黙想の祈り:主の洗礼(1月8日)

黙想のテーマ:「洗礼者のように主を証する」「友情と信頼の使徒職」「友情を通して種をまく」

洗礼者のように主を証する

友情と信頼の使徒職

友情を通して種をまく


「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見」(ヨハネ1・29)た。主は各地から集った群衆の一人としてヨハネのもとに来ます。群衆にとってナザレの大工は沢山の人たちの中の一人にしか過ぎませんでした。しかし、洗礼者はその大工が神の子であることを見抜き、彼に洗礼を授けるのを拒みます。「『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』。しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」(マタイ3・14ー15)。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3・16ー17)。洗礼者聖ヨハネによって旧約の長い準備期間は終わりを告げようとしていました。ヨハネはその時が来たことを感じ、そして新たな創造の業が始まる時が来たと解釈します。彼は最初の創造の業が行われた時に動いていた霊がいることを感じます(ヨハネ1・32、創世記1・2参照)。彼は自分がこれから来る「聖霊によって洗礼を授ける者」の先駆者であることを知っていました[1]

私たちも聖霊の光によって、主が私たちと共におられることを発見しました。それゆえ私たちも洗礼者のように主を証するものになりたいと思っています。


洗礼者聖ヨハネの全人生は、人々が救い主の到来を準備するよう彼らを諭すことに捧げられました。彼の声は「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3・3)でした。主が来られたのを見て、ヨハネは大いに喜んだことでしょう。ついにヨハネは次のように言うことができます:「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」(ヨハネ1・30)。私たちのキリスト者としての役割はヨハネのそれと似たようなものではないでしょうか。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」(ヨハネ1・26)。聖書のこの言葉は私たちにおいて現実になります。自然な形でキリストは私たちの生き方や言葉に現れます。そのことにより私たちはキリストをまだ知らない人々をキリストに近づけることができます[2]。聖ホセマリアは言います:「皆さんは通りを歩くキリストです。しかしキリストが踏まれた場所を皆さんも踏まねばなりません」[3]


沢山の人がヨハネの言葉を聞くため、そして洗礼を授かるためにヨルダン川に集まりました。しかしこれらの人々とは別にヨハネは弟子を持っていました。この弟子たちはヨハネの近くにいることができ、ヨハネと直接会話することができました。そしてこの弟子たちの中からイエスに従う最初の者たちが現れました。

私たち一人ひとりは多くの知人を持っています。そして時に、様々な手段を用いて多くの人々にキリストのメッセージを同時に伝え広めることも可能でしょう。しかし一般的にキリストのメッセージを伝えるには聖ホセマリアが「友情と信頼の使徒職」と呼んだ使徒職が最も適切であることが多いと言えます。それは例えば、人々に対する適切な言葉、慎ましい助言、心温まる会話などを通して人々が愛を生きたり、問題をキリスト教的な味方で理解したりすることを助けるという形で現れます。しかしそれ以上に重要なのは、模範となるしっかりした人生を生きることです。謙遜にそして大胆に、一貫したキリスト教的な生活を人々の間で自然な形で生きること、行いを持って信仰を現すことです。そのような生き様は人々を惹きつけます。そしてこれらは神の助けによって実現します[4]

使徒職は奉仕、善の拡散、友情です。愛から生まれる他者に対する心からの気配り、それは私たちの心に満ちあふれる喜びを伝えます。信徒は特に自由と責任を持って行動し、社会構造の中にキリストのメッセージというパン種を練り込むよう招かれています[5]。私たちの目前には大きなパノラマが広がっています。

聖母が特に私たちの身近にいる人たちを守ってくださるよう祈りましょう。私たちが友情と信頼を通して身近な人たちに神の言葉の種をまくことができるように。聖ホセマリアは言います:「種をまきなさい。私は収穫の主の名によって皆さんに保証します。収穫はあります」[6]


[1] 聖ヨハネ・パウロ2世、一般謁見演説、1990年7月11日参照。

[2] 聖ホセマリア、 手紙(1953年8月15日)、11番参照。

[3] 聖ホセマリア、家族の集まりでのメモ、1969年1月9日。

[4] 聖ホセマリア、手紙(1930年3月24日)、11番参照。

[5] 聖ホセマリア、対話、59番参照。

[6] 聖ホセマリア、手紙(1939月3月24日)。