主の昇天、聖霊降臨に続く聖三位一体の栄光を称える祭日で復活節が盛大に締めくくられます。今日、キリスト信者は、感謝の内にこの上ない喜びで満たされます。というのも、祭壇上のパンとぶどう酒が、キリストの栄光の御体と御血に変わり、その現存を目の当りにするからです。教会は13世紀から、この祭日を聖体への信仰を表すものとして祝っています。「出来うる限り、休まずにほめ称えよ。成し得る最高の賞賛でも決して十分とは言えないのだから―聖トマス・アクイナスは続唱ラウダ・シオンにしたためました―。今日祝う命のための生きたパンを限りなく称えよ。聖なる食卓で、兄弟として集まっていた12人にお与えになった時のパンである」。そして続けます。「歓喜に満ちて、朗々と喜ばしく、清い心からの賞賛であるように。聖体の制定を記念する盛大な祝いの日だから」[1]。
この聖なる形態―パンとぶどう酒―のうちに神としてとどまり、全能の力によって、あらゆる時代のすべての人のために、ご自分をお捧げになります。主の過ぎ越し―ご受難、ご死去、復活の神秘―が、終わることはありません。「神の永遠にあずかり、こうして、すべての時にまたがって、そのうちに現存させられる」[2] のです。主は、小麦とブドウから作られる簡素なたまものを、私たちがキリストご自身を尊ぶことができるものにしてくださったのです。聖ホセマリアは、聖体を、いつまでも続く愛の奇跡であると説明しました。「『子らのまことのパンである』[3]永遠の父の長子であられるイエスは、食物として御自らをお与えになりました。この世にあって力をお与えになるイエス・キリストご自身が、天では、『主の食卓にわれらを座らせ、天の聖人らの仲間として同じ世継ぎに加える』[4]ために、私たちを待っておられます。なぜなら、キリストは不滅の命ですから、『栄養を摂るものは、この世では死んでも、永遠に生きる』[5]のです」[6]。
後を追ってきた人たちの空腹状態を心配する弟子たちに、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9・13)と、言われました。彼らには5つのパンと2匹の魚があるだけです。しかし、「全ての人が食べて満腹した。そして残ったパンの屑を集めると、12籠もあった」(ルカ9・17)のです。この奇跡は、私たちの生活における聖体を想像させる、有り余るほどのイメージの一つです。また使徒職の仕事をも映し出しています。あの恩恵の管理者になることです。イエスは「教会に、ご自分の死と復活の記念祭儀を託」しました「すなわち、これは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずな、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、まして未来の栄光の保証がわたしたちに与えられる過越しのうたげです」[7]。
聖パウロは、彼自身受け取った、しかもキリストからのあの言い伝えを思い出しています。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である』と言われました」(一コリント11・23-24)。この文言は、古の子羊のいけにえと、砂漠を旅するイスラエルの民に神が与えられた食べ物、マンナを髣髴させます。たとえいけにえを捧げることであっても、そのいけにえから頂ける実りへの感謝をこめて行われるのです。
しかし、主がこの奇跡について最初に言明された時、それは快く受け入れられませんでした。「わたしは天から下ってきた生きたパンである。このパンを食べるなら、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6・51)と仰せになった時のことです。その話は、多くの人の間に物議を醸しだしましたし、今も驚くべきことです。「聖体と十字架とはつまずきの石です。同じ神秘であって、つねに分裂の要因となるものです。『あなたがたも離れて行きたいか』(ヨハネ6・67)というイエスの問いかけは今も行われていますが、それは、『永遠のいのちのことば』(ヨハネ6・68)を持っているのはご自分だけであること、そして、ご自分が与える聖体という贈り物を信仰をもっていただくことはご自身をいただくことだということを表すための愛の招きでもあるのです」[8]。
最終的に、主は、聖体において、私たちを皆、その御体に結びつけます。それゆえ、聖体拝領によって兄弟との一致が堅くなるのです。「キリストとその聖霊のたまものを聖体拝領において受けたわたしたちは、心の奥底から、兄弟として一致したいというあこがれで満たされます。同時にこのたまものは、感謝の祭儀を行う同じ食卓にわたしたちが共にあずかることによって、すでに経験している、兄弟としての交わりを深めます。こうして、この交わりは、単にともに食事をするという人間の経験をはるかに超えるのです」[9]。
マリアの子、イエスは、度々、人々に会いに来られます。福音書にはその出会いの様子がいろいろ述べられています。シカルの井戸端でのサマリア婦人との出会い、エリコでのザカリアとの、またバルティメオとの出会い、いずれも、すぐさまイエスの来訪が知れ渡ります。イエスは、今も多くのところで、地上にお住まいだった時と同じように、私たちと出会うために通りを巡っておられます。
祭日には、楽を奏で、聖歌を歌い、色とりどりの花を飾り、香を焚き、あかりを灯し、芸術的な粋を尽くして、主を礼拝し、主をほめ称えます。愛と信心をこめて聖体行列を準備しても、神に捧げるべき感謝を表すには不十分に思えるのです。しかし、こうしたことの上に、より主をほめ称えることができるのは、キリストご自身がいつも、私たちの中で生き生きと振舞われるように、主にお任せすることです。聖ホセマリアが言っています。「主の御体を拝領して新たにされたのであれば、その事実を行いに表さなければならないのです。私たちは心から平和と献身と奉仕を望まねばならず、私たちの言葉は、人を慰め、助けることばでなければなりませんが、特に神の光を人に伝えることができるよう、真実にして明白かつ適切であるべきです。そしてふるまいは、主の御業やご生活を想起させるもの、つまり、『キリストのよき香』をふりまく、首尾一貫した、的確で効果的なものでなければならないのです」[10]。
「おお、良き牧者、真のパン、ああ、私たちのイエスよ、私たちをお憐れみください。私たちを育み、お守りください。この世で本物の善を望ませてください」[11]。私たちは、聖体において、天国の至福をわずかながら味わうことができます。それゆえ、主のご托身を受け入れた聖マリアを称えるよう促されるのです。「Ave verum corpus, natum de Maria Virgine. Salve! 童貞マリアより生まれたまいし、真の人なる主よ」[12] と。
[1] 聖トマス・アクイナス、続唱、ラウダ・シオン。
[2] カトリック教会のカテキズム、1085番。
[3]聖トマス・アクイナス、 続唱、ラウダ・シオン。
[4] 同。
[5] 聖アウグスティヌス、 In Ioannis Evangelium tractatus, 26, 20 (PL 35, 1616)。
[6] 聖ホセマリア『知識の香』152番。
[7] カトリック教会のカテキズム、1323番。
[8] カトリック教会のカテキズム、1336番。
[9] 聖ヨハネ・パウロ2世、回勅「教会にいのちを与える聖体」24番。
[10] 聖ホセマリア『知識の香』156番。
[11] 聖トマス・アクイナス、続唱 Lauda Sion.
[12] 聖歌 Ave Verum。