心で全てを熟慮する


「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せられたから」(イザヤ61・10)。教会は、聖書のこの言葉をマリアの人物像を表すのに使います。広大で奥深いイエスの聖心を考察した後で、今度はその御母のみ心を眺めることにしましょう。主は、「聖霊のふさわしいすまい」[1]を準備しようと聖マリアのみ心を限りない恩恵で満たし、清さそのものになさいました。

聖エフレムのコメントです。「マリアは、私たちのため天国を作られた。それは、御父の栄光を放棄することなく、人を最高の尊厳に導くため、狭小な胎内に閉じこもったキリストの神性を私たちにもたらすためでした」[2]。恩恵に満たされるままになったマリアは、何らかの形で、光の中で神の栄光に与り天国になります。それゆえ、私たちの御母は快活でおだやかな方です。神の愛は全てを包括するのですから。聖マリアは、喜びを爆発させる偉大さを秘めています。「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。(…)今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・46-48)。

私たちも、マリアの心における恩恵の働きを見て感嘆した、幾世代にもわたる人々の歌声に一致することができます。それと同時に、私たちの御母のこの幸せを共有したい望みがわいてくるでしょう。私たちもまた、神が私たちの人生に働きかけられたことを思い出し、賛歌を歌いだしたいものです。というのも、神は、その栄光と共に私たちの心に入り込むことをお望みになったのですから。教会が御父に捧げる集会祈願の祈りに一致することができます。「聖母マリアの取り次ぎを通して、御身の栄光の尊厳ある神殿になることができるようにしてください」[3]


マリアの御子は宣教中、「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5・8)と、言うでしょう。マリアは、か弱い幼児の時から人となられた神を見る賜を与えられました。その清いまなざしは、イエスのまなざしを把握し、その多くの感情や意向を察知することもできたほどです。例えば、カナでは、御子の否定的な返事にも関わらず、マリアは、メシアとしての表明を前倒ししてくれることを知っているのです。また十字架上でも、御子のまなざしに、そばにいてくれるようにと言う、穏やかな頼みを見て取ります。

聖マリアは、その優しいまなざしによって、生活における大小さまざまな出来事の背後に、神の御手を見ることができました。これが、そのたえざる喜びの源でした。心の清さは、率直な見方をさせ、物事の核心に入り込むことができるようにしてくれます。すべてのことの源と目的が神であることを知っているからです。逆に、率直な見方を欠き、神の賜を受け入れないと、外見や表面的なことに欺かれるままになってしまいます。

純粋な心は、人々を理解し、格付けをしたり、レッテルを貼ったりしないよう努め、誠実に人々を愛することを容易にします。純粋さは、人々を遠ざけないばかりか、全くその逆です。すべての人は、神の子どもとしての偉大な尊厳を有していることを認め、この認識に一致した接し方をします。何よりも、傍らの人をもっと良く愛するように仕向けます。イエスの御母のような愛があるならば、どんな時でも、非常に不安定な状況においてさえも、愛情を示す手立てを見つけることができます。「マリアは、粗末な布とあふれるほどの優しさをもって、動物の岩屋をイエスの家へと変えることができるかたです」[4]


「たしかに神は御母を賞賛されましたが、地上における御生活中に信仰の明暗や仕事の疲労、苦痛から聖母を免除されなかったのも確かな事実です」[5]。神殿で少年イエスを見失ったエピソードに、不確かさの一つが見えます。どこにいるのか分からず心配したことや、探し当てた時の息子の言葉に困惑したこと。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカ2・49)。

イエスの思いを全て知り尽くすことはできません。主に従う人の生活で、ご自身の御母においてさえも、神が私たちをびっくりさせる時があります。神には、私たちの計画よりも広範で偉大な計画のあることを、私たちに思い起こさせようとお望みの時です。聖マリアも経験をされたことだと考えるのは慰めになります。聖書は、ためらうことなく、イエスの返事がマリアとヨゼフには理解できなかったと言った後で、「母はこれらのことを全て心に納めていた」(ルカ2・51)と、付け加えています。

あらゆることの背後に神の御手を認めることは、神の一つひとつのご計画の全容を直ちに理解することを意味しているのではありません。祈りの生活においても、主が信頼を求められることがはっきりしない暗い時があるものです。深い信仰が試練の時期を明白にしてくれます。マリアは、聖霊が心にお住まいだとご存知でした。そこは、愛するために指定された場であり、神が、時には苦しみと共に、また、理解するのに時間が必要な状況においても、共にいてくださるところです。私たちも、聖母の模範と助けによって、同じようにすることができます。


[1] ローマミサ典書、聖母のみ心、集会祈願。

[2] 聖エフレム、Sermo 3 de diversis: Opera omnia, III syr. et lat.Romæ 1743, 607。

[3] “concéde propítius, ut, eiúsdem Vírginis intercessione, tuae glóriae templum inveníri mereámur” (ローマミサ典書、聖母のみ心、集会祈願)。

[4] フランシスコ『福音の喜び』286番。

[5] 聖ホセマリア、『知識の香』172番。