第4回「祖父母と高齢者のための世界祈願日」教皇メッセージ[1]
「老いの日にもわたしを捨て去らないでください」(詩編71・9参照))
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
神は決してご自分の子らを見捨てません。齢(よわい)を重ね力が衰えようとも、髪が白くなって社会での役割が少なくなろうとも、活動の生産性が下がって無駄として見られかねないとしても、そうなのです。神は外見には目をお向けにならず(サムエル上16・7参照)、多くの人には大したことはないと映る人を選ぶことに躊躇しません。神はどんな石も捨てません。それどころか、もっとも「古くなった」石が、「新しい」石の乗る確かな土台となることで、霊的な家をともに建てるのです(一ペトロ2・5参照)。
聖書は全体として、主の忠実な愛の物語です。この愛から、慰めの確信が生まれるのです。神は、人生のいかなるときも、わたしたちがどのような状況にあろうとも、たとえ裏切っていたとしても、いつでも、ご自分のあわれみを示し続けておられます。詩編は、取るに足らないわたしたちを顧みてくださる神を前にした、人間の心にわく驚きに満ちています(詩編144・3−4参照)。神がわたしたち一人ひとりを母の胎内に組み立ててくださったこと(詩編139・13参照)、そして、陰府(よみ)にわたしたちのいのちを渡すことはないこと(詩編16・10参照)を、詩編は保証しています。ですからわたしたちは、老年期にも神は寄り添ってくれる、ますますそばにおられると確信できます。聖書では、老いは祝福のしるしだからです。
けれども詩編には、主への心からの願いも記されています。「老いの日にもわたしを見放さないでください」(詩編71・9参照)。切実で、直截な表現です。十字架上で叫ばれた、イエスの極限の苦しみが思い浮かびます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。
つまり聖書の中には、人生のどの年代においても神が近くにいてくださるという確信と、そしてまた老年期や苦しいときに強まる見捨てられることへの恐怖との、両方が見いだせるのです。ここに矛盾はありません。周囲を見渡せば、これらのことばが現実をありありと映し出していることがすぐに分かります。わたしたち高齢者、また祖父や祖母の生活には、いやでも孤独がついて回ります。わたしがブエノスアイレスの司教であったとき、老人ホームを訪問する機会がしばしばあり、ホームの人たちにはほとんど面会が来ないことを知りました。何か月も家族と会っていない人もいました。
この孤独にはさまざまな理由があります。多くの国で、とくに貧しい国々では、子どもたちが移住せざるをえなくなるため、高齢者が独りぼっちになってしまうのです。ほかに、たくさんの紛争状況も思い浮かびます。どれほど多くの高齢者が取り残されているでしょうか。男たちは、若者も大人も戦場に駆り出され、女たちは、なかでも小さな子どもを抱えた母たちは、子の身の安全のために国を離れるからです。戦争で荒廃した町や村には、多くの高齢者が取り残されています。捨て置かれ、死が支配しているような地域では、彼らは唯一の生存者です。また世界の別の場所では、その土地の何らかの文化に深く根をもつ誤った俗信があり、高齢者に対する敵意を生んでいます。高齢者は魔術を使って若者の活力を奪っているとされ、若者が早死や病気、その他の不幸に見舞われると、その原因は高齢のだれかのせいにされています。このような考え方は根絶しなければなりません。こうした根拠のない迷信のたぐい――キリスト教の信仰は、そうしたものから解放してくれます――は、依然として若者と高齢者の世代間対立をあおり続けているのです。
しかし考えてみれば、高齢者が「若者から未来を奪う」というこの非難は、最近ではどこででも見られます。先進的で近代化した社会にさえ、それは別のかたちで現れています。たとえば、高齢者が必要とする社会サービスの費用を若者に背負わせることで、国の発展のための資金、ひいては若者のための資金を吸い取っている、という考え方が広まっています。この現状認識は歪んでいます。高齢者の生存が若者の生存を危うくしているとでもいわんばかりです。若者を支援するには、高齢者をないがしろにする、あるいは抹殺することが必要だといわんばかりです。世代間対立は錯誤であり、敵対文化に毒されていることの産物です。老人と若者を対立させることは、容認できない一種の操作です。「世代間の一体性が危険にさらされています。つまり、人間のいのちをその全体の中で理解し、大事にするための真の評価基準が揺らいでいるのです」(教皇フランシスコ「老齢期についての連続講話1.時の恵みと世代間交流(2022年2月23日)」)。
先に引用した詩編――老いても捨て去らないでくださいと願う箇所――は、高齢者の生活を巡る陰謀を取り上げています。大げさに思えるかもしれませんが、高齢者の孤独や切り捨ては偶然でもやむをえないものでもなく、むしろ、「あらゆる環境、状態、各人が遭遇するいかなる状況をも超えて所持」(教理省宣言『無限の尊厳』1[Dignitas infinita])する一人ひとりの無限の尊厳を認めない、政治的、経済的、社会的、個人的選択の結果だと考えればお分かりでしょう。ひとたび個々人の価値が見失われると、人間はただのコストと化し、場合によっては割に合わないとみなされてしまうのです。さらに悪いことに、高齢者自身がこうした考え方に支配されてしまうこともしばしばで、自分たちは重荷なのだと考えてしまい、率先して身を引くべきだと感じるようになるのです。
他方、今日は、多くの人が、できるだけ自足した、他人と接点のない生活において自己実現を図ろうとしています。仲間意識が危機に瀕し、個人主義がもてはやされています。「わたしたち」から「わたし」への流れは、現代を顕著に表すものの一つです。家庭は、自分の力だけで自分を救うことができるという考え方に対する、第一の、そしてもっとも基本的な反証であり、こうした個人主義的な文化の犠牲となっているものの一つです。けれども歳を取り、次第に力が衰えていけば、だれも必要ではない、人とのつながりなしに生きていける、という個人主義の幻想は、その実態を露呈することとなるのです。まさに、自分には何もかもが必要になっていると気づいても、もはや独りとなっていて、助けもなく、頼れる人もいないのです。多くの人が、手遅れになってようやく気づく厳しい事実です。
孤独や切り捨ては、今日の社会情勢においては頻繁に見られる事象となっています。その原因は複数あります。計画的な排除、嘆かわしいある種の「社会の陰謀」の結果である場合もあれば、痛ましいことに個人の決断ゆえである場合もあります。さらに、それがあたかも自らの自由意思による選択であるかのようにさせられている場合もあります。わたしたちはますます「兄弟愛の味わいを失って」(回勅『兄弟の皆さん』33)、孤独以外の状況を思い描くことすら難しくなっています。
多くの高齢者に、ルツ記に記されているようなあきらめの気持ちが見て取れます。夫と息子らを亡くした老齢のナオミが、二人の嫁オルパとルツに、自分の生まれ故郷に、実家へと帰るよう勧める様子が語られています(ルツ1・8参照)。ナオミは、現代の多くの高齢者と同じように、独りになるのを恐れていますが、そうならないことは想像できません。やもめである自分は、社会から見れば価値のない存在だという自覚があり、自分と違って前途ある二人の若い女性にとって、自分は重荷なのだと考えています。だから彼女は身を引くほうがいいと考え、若い嫁たちが自分のもとを去り、別の地で未来を築くよう勧めます(ルツ1・11−13参照)。彼女のことばは、当時の厳格で、行く末を決定づける、社会的・宗教的慣習を反映しています。
聖書の記述はここで、ナオミの勧めに対する、つまりは老いた人に対する、二つの異なる選びを示します。二人の嫁の一人、オルパもナオミを愛していますが、彼女に愛を込めて接吻し、自分にとってもそれが唯一の解決策と思えるものを受け入れ、己の道を行きます。ところがルツはナオミのそばを離れず、驚くようなことばを告げます。「あなたを見捨てるなどと……そんな……ことを強いないでください」(ルツ1・16)。ルツは、慣習や常識に立ち向うことを恐れません。年老いた女性が自分を必要としていることを感じ取り、勇気をもって彼女のそばにとどまります。そうして二人の新たな旅路が始まるのです。孤独は避けられない定めだという考えに慣らされているわたしたち皆に対し、ルツは教えます。「わたしを見捨てないで」という願いに、「わたしはあなたを見捨てません」と答えることは可能だと。ルツは、どうにもならないと思える現実を臆することなく覆します。孤独に生きることだけが、唯一の選択肢ではないのです。年老いたナオミのそばに残ったルツが、メシアの祖先であるのは偶然ではありません(マタイ1・5参照)。メシアであるイエスこそが、インマヌエル、「わたしたちとともにいる神」であり、あらゆる境遇、あらゆる年齢の、すべての人に、神の近しさと寄り添いをもたらすかたなのです。
ルツの自由と勇気によって、わたしたちは新しい道へと導かれます。彼女の道に従いましょう。この若い異邦人の女性と年老いたナオミとともに旅をしましょう。今の習慣を変えることを恐れず、わたしたち高齢者のために、違う未来を想像しましょう。たくさんの犠牲を払いながら、ルツの模範を実践して高齢者の世話をする人、また一緒に生活する人のいない親戚や知人に日常的にそっと寄り添いを示している人、皆さんに感謝の意を表したいと思います。ナオミのそばにいることを選んだルツは、幸せな結婚をし、子をもうけ、新たな家を得る恵みを受けました。これはいつも、だれにでも当てはまることです。高齢者に寄り添うこと、彼らの、家庭、社会、教会でのかけがえのない役割を認めることで、わたしたち自身も多くのたまもの、多くの恵み、多くの祝福を受けるのです。
この第4回祖父母と高齢者のための世界祈願日には、祖父母や高齢の家族に、優しい愛を示しましょう。自信を失い、別の未来が可能だという希望をもてずにいる人々を訪ね、ひとときをともにしましょう。切り捨てや孤独につながる自己中心的な態度に抗し、「わたしはあなたを見捨てません」と臆することなくいって別の道を歩む人の、開かれた心と喜びの顔を示しましょう。
親愛なるすべての祖父母と高齢者の皆さん、そして皆さんに寄り添うかたがたに、祈りとともに祝福を送ります。皆さんもどうか、わたしのために祈ることも忘れないでください。
ローマ、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて
2024年4月25日
フランシスコ
[1] カトリック中央協議会訳(https://www.cbcj.catholic.jp/2024/07/24/30399/)
第4回「祖父母と高齢者のための世界祈願日(2024年7月28日)」の祈り
(日本では2024年9月15日)
主なる神、誠実なかた、あなたは、わたしたちをご自分の似姿としてお造りになりました。わたしたちを決して独りにすることなく、人生のいかなる時も、ともにいてくださいます。わたしたちを見捨てず、見守ってください。わたしたちが自分自身を見いだし、あなたの子であると思い起こさせてください。
みことばによってわたしたちの心を新たにし、だれひとり見捨てられることがないようにしてください。愛の霊が、あなたの優しさでわたしたちを満たしてくださいますように。旅の途中に出会う人に、「あなたを見捨てません」と言えるよう教えてください。
愛する御子の助けによって、わたしたちが友愛の心を失わず、孤独の悲しみに屈することがありませんように。新たな希望をもって未来に目を向けることができるよう助けてください。「祖父母と高齢者のための世界祈願日」を、孤独のない一日、あなたの平和の初穂に満ちた一日としてください。
アーメン。
(2024年7月19日 日本カトリック司教協議会常任司教委員会認可)