黙想の祈り:主の公現(1月7日・祭日)

黙想のテーマ:「賢人たちは諸民族の代表」「贖いは全ての人のため」「私たち自身の生活で照らす」

賢人たちは諸民族の代表

贖いは全ての人のため

私たち自身の生活で照らす


「少し前に、博士たちが神の御子を礼拝する場面を表した大理石の浮彫細工に見とれたことがあります。その彫刻のまわりには王冠・十字架をのせた地球・剣・王笏などの象徴をそれぞれ手にした四位の天使が刻まれていました。今日祝おうとしている出来事を、よく知られているしるしを用いて、このように浮彫で表現してあったのです。言い伝えによれば、王であったと言われている賢人たちは、エルサレムで『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか』(マタイ2・2)と尋ね、御子の前に来てひざまずいたのでした」[1]

ご公現において祝う、東方からやってきた賢人たちの訪問は、ユダヤ人以外のすべての民族に主がお現れになったことを意味します。喜びにあふれて、この現れを祝いましょう。羊飼いたちの次に、主はこの神秘的な人物たちにご自分を現されます。ご公現において、神は「一つの星を介して異邦人に」[2] 御子を示されます。「神の到来という麗しい事件は全ての人のためです。つまり、諸国、諸言語、諸民族は主に迎えられ愛されている存在なのです。これを象徴するのが光です。光は、すべてに及び、すべてを照らすからです」[3]。生まれたばかりの子はイスラエルに約束されていたメシアですが、その贖いは地上の全ての民族に及びます。「救いを求める人々の巡礼の目的であるキリストを祝うのです」[4]

福音書は、賢人たちが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み」(マタイ2・11)と語っています。この賢人たちの礼拝に、イエス・キリストを礼拝するよう神に招かれた道の途上にある、世界の隅々まで広がっている全ての人が参加しているように私たちには見えます。これが次のイザヤの預言の真の意味です。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(イザヤ60・1)。聖なる都に響き渡った預言者の声は、新たなエルサレム、諸国の光である教会にも向けられています。あらゆる国の王や人々がその栄光の輝きに魅せられてやって来るでしょう。諸国民の母であり教師である教会が、彼らをその懐に迎え入れ、彼らを貴重な持参金としてキリストに差し出すのです。


賢人たちの礼拝から20世紀以上も経ちましたが、世界中の人たちの長蛇の列はまだ始まったばかりのようです。「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように」(詩篇22・28)。初代信者の福音宣教は非常に徹底しており、その頃の知られていた世界の隅々まで勢いよく信仰の種をまきちらしました。その実りは直ぐにやってきました。それ以来、無数の人がイエスとマリアに近づき、そして彼らも種まきを続けました。私たちも同じように、あらゆる地域の民族、言語の人々に近づきましょう。「目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る」(イザヤ60・4)。

「イエスは、特に恵まれた人々にだけ向かって話しかけられたのではなく、神の広く大きな愛を証すために来られたということを絶えず繰り返して教える必要があります。人はみな神に愛され、そして神は、個人的な事情や社会的条件、職業、仕事を問わず、すべての人間からの愛を待っておられるのです。平凡な日常生活に価値がないとは言えません。地上での道は全て、キリストとの出会いに導いてくれます。おのおのが置かれた場所で神から託された使命を果たし、キリストに一致するために、私たちはキリストに招かれているのです。日常の出来事や、一緒に生活している人々の喜びや悲しみのうちに、同僚の人間的な熱意や家庭の小さな出来事を通して、神は私たちを呼んでおられます。さらに、各時代の歴史を特徴づけ、人類の大多数の人々の努力や夢をひきつける大きな問題や葛藤、課題などを通して、私たちを呼んでおられるのです」[5]

私たちにもあの初代信者と同じ使命があるのです。「子供たちよ、私たちは大衆のためにいるのです。私たちの愛や助けの対象から除外される人など一人もいません。どんなことでも全ての人のためにするのです。“omnibus omnia factus sum”『すべての人に対してすべてのものになりました』(一コリント9・22)。人びとの心配事や必要としている事に背を向けることはできません」[6]。私たちも星を見ました。そして主は、私たち一人ひとりを通して主の慰めと救いを全ての人に届けることをお望みなのです。


今日のミサの叙唱で「御子キリストを遣わし、諸国の民に救いの神秘を示してくださいました」と唱えます。私たちは、贖いの御業に協力したいと思っています。聖ヨハネ・パウロ二世は「人類全体を見わたすと、この使命はまだ始まったばかりである」[7] と言います。私たちは、この神なる幼子こそ真の光、人類を照らす光であることに確かな希望を置いて生きています。そしてある意味で、賢人たちを導いた星のようになって、神に至る道を人々に示したいと思っています。

1965年のご公現の祝日に聖ホセマリアは尋ねました。「王はどこにおられますか。イエスは何にもまして心を、あなたの心を治めたいと望んでおられるのではないでしょうか。そのために子どもになられたのです。幼子を愛さない人がいるでしょうか。王はどこにおられますか。聖霊が私たちの心に形づくろうとするキリストはどこにおられるのでしょうか。人を神から遠ざけることになる傲慢な心にキリストがおられるはずがありません。私たちを孤立させるもとになる愛徳のない心にも。そのようなところには、キリストはおいでになりません。そこには孤独な人が一人ぼっちでいるだけです。ご公現の祝日、外見上は王の尊厳を何も持っておられない王・幼子イエスの足もとで、次のように申し上げましょう。主よ、私から傲慢を取り除いてください。自己を主張して他人に自分をおしつける私の自愛心を踏みにじって下さい。私の人格の基礎を御身との一致におくことができますように」[8]

この大祝日に、幼子の御前にひざまずいた東方の賢人たちから学ぶため、愛情を込めて馬小屋を眺めることにしましょう。賢人たちの模範にまねて、イエスに申し上げるのです。あなたの贖いの御業を邪魔することがないようお助けください、と。マリアには、私たちが家族や友だちの光になることを教えて下さるように、また、キリストがお住まいになるにふさわしい謙遜な心をお与えくださいと頼みましょう。そして、主と一致して、多くの人を贖い主の愛に導くことができますように。


[1] 聖ホセマリア『知識の香』31番。

[2] 主の公現のミサ、集会祈願。

[3] フランシスコ、2019年1月6日説教。

[4] ベネディクト十六世、2007年1月6日説教。

[5] 聖ホセマリア、『知識の香』110番。

[6] 聖ホセマリア、1945年5月6日手紙42番。

[7] 聖ヨハネ・パウロ二世、回勅「救い主の使命」1番。

[8] 聖ホセマリア『知識の香』31番。