「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(使徒言行録6・8)。イエス・キリストの教えを信じる人は次第に多くなっていきました。しかし、多くの人がキリストを知らないため、あるいは曲解していたため、イエスを救い主として認めませんでした。「ある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。そこで、彼らは人々をそそのかして『わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた』と言わせた」(使徒言行録6・9-11)。
聖ステファノはキリスト教の最初の殉教者です。彼は、石を投げる人々のため祈りながら聖霊に満たされて亡くなりました。「昨日、キリストは私たちのために布で包まれました。そして今日、主はステファノを不死の衣で包まれます。昨日、幼子キリストは狭い飼い葉桶に寝かされました。そして今日、勝利者ステファノは広々とした天国に迎えられます。主は、多くの人を高めるためにお降りになります。私たちの王は、その兵士たちを称揚するため、遜られます」[1]。私たちも、言葉で、そして何よりも福音の喜びの溢れる生き方で、イエス・キリストのメッセージを広めるという素晴らしい使命を受け取りました。聖パウロはあの出来事を目の当たりにして、ステファノの証しに感動し、回心後は、自身の使命遂行のための力をそこに見出したことでしょう。
「善は、つねに広がっていくものです。真理や美に関するすべての真正な体験は、おのずから広がりを求め、深い解放を体験した人はだれでも、他者の必要に対して敏感になります。(…)熱意を取りもどし、たとえ涙のうちに種を蒔かなければならないときでも、甘美と慰めに満ちた福音宣教の喜びを保ちましょう。現代世界は、時には苦悩のうちに、時には希望のうちによき知らせを求めています。願わくは、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、(…)生活があかあかと輝いている福音宣教者から、福音を受け取りますように」[2]。
「(彼らは)偽証人を立てて、次のように訴えさせた。『この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません』」(使徒言行録6・13)。今日でも聖ステファノの時のようにキリスト教の教義が歪められるときがあり得ます。ですからいつも私たちは自分自身の生活を通して、その永遠の若さを示さなければなりません。「キリスト教のメッセージが古くなることは決してありません。(…)わたしたちが原点に立ち返ろうとし、福音の本来の新鮮さを取り戻そうとするたびに、新しい手段が生み出され、現代世界にとって新たな意味を豊かに備えたことば、さまざまな表現形態、効果的なしるしなどの、創造的な方法が生み出されます。事実、あらゆる真の福音宣教は、つねに『新しい』のです」[3]。
キリストを弁明して死に直面した聖ステファノは、あわれみに満ちて、彼に石を投げていた人々の救いを願いながら亡くなりました。「私たちの王は、至高の方でありながら、へりくだって私たちの所にお降りになりました。しかし何も携えずにいらしたのではありません。大きな贈りものをその兵士たちに持ってこられました。それは、単に彼らを富ませるだけのものではなく、難しい戦いのため彼らを強めるものでした。それと同時に愛徳の賜をくださったのです。(…)キリストが天から地上にもたらされた同じ愛徳で、ステファノを地上から天に引き上げたのです。同じ愛徳は最初、王によって表され、それから兵士のうちに輝き出たものです」[4]。
私たちも、現代のあこがれや心配事に新たな意味を与える、福音の喜びでこの世を照らしたいと望んでいます。私たちの使命遂行における知恵と大胆さを主にお願いしましょう。「オプス・デイの偉大な使徒職の基はここにあります。私たちを待っているこの群衆に、何が神に正しく導く道なのかを示すことです。それゆえ、子供たちよ、皆さんは主の慈しみを述べ伝える神的な役目に呼ばれています。misericordias Domini in aeternum cantabo、『主の慈しみをとこしえにわたしは歌います』(詩編89・2)」[5]。
「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」(使徒言行録7・55-56)。最初の殉教者は最後の瞬間まで、私たちの回心を求めておられる神のいつくしみを示しています。キリストと同じような言葉で祈りつつ亡くなった聖ステファノは、ここでも神なる師と全く同じでした。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」(使徒言行録7,59-60)。使徒としての私たちの使命も祈りと償いに基づいています。「祈りがないなら、神の絶え間ない現存がないなら、そして償いがないなら、(…)真の個人的使徒職はありえない」[6]。
聖ステファノは、敵をゆるしながら、祈りの内に亡くなりました。聖ステファノは、自身を十字架に磔にした人たちに対しそのように振る舞った主の模範に完全に倣いました。それゆえ、彼は「豊かな善で悪を溺れさせる」[7]という態度に表される私たちの使徒的使命の模範です。私たちを取り巻く社会の状況に時おり苛立つようなことがあるとしても、神の子である私たちには、「キリストがお与えになった平和と喜びを人々にふりまく人」[8]となる使命があるのです。聖ホセマリアは言いました。「それは、否定的なキャンペーンをしたり、何々反対を叫んだりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである。すべての人を、すなわちキリストに付き従う人も、キリストを見放している人や彼を知らぬ人も、理解する心で見ることである」[9]。
「ステファノは、愛徳を武器にし、あらゆる敵に勝ったのです。神の愛によってユダヤ人の激怒に立ち向かいました。隣人への愛によって石を投げる人々のため執り成しを願い、間違いを犯している人々を弁解しました。それは彼らが立ち直るためであり、愛によって石を投げる人々のため祈ったのは、彼らが罰を受けないようにするためでした。愛徳の力を支えにしていたので、サウロの残酷な激しさを打ち負かし、地上での迫害者だった人を天国での仲間にすることができたのです」[10]。使徒の元后・聖母マリアに、最初の殉教者の愛徳と剛毅を与えてくださるよう願いましょう。
[1] ルスペの聖フルゲンティウス、説教3。
[2] フランシスコ、使徒的勧告「福音の喜び」9-10番。
[3] 同上11番。
[4] ルスペの聖フルゲンティウス、説教3。
[5] 聖ホセマリア、1930年3月24日手紙3番。
[6] 聖ホセマリア、1930年7月21日内的メモ74番。
[7] 聖ホセマリア、知識の香72番。
[8] 同上30番。
[9] 聖ホセマリア、『拓』864番。
[10] ルスペの聖フルゲンティウス、説教3。