啓示:なぜ神はご自身を人間に現されたのか(4)

啓示は、人が神との交わりのうちに生き、神の恵みといのちにあずかることを目的とします。信仰によって人はご自身を啓示される神に自らを委ねます。

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4.交わりへの招きと信仰

第二バチカン公会議の文書は、啓示の目的を次のように要約しています。「見えない神がそのあふれる愛から友に対するように人々に語りかけ、彼らと話を交わすのである。それは、人々をご自分との交わりへと招き、この交わりのうちに受け入れるためである」(『神の啓示に関する教義憲章』2番)。啓示の目的は、人間が神との交わりのうちに生き、神の恵みといのちにあずかることができるようにすることです。したがって、啓示は、一人ひとりの人間の幸福と人生に関わるものなのです。

ここで、一つの問いが生じます。神の啓示はどのようにして一人ひとりに届くのでしょうか。神は、人間が創造主との愛といのちの交わりへ招かれていることを知らせるために、どのような手段を用いられるのでしょうか。この問いに対する答えには、二つの側面があります。

一方で、キリストがご自身の使命をこの世において継続するために、教会を創立されたことを指摘しなければなりません。教会は、その本性から福音宣教を使命とするものであり、その務めは、あらゆる民族、そしてあらゆる時代の人々に福音というよい知らせを告げ知らせることです。それによって、人々が宣教を通して神の啓示と、その救いのご計画を知ることができるようにするのです。しかし、教会はこの使命を自らだけで果たしているのではありません。実際に教会を導き続けておられるのは、教会の主であり創立者であるキリストご自身です。キリストは、天において御父とともにおられ、今も教会を導いておられます。また、キリストの霊である聖霊は、教会を導き、その活動にいのちを与え、人々にキリストのメッセージを届けるよう働きかけてくださいます。このように、教会の福音宣教の働きは、三位一体の神の働きによって生かされているのです。

他方で、歴史的な状況によっては、教会が福音宣教の使命を十分に果たすことができない場合があるのも事実です。福音が広められることを妨げる障害は少なくありません。そのため、どの時代にも、神との交わりと救いへの招きを告げる福音を実際には受け取ることのできない人々がいます。それは時として非常に多くの人々に及びます。彼らは、救いをもたらす知らせを聞く機会がないために、信仰を十分に知ることができないのです。しかし、それは彼らがキリスト教の啓示とまったく接することがないという意味ではありません。聖霊の働きは、いかなる歴史的状況によっても制約されることがないからです。聖霊は神であり、一人ひとりをご自分との交わりへと招くことがおできになります。その招きは人間の良心の奥深くに働きかけ、啓示の種を心の中に蒔くのです。したがって、神との交わりに至るために必要な助けと光を、神から受けていない人は一人もいません。しかし、教会の宣教や、真にキリスト者らしい生活のあかしに触れることのできなかった場合には、神との関係は通常、曖昧で断片的なものにとどまります。そして、その関係は、救いの福音を知り、洗礼を受けることによって初めて、十分に明らかにされ、完成へと導かれるのです。

これまで私たちは、啓示について、神がご自身との交わりと救いへと人間を招かれるものとして、ほとんど常に語ってきました。しかし、ここで人間の役割は何でしょうか。神が人間を、イエス・キリストにおいて神の子となるよう招かれるとき、神が差し出される救いは、どのようにして受け入れられるのでしょうか。この問いに対する答えを、『カトリック教会のカテキズム』142番は次のように示しています。「この招きに対するふさわしい応答が信仰です」。では、信仰とは何でしょうか。どのようにして信仰を得ることができるのでしょうか。

信仰とは、単なる人間的な神への信頼ではありません。また、ある事柄について、多かれ少なかれ確信を伴った一つの意見でもありません。信仰とは、神から来る内なる光であり、私たちの心に触れ、神の現存とその働きを認めるよう私たちを促すものです。例えば、宣教地において、ある人が宣教師の働きを通してキリスト教に触れる場合を考えてみましょう。その人は、聞いたことに関心を抱き、心を動かされるかもしれません。神はその人を照らし、そこに語られていることがいかに美しいものであるか、そしてそれが本当に自分の人生に意味を与えるものであることを悟らせてくださいます。神は、その人がそれまで成功することなく探し求めていた「意味」を、明らかにしてくださるのです。その人は、単に意味のある話を聞いたのではありません。それに加えて、幸福と喜びを感じさせる光を受けたのです。なぜなら、その人の前に、それまで存在するとは思っていなかった、人生の意味を見いだす新たな地平が開かれたからです。そのため、その人は喜びをもって、聞いたことを受け入れます。それは、神について、そして大いなる愛について語りかける人生の意味です。そして、その人は、自分の存在の鍵がそこにあるという確信を得ます。それは、自分を創造し、愛し、救いへと招いてくださる神のうちにあるのです。この光は神からの賜物、すなわち恵みです。そして、その光によって魂のうちに実を結んだ応答、それが信仰なのです。

したがって、信仰は、神的な側面と人間的な側面をあわせ持つものです。すなわち、それは魂のうちに働く神のわざであると同時に、その神の働きに対して人間が心を開くことでもあります。言い換えれば、信仰とは、ご自身を啓示される神に自らを委ねる行為なのです。第二バチカン公会議は、このことを次のように要約しています。「神から与えられた啓示に自発的に同意することにより、人間は自己のすべてを神に自由にゆだねるのである。このような信仰が生じるためには、それに先だつ神の助力の恩恵と聖霊の内からの援助が必要である。聖霊は心を動かして神に向かわせ、知性の眼を開き、真理に同意してこれを信じることの甘美さをすべての人に与えるであろう」(『神の啓示に関する教義憲章』5番)。

信仰は人間的な側面から見れば、人間自身の行為です。それは自由な行為です。実際、同じ宣教師の説教を聞いても、ある人は信仰へと導かれ、ある人はそうならないことがあります。神は人の心をご存じであり、それぞれの心の状態に応じて一人ひとりを照らしてくださいます。しかし、人間にはなお、神の愛に満ちた招きを受け入れるか、それとも拒むかという自由が残されています。すなわち、イエスを自分の人生の主として受け入れることも、拒むこともできるのです。しかし、後者を選ぶことは、この世における幸福だけでなく、永遠の幸福をも失う危険に身をさらすことになります。

さらに、信仰は信頼の行為でもあります。それは、神に導かれることを受け入れ、キリストを、恵みによって自由といのちへの道を示してくださる私たちの主として受け入れることです。信じるとは、神が一人ひとりのために備えておられる摂理の計画に、喜んで自らを委ねることです。その計画は、私たちをイエス・キリストにおいて神のよい子として生きるよう導いてくれます。それはまた、太祖アブラハムが神を信頼したように、そしておとめマリアが神を信頼したように、私たちも神に信頼して歩むことを意味します。

Antonio Ducay