黙想の祈り:イエスのみ心(6月7日・金・祭日)

黙想のテーマ:「私たちはキリストの御血に値する」「私たちを探し続けてくださるみ心」「戻る道を再び歩み始める」

私たちはキリストの御血に値する

私たちを探し続けてくださるみ心

戻る道を再び歩み始める


「神のはからいはとこしえに、御心の思いは代々に及ぶ。神は人々を死から救い出し、飢える者に糧を与えられた」[1]。 教会は、イエスの聖心とその愛の神秘に深く入ることができるように、詩編の言葉を伝えています。神の御心には、私たち各々の人生の計画があり、それは自由と命の計画であることをこの詩編は思い出させてくれます。「私たちは、進化の結果、偶然に生まれた無意味な産物のようなものではありません。私たち一人ひとりは、神のはからいに基づいて生まれたのです。私たち一人ひとりは、神から望まれ、愛され、必要とされています」[2]

私たちは十字架上のイエスに思いを馳せます。イエスは、私たちを無条件に愛しておられることを示すために、ご自身のみ心を貫かれることを許されました。聖アンブロジウスは、「エバが眠っていたアダムのわき腹から造られたのと同じように、教会は十字架上で亡くなられたキリストの槍で貫かれた心臓から生まれた」[3]と言っています ある意味、私たちの起源は、イエスの傷ついたみ心にあるといえるでしょう。キリスト信者としての私たちの命は、その刺し貫かれた脇腹から生まれるのであり、それは、私たちが力強く道を歩むために、何度でも立ち戻ることができる「泉」なのです。

「十字架上で、人々を愛するがゆえに刺し貫かれたみ心をもつイエスこそ、物事や人間の価値を雄弁に物語り、もはや言葉を必要としないのです。人間と生命と幸せには、神の御子が人々を救い、清め、高めるために御自分をお与えになるほどのねうちがあるのです」[4]。イエスのみ心の祭日を祝うとき、私たちは、苦しみや挫折があっても、私たちをかけがえのない存在とみなしてくださる方がおられることに気づきます。だからこそ、私たちは祈りの中で、キリストとの、心と心の対話を通して、いつでも喜びと信頼を取り戻すことができるのです。


時折、私たちの生活の中に罪が存在することに気づくと、私たちの平和が乱されることがあります。おそらく、これは、私たちが誘惑に遭い、自分自身の悪徳に巻き込まれたときに起こるのでしょう。私たちを神から遠ざける罪、自分自身と他人の両方に害を及ぼす罪を心の底から憎んでいますが、それから逃れる方法が見つからないときがあります。そのような時、私たちの意志は無気力になり、霊的な生活が麻痺しているような印象さえ抱くかもしれません。私たちの心がなかなか反応しないように感じるとき、イエスのみ心は常に見守ってくださっていることを思い出しましょう。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで…」(ルカ15・4-5)と聖書は記しています。 キリストは良き羊飼いです。私たちを絶えず探し求め、私たちを見つけるための道を開き、再び私たちを肩に担いでくださいます。私たちの心がイエスのみ心から遠く離れているように思えても、イエスのみ心は決して眠ることがありません。そのことを知ると、私たちは自信を持って、日々の闘いを再び始めることができます。

「善き羊飼いの心は、その愛に限界も、疲れも、諦めもないことを告げています。そこには限りない献身と誠実で温和な愛の源泉があります。…善き羊飼いの心は私たち、とりわけ最も遠くにいる人々に手を差し伸べます。キリストの羅針盤の針は必然的にそこを指し示しています。そこに私たちは、全員を抱きしめ、一人も失わないことを望んでおられるキリストの愛の特有な『側面』を見ることができます」[5]。私たちの罪はもはや、神に近づきたいと望む上で、私たちを落胆させる理由にはなりません。主は私たちが自分の弱さを経験することを許し、それによって、私たちが謙虚になることを可能にしてくださいます。主は私たちが倒れても、神の恵みによって駆り立てられ、努力して再び立ち上がることを望んでおられます。「救いの歴史は、私たちの弱さを通して、『希望するすべもなかったときに、……信じ』る(ローマ4・18)ことで成就します。 あまりにしばしば私たちは、神は私たちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、私たちの弱さを通して、また弱さにも関わらず、実現されるのです」[6]


十字架の上で、イエスは槍で脇腹を刺し貫かれました。それは、救い主の開かれた心に引き寄せられ、すべての人が救いの泉から喜んで水を汲むためです[7]。この黙想を通して、私たちは神との友情への道を歩むことを励まされ、再出発への決意を強めることができるでしょう。「御手、御足、御脇腹の傷口に身を寄せなさい」と聖ホセマリアは勧めました。「そして、再出発への意志が新たになり、一層きっぱりとした決意で、一層効果的に道を歩むことができるでしょう」[8] 。落胆の罠から逃れるためには、私たちは自分の限界にとらわれず、全人類の罪によって刺し貫かれた、イエスのみ心を静かに見つめることが大切です。

オプス・デイの創立者はこう言いました。「うっかりしたことや失敗が続き、あなたの心は痛んでいる。それと同時に、今にも爆発しそうなくらい喜びに満ちた歩みを続けている。だから、すなわち愛するがゆえの心の痛みであるから、失敗しても平和を失わないのである」[9]。神は、私たちの罪が私たちを悲しみで満たし、重荷となることを望んでおられません。だからこそ、私たちが必要なときに何度でも喜びを取り戻せるように、神は私たちに赦しの秘跡を残されたのです。痛悔、つまり自らの過ちに対する悲しみは、愛に満ちた心の表れです。それは、他の人の期待、私たち自身の期待に応えられなかったことによる落胆から、生じるものではありません。 むしろ、それは私たちのために、あらゆることをしてくださった神への愛から生じる悲しみなのです。

キリストのみ心は、私たちが戻ってくるのを待っておられます。私たちがすべきことは、自己を低くして謙虚さをもってそこに入っていくことです。そして、もし私たちが、キリストのもとへ戻る道を歩み始めるのが難しいと感じたなら、聖母マリアの助けを求めましょう。聖母は母としての愛情をもって、御子の開かれた脇腹に入る最善の道を私たちに示してくださいます。


[1] ローマ・ミサ典礼書、イエスのみ心の祭日、入祭唱(詩篇 33・11.19 参照)。

[2] ベネディクト十六世、説教、2005年4月24日。

[3] カトリック教会のカテキズム、766番。聖アンブロジウス、Expositio evangelii secundum Lucam,2,85-89参照。

[4] 聖ホセマリア『知識の香』165番。

[5] フランシスコ、説教、2016年6月3日。

[6] フランシスコ、『父の心で』2番。

[7] ローマ・ミサ典礼書、イエスのみ心の祭日、叙唱参照。

[8] 聖ホセマリア『十字架の道行』第十二留、黙想の栞2番。

[9] 聖ホセマリア『拓』861番。