黙想の祈り:聖家族(12月31日)

黙想のテーマ:「神の計画における家庭」「すべての賜物のゆりかご」「第一の使徒職」

神の計画における家庭

すべての賜物のゆりかご

第一の使徒職


「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた」(Lc 2・33)。私たちも神が幼子になったこと、家族を必要としたことを見て驚きます。私たちは家庭において、愛され、助けられ、ゆるされることを学びます。私たちは、物事にまだ気が付かない幼い頃から、家庭において愛情と配慮を受けてきました。このことに対し、私たちは決して十分にお返しすることはできないでしょう。しかしそうであっても、それは私たちの心を重くするものではありません。それは私たちを感謝の気持ちで満たし、応えるようにと促す現実です。

聖書には、「心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。両親のお陰で今のお前があることを銘記せよ。お前は両親にどんな恩返しができるのか」(シラ書 7・27-28)とあります。私たちは、自身が感謝することさえできなかった時期に私たちを世話してくれた人々に、感謝する義務があります。私たちの両親が私たちと幸福を共有することは正義にかなうことです。多くの場合、信仰と敬虔の種を私たちの人生に蒔いてくれたのは彼らです。

聖ホセマリアは、各家庭の掛け替えのない使命を私たちの前に提示します。「キリスト信者の家庭は聖家族のような明るく朗らかなものであって欲しいと思います。ご降誕のメッセージは力強く響き渡ります。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』(ルカ 2・14)。使徒パウロは、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3・15) と書いています。父である神とキリストに愛され、おとめマリアに保護され、ヨセフに守られていることを知っている者の平和のことです。これは私たちの生活を照らす大きな光であり、遭遇する困難や各自の個人的な弱さをものともせず前進するための力を与える平和なのです」[1]


人生において重要なのは、愛されていることを知り、愛することを学ぶことです。人はまず、このことを家庭の中で学びます。同時に、すべてが理想的であったとは言えないことがあるのも事実です。私たちは完全ではありません。ですから、今、イエス、マリア、そしてヨセフに、困難を抱えるすべての家族のための取り成しをお願いしましょう。

家庭はすべての賜物のゆりかごであると言えるかもしれません。家庭の中で、私たちは、自分自身であることを肯定され、祝福されていると感じ、また私たちの人生も他の人々にとって賜物であることを発見します。私たちの心には、私たちは子であるということが刻まれています。それに加え私たちは父であったり、母であったり、兄弟や姉妹であったります。 いずれにせよ私たちは皆、子です。私たちは命をもらいました。そして誰かが私たちを待っています。最も困難な状況にあっても、子であることは父なる神と出会うための通常の道です。

「クリスマスは家族のお祝いと見なされています。集まり、贈り物を交換することは、相互に交わりたいという強い願望を強調し、家族の最高の価値を明確にします。家族は、真理・愛・夫婦間の不解消の忠実・命の受け入れることに基づいた、人と人との愛の交わりとして再発見されます。クリスマスの光の中で、家族はプロジェクト・連帯・ゆるし・信仰の共同体であるという使命を理解します。家族の中で、一人ひとりはアイデンティティを失うのではなく、それぞれ固有のものを賜物として提供することにより皆の成長に貢献します。聖家族がそうでした。信仰は聖家族を、キリストの光で照らされたすべての家族の始まりと模範として、提示します」[2]


ベツレヘムにおいて、神は私たちの一人になりました。神は私たちの歴史、私たちの道、私たちの自由を生きたいと望みました。 「家庭はキリスト論的しるしです。受肉、十字架、復活によって人間と結ばれることで人間のいのちをともに生きておられる神の、近しさを示すからです」[3]。家族の力は非常に大きく、私たちを希望で満たします。家庭における愛が持つ変容と癒しの力によって、どんな困難も克服できます。家庭はすべての賜物を私たちに授けるために神が選ばれた場所です。まずはじめに命、そして信仰、召命、名前、教育、気質、言葉、所属する場所...それゆえ聖ヨハネ・パウロ2世は、聖母マリアへの連祷に、家庭の元后への願いを含めることにしました。それ以来、何百万もの声と心が、聖母に、世界中の家族を守るよう、すべての家族が人類を絶えず刷新するためのゆりかごとなるよう願っています。

両親と兄弟姉妹は、私たちの血縁です。そのため、私たちの宣教への願いは、彼らに対する配慮から始まります。キリストの初期の弟子の宣教も同様でした。アンドレは、「まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア―〈油を注がれた者〉という意味―に出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―〈岩〉という意味―と呼ぶことにする』と言われた」(ヨハネ1・41-42)。アンドレと一緒に最初にイエスに近づいたヨハネも、兄弟ヤコブにその発見を伝えました。このようにヨハネは後のヤコブの召し出しの準備をしたのです。

マリアとヨセフとともに、私たちも感嘆の心で満たされたいと願っています。ベツレヘムにおいて神はすべての家庭のもとに降りました。とりわけ最も傷ついた家族のもとに来ました。それは私たちを癒し、私たちに寄り添い、私たちと共にいるためです。


[1] 聖ホセマリア『知識の香』22番。

[2] 聖ヨハネ・パウロ二世、 一般謁見演説、1999年12月29日。

[3] 教皇フランシスコ、使徒的勧告『愛のよろこび』、161番。