黙想の祈り:聖母の訪問

黙想のテーマ:「 マリアの人生は他者に開かれている」「マリアは信仰の模範」「マリアは神への賛美を歌う」

マリアの人生は他者に開かれている

マリアは信仰の模範

マリアは神への賛美を歌う


「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(ルカ1・39)。受胎告知からほとんど時間は経っていません。大天使ガブリエルはお告げの最後に、すでに高齢であった、従妹のエリサベトが子を宿していることをマリアに知らせます。聖母は、完全に神の手に委ねられている者の覚悟をもって、従姉に同伴するため急いで旅立つことを決心したのです。

マリアは特別な状況でこの旅に出ます。彼女は救い主の母となることを知ったばかりです。彼女は、ガリラヤの取るに足らない町に住んでいる、普通の少女です。人間であれば当然、たった今、起こったこと、婚約者ヨセフが言うであろうこと、両親や親戚、町の人々の反応など、これから起こる試練に集中するでしょう。しかし、恵みに満ちた彼女の魂の反応は、まったく違っていました。「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)と、神に向かって「はい」と答えたマリアの行動はすべて、聖霊に導かれています。それゆえ、マリアは急いで山へ向かいます。彼女は従姉を助けたい、愛情を捧げたいと思っています。そしておそらく、神が働いておられる驚異の一端を、理解している唯一の人と話をすることで、彼女自身の幸福を分かち合いたいと願っているのです。

同じように、もし私たちが聖霊の息吹に心を向けるなら、私たちのキリスト者としての生活も、他者に対して、より開かれたものになるでしょう。徳において成長するための私たちの努力は、自分自身を中心とするものではなく、むしろ友愛と使徒職から切り離せないものとなるでしょう。そして同様に、祈りにおける主との親密さは、より洗練された方法で、すべての人に対して善を行うよう、私たちを導くでしょう。「このような精神に満ちた祈りであれば、一見、個人的なテーマや決心に始まるとしても、最後にはいつも、人々への奉仕について考えることになるでしょう。またマリアに導かれて歩むなら、私たちがすべての人々の兄弟であることも実感として受け取ることができます。私たちはみんな神の子であり、聖母はその神の娘、花嫁、母であるからです」[1]


マリアはヨハネが生まれる村、エン・カレムに到着します。彼女はザカリアの家に入り、エリサベトにあいさつします。「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされ(た)」(ルカ1・40-41)。福音書の中で初めて、私たちは、マリアが御子の贖いの御業と密接に結びついているのを見ます。ザカリアの家における彼女の存在は、神の恵みの水路です。マリアは、キリストをその家にもたらしたのです。私たちも信仰によって同じようにするよう招かれています。聖ホセマリアは言っています。「マリアと心を一つにし、聖母の数々の徳を真似るなら、恩寵によって、大勢の人々の魂にキリストを生まれさせ、聖霊の働きのもとに人々がキリストと一つになるための手助けができるでしょう」[2]

聖霊の働きによって超自然的な喜びに満たされたエリサベトは、喜びを抑えきれずにこう叫びます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(ルカ1・45)。この言葉は、私たちがマリアの信仰に注目し、マリアをこの徳の教師と見なし、私たちが信仰によって生きることを願うため、私たちを招いているのです。そうすることで、私たちは自分の生活の中にイエスの現存を認めることができるようになり、イエスと共に歩む者に不可能はないと確信するようになるのです。

「イエスは一つだけ条件をおつけになります、信仰に生きよと。信仰があれば、山さえ動かすことができるのです。世界中に揺り動かしてあげるべき人が大勢いるのではありませんか。しかし、まず第一に、己の心を揺り動かさねばなりません」 [3]。今日、私たちは、聖母に偉大な信仰、障害にも動じない信仰を求めることができます。「聖母よ、わたしたちの信仰を助けてください。わたしたちの耳を開いて、みことばを聞くことができるようにしてください。神のみ声と招きを知ることができますように。神に従い、自分の故郷を離れ、約束を受け入れることへの望みをわたしたちの心に燃え立たせてください」[4]


従姉の言葉を聞いたマリアは直接には答えず、神への賛美の歌マニフィカトを口ずさみます。聖母は、神の目を通して自分自身を見ています。聖母は、自分が神に見守られ、愛されていることを知り、神が純粋な恵みによって自分を選んでくださったことを、限りない感謝の心で悟ります。自分の卑しさを神の光で認め、喜びに溢れています。それは今日の祝日の典礼に見られる喜びと同じです。

マリアの謙遜で歓喜に満ちた喜びの歌は、私たちのために神の寛大さ、親密さ、優しさを表現しているのです。同じように、預言者ゼファニヤは神の父としての配慮を強調しています「お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たに(される)」(ゼファニヤ3・17)。「主は、みなさんに、そして私に関係のある些細なことにまで関心をもっておられます。そして一人ひとりを名指しで呼んでくださるのです。信仰のもたらすこのような確信のおかげで、私たちは周囲を眺め、総ては以前と変わらぬままであるのに、総てが異なって見える、そしてその理由は、総てが神の愛のあらわれであるからである、と悟ります」[5]

このような態度を養うことは、私たちが、神から受けるすべてのものに、常に感謝することにつながります。私たちが持っているすべての良いものを、神の賜物として見るようになります。そして、自分の生活を変えなければならないと思うことで、個人的な努力に常に寄り添って支えてくれる神の恵みに信頼するようになります。その時、私たちはマリアと共に叫ぶことができるのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(ルカ1・46-48)。


[1] 聖ホセマリア『知識の香』145番。

[2] 聖ホセマリア『神の朋友』281番。

[3] 聖ホセマリア『神の朋友』203番。

[4] フランシスコ教皇『信仰の光』60番。

[5] 聖ホセマリア『知識の香』144番。