イエスは、弟子たちだけと居るため離れたところに行きます。そこはガリラヤ湖を臨む、すそ野の広がる小高い丘です。神の国を告げ、病人を癒しつつ、町や村を巡って疲れ、休息が必要だったのです。しかし人々は神であられる先生を探します。師の後には、イスラエルのあらゆる所からやって来た群衆がついて来ます。イエスは、弟子たちとその群衆をご覧になり、話しはじめます。それは聴衆に深い感銘を与えました。真福八端です(マタイ5・1-12、ルカ6・20-26)。
山上でのこの講話は、イエスがマリアと共に過ごした生活を映し出すものでした。聖母のうちに主はそれらの態度を認め、今、幸せに至る道として示します。すなわち、清貧、柔和、あわれみ、心の清さ、平和…です。マリアは、従姉のエリザベトが言ったように「幸せな方」(ルカ1・45参照)です。
マリアは幸せな方です。というのも、窮乏や困難、無理解などにおいても、神に祝別されていることをご存知だったのです。いつもマリアは神に信頼しておられました。「マリアの成功の秘訣はまさに、その貧しさを自覚すること、自分が貧しい者であることを認識していることにあります。神において、自分を無と認める者だけが、すべてを得ることができるのです。自分を空とする者だけが、神によって満たされるのです」[1]。無原罪のマリアへの9日間の祈りの間、聖母に付き添われて真福八端の道を歩む事ができます。イエスが講話で描写される状況は、何らかの形で、私たちの日常生活にも見られることだからです。私たちは聖母により頼んで、先ず、神への信頼をベースにすることを教えてもらうことができます。日々、私たちの心を幸せで満たしてくださるのは、他でもない主だからです。
初めて真福八端の講話を聴いた弟子や人々は、びっくりしたはずです。それとは反対のことを聞きなれていたのですから。彼らは、人間的な繁栄を神から愛されているしるしだと理解していました。ですから、貧しさや不正に直面している人は、幸せだと考えなければならないということに当惑したのです。しかし、それらのことに驚くのは彼らだけではないでしょう。現代でも、人は、幸せを物的な現実とか確実性とか、単に人間的なものに求める傾向があります。経済的な成功や、専門分野での名声、問題のないこと、快楽や安楽志向などです。そうすると、人生で遭遇する苦しみ、すなわち痛みや誤解、病気や不確実なことは、払いのけることが当然であると考えるようになります。
もちろんイエスは、天国に行くために、この世であり得る苦しみを全て経験するようにと言っているわけではありません。聖ホセマリアは「天国の幸せは、この世で幸せでいることのできる人のためである」[2]と言っていました。主は私たちが幸せを、はかないことや一時的な事に求めたり、自分自身で作り上げるものと考えたりせず、私たちの尽きることのない渇きを癒すことのできる唯一の方、イエスご自身との出会いに求めることをお望みなのです。イエスは、この世のはかない小さな喜びよりも、新たな命の源である神と共に留まることが、もっと大きな喜びをもたらすことを固く信じるよう招きます。属人区長は言います。「大きい問いかけの背後において、私たちには見えない偉大で素晴らしい展望を神が準備しておられます。必要なことは、主に信頼し、主との出会いに出向くことです。そして、もしそうしたら、人生の多くの良いものを失ってしまうと考えて恐れないことです。驚きをもたらす神の力は私たちのあらゆる予想をはるかに上回るものです」[3]。
マリアは、ただ神においてのみ、真の幸せに出会うことを知っていました。そして私たちは、周りの人々において主に出会うことができます。これは聖人たちが、一心に努めたことです。「神の御顔を、いつも全てにおいて、全ての人の中に認め、あらゆる出来事に主の御手を見ることです。これが、世の真っただ中で観想生活をするということです。特に慎ましいパンの外観のもとに、また痛ましい貧しさに陥っている人々の中に、現存されるイエスを礼拝することです」[4]。
神の現存の下に生きると同時に、周りの人たちを助けようと出かけるのは、エリザベトを訪問するマリアのような振る舞い方です。天使のお告げを受け入れて、数カ月後にはイエスの母になる人が従姉を訪問しようと出かけたのです。長距離の旅の困難に戸惑われることなく出立されます。エリザベトへの最大の奉仕は、神ご自身を彼女の家庭にもたらすことでした。それで、エリザベトの挨拶にマリアはマグニフイカトで答えます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・46-48)。
マリアは、天使のお告げを受けたとき、自分が「はしため」にすぎないことを自覚していました。しかしながら、今は、神がその遜りに目を留められたので、幸せな人であることを認識します。それゆえ、幸せな人の典型として、富や権力ではなく、貧しく謙遜な心をご覧になる主を褒め称えます。マリアの全生活を占めていたのは、神のことであり、他者との関わりも主との出会いでした。「私たちもマリアに倣い、彼女の祈りを唱えることができます。聖母と同じく私たちも、神の偉大さを謳歌し、生きとし生けるもの総てが、私たちの有する幸せに与って欲しいと願うのです」[5]。
[1] フランシスコ、 「お告げの祈り」でのことば、2021年8月15日。
[2] 聖ホセマリア『鍛』1005番。
[3] フエルナンド・オカリス「Dejarse sorprender por un Padre bueno」2019年1月25日。
[4] カルカッタの聖テレサ「世の真っただ中における、思考、歴史と祈り」(En el corazón del mundo: pensamientos, historias y oraciones, Ed. José J. de Olañeta, 2016)。
[5] 聖ホセマリア『知識の香』144番。