黙想の祈り:年間第2主日(B年)

黙想のテーマ:「主に導く仲介者」「人生を変える出会い」「喜びを分かち合う」

主に導く仲介者

人生を変える出会い

喜びを分かち合う


今日の日曜日の典礼は召し出しについて語ります。第一朗読はサムエルという神殿に住んでいた少年の召し出しについてです。ある晩寝ていると、誰かが三度、彼の名を呼びました。その度に彼は祭司エリのもとに行きます。エリが彼の名を呼んだと思ったからです。三度目にサムエルがエリのもとに行った時「エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 サムエルに言った。『戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、〈主よ、お話しください。僕は聞いております〉と言いなさい』」。それ以来サムエルは主の声を聞き分けることを学び、預言者となりました。福音書も似たような場面を提示します。洗礼者ヨハネはイエスが歩いているのを見て二人の弟子に言いました「見よ、神の小羊だ」(ヨハネ1・36)。二人はイエスに従い、イエスと共にその日を過ごした後、イエスがメシアであると認めました。続けて彼らは他の人々に自分がメシアに出会ったことを伝え、このようにしてイエスの最初の弟子たちのグループが生まれました。

これら2つのテキストでは「仲介者の役割を果たす人の重要性が強調されます。仲介者は、召し出された人が神の声を聞き分け、これに従うのを助けます」[1]。サムエルと二人の弟子はエリと洗礼者のおかげで主を知ることができました。神は自身の呼びかけを示すために人を用います。第一に「両親が果たす根本的な役割」があります。「両親は、自らの真正で喜びに満ちた信仰と、結婚の愛をもって、神への愛に基づいて全生涯を築くことがすばらしく、またそれは可能であることを子どもたちに示すのです」[2]。それゆえ聖ホセマリアはよく、オプス・デイのメンバーの召し出しは99%彼らの両親に由来すると、話していました[3]。それに加え友人や〈長男〉の証は、私たちの視野を広げ、私たちがキリストの塩となり光となるための後押しをしてくれます。これらの人は洗礼者のようにキリストを私たちに指し示し、私たちがキリストと共に生きる喜びを見出すよう私たちを招きます。この祈りの時間において私たちは、自分が信仰と召し出しの道を歩むことを助けてくれた人々のことを思い出し、感謝することができるでしょう。また私たちがエリや洗礼者のように周囲の人々に主への道を示すものとなれるよう神に助けを願うこともできるでしょう。


二人の弟子、ヨハネとアンデレはイエスに彼がどこに住んでいるのかを尋ねます。この問いかけは憧れから来るものだったかもしれませんし、好奇心から来るものだったかもしれません。主は彼らに言います:「来なさい。そうすれば分かる」。イエスは彼らに詳しい情報を与えません。その一方で彼らが自分のもとに来るよう、もっと深くイエスと関わるよう招きます。彼らは招きに応えます:「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」。この出来事に感銘を受けたヨハネは後に福音書を書いた時までその時刻を覚えていました:「午後四時ごろのことである」(ヨハネ1・39)。「この箇所はわたしたちに考えさせてくれます。多くの出会いが忘れ去られてしまいますが、イエスとの真の出会いはいつまでも記憶に残ります。そしてこの二人は何年も後に、時間さえも思い出します。あれほど幸せで、完全で、自分たちの人生を変えた出会いを、忘れることなどできません」[4]

もしかしたらヨハネとアンデレは、はじめ、明確で具体的な答えを得ることを期待して、イエスに近づいたのかもしれません。そしてあとで必要な時にそこを訪問しようと考えていたのかもしれません。福音書には、明確な答えを得るためにイエスに近づいた人々が描かれています。例えば金持ちの青年は次のように尋ねました:「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19・16)。このような問いかけに対し常に主は質問者が自身により近づくよう、自身と人生と命を分かち合うよう招きます。なぜならそれが私たちの幸せへの渇望を満たしてくれる唯一の理想だからです。「わたしたちは多くのことを体験し、多くのことをやり遂げ、多くの人と関係を築きますが、イエスとの出会いだけが―それがいつなのかは神がご存じです―わたしたちの人生に完全な意味を与え、わたしたちの計画や取り組みを実り豊かなものにすることができるのです」[5]。結婚であれ、使徒的独身であれ、どんな召し出しにおいても、私たちは神と人生と命を分かち合い、それらを他者に与えるよう呼ばれています。後に福音書を書きながらヨハネが自己の人生を振り返った時、彼は自分のキリストとの出会いを何ものにも代えがたい決定的な出来事として振り返ったことでしょう。


ヨハネは、キリストとの出会いを想起するにあたり、アンデレがその後すぐに取った行動を書き記しています。アンデレは兄弟のシモン・ペトロを探しに行き、メシアと出会ったことを告げます。しかし言葉で説明しようとするのではなく、ペトロ自身が自分の目でイエスを見ることを望みます。それゆえペトロを主のもとに連れて行きます。すると「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―〈岩〉という意味―と呼ぶことにする』と言われた」(ヨハネ1・42)。

何か良い知らせを受けた時、または何か喜ばしいことが起きた時、人はそれを自身が愛する人と共有します。周囲の人々と喜びを分かち合うことは喜びを倍加させます。アンデレや他の使徒たちはこのような心境でメシアを人々に告げ知らせました。彼らにとって福音を広めるとは、単に教わったことを他者に伝えることではなく、彼らを喜びに満ち溢れさせる事実を他者と共有することでした。それゆえ聖ホセマリアは言います:「この世の直中に住んでいるあなた、良いとか悪いとか言われている人々と接触を保ちつつ生きる社会人であるあなた…、そのあなたは、キリスト者であるゆえ有する喜びを人々に与えたいと常に望んでいなければならない」[6]

聖母マリアは親戚のエリザベトにメシアを授かった喜びを届けました。マグニフィカトの賛歌では主が彼女に行った業を賛美し、神の憐れみがすべての人に届くことを歌いました(ルカ1・46ー56参照)。「私たちもマリアに倣い、彼女の祈りを唱えることができます。聖母と同じく私たちも、神の偉大さを称え、生きとし生けるものすべてが、私たちの有する幸せにあずかって欲しいと願うのです」[7]


[1] ベネディクト十六世「お告げの祈り」でのことば、2012年1月15日。

[2] 同。

[3] 聖ホセマリア、対話、104番参照。

[4] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2021年1月17日。

[5] フランシスコ、「お告げの祈り」でのことば、2018年1月14日。

[6] 聖ホセマリア『拓』321番。

[7] 聖ホセマリア『知識の香』144番。