神への憧れ(3)

「社会の大部分の人は、もはや神を待ち望んだり、神に憧れたりすることはありません。神は無関心な対象となり、だれも神について語ろうとさえしないのです」。ベネディクト十六世はこのように述べました。その歴史的・文化的背景を探りながら、現代社会において神との関係性をどのように新たに見いだすかについて考えます。

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3.超越的なものに関する、現代の人間と社会の特徴

グローバル化という現象が進展しているにもかかわらず、神に対する姿勢や人生を宗教的に捉える視点は、世界の各地域において顕著な違いを示しています。とはいえ、一般的に言えば、多くの人々にとって、超越的な次元との関係性──それが宗教的・文化的にきわめて多様な形で表現されているとしても──は、依然として人生における重要な側面であり続けています。

この全体的な状況の中で、例外として挙げなければならないのが西洋世界、とりわけヨーロッパです。そこでは、さまざまな歴史的・文化的要因が重なり、神に対して、また西洋において歴史的に支配的であった宗教──すなわちキリスト教──に対して、広範な拒否、あるいは無関心の態度が形成されてきました。この変化は、宗教社会学者ピーター・バーガーの言葉を用いて要約することができます。すなわち、西洋社会においては、キリスト教信仰がその「もっともらしさの構造」を失ってしまった、ということです。かつては、流れに身を委ねるだけでカトリックであることができたのに対し、今日では、同じように流れに身を委ねるだけで、カトリックでなくなってしまう、という状況が生まれています。この意味で、西洋社会においては、神への憧れそのものが消え去ったかのように見えます。「社会の大部分の人は、もはや神を待ち望んだり、神に憧れたりすることはありません。神は無関心な対象となり、だれも神について語ろうとさえしないのです」[1]

この変化の原因は多岐にわたります。一方では、過去二世紀における科学技術の大きな進歩が、人類にもたらした恩恵は計り知れないものがありますが、同時に、実験科学のみを理性的認識の唯一正当な形態とみなす唯物論的な思考様式を生み出してきました。その結果、経験的に検証可能なもの、すなわち見たり触れたりできるものだけが真に実在的であるとする世界観が広まりました。このような考え方は、「理性の地平」を狭めてしまいます。というのも、科学的でない認識のあり方──たとえば他者の言葉を信頼すること──を過小評価するだけでなく、世界をより快適で快楽的なものにするための手段を探すことのみに関心を向けさせてしまうからです。しかし、この過程は必然的なものではありません。被造世界に秘められた神秘的な美と偉大さを認めることは、科学を偶像化することにはつながらず、むしろ神がご自身の創造のうちに置かれた驚異に対する賛嘆へと私たちを導きます。実際、今日においても、過去と同様に、多くの科学者が、宇宙に内在する完全さを発見することを通して、超越的なものへと心を開き続けています。

第二の側面として、先に述べた点と密接に結びついているのが、社会の世俗化です。すなわち、かつては宗教的な概念、信念、制度と結びついて理解されていた多くの現実が、その宗教的次元を失い、純粋に人間的・社会的・市民的な観点から捉えられるようになる過程です。この点が前述の要因と結びついているのは、科学の進歩によって、これまで神の意志と直接結びつけられてきた多くの自然現象について、その原因が明らかにされてきたからです。たとえば古代においては、疫病は人間の罪に対する神の罰として理解されることがありましたが、今日では、それは衛生状態や生活条件など、特定し説明することのできる要因の結果として考えられます。それ自体として、このような現実理解の深化は善いことであり、また、神の働き方について私たちが抱く理解を浄化する助けともなります。神は、自然現象の中の一原因にすぎない存在ではないからです。神は別の次元におられます。すなわち、人間が自らに問いかける究極的な問い──人生の意味、各人の最終的な行き先、喜びと苦しみの意味など──に答えられるお方です。科学はこの次元において説明を与えることができません。したがって、人がより深い問いを真剣に抱くとき、神が不可欠となるその領域へと踏み込むことは、きわめて自然なことなのです。

現代西洋文化において神への志向が弱まっているもう一つの重要な要因は、社会全体の思考様式を深く形づくっている個人主義的な態度に結びついています。この態度は、啓蒙主義の時代(18世紀)以来、西洋文化を特徴づけてきた解放(emancipation)の過程の一つの帰結です。この過程にも、これまでに述べた諸要因と同様、肯定的な側面があります。というのも、宗教的であれその他の理由であれ、人間が「後見のもと」に置かれ、根拠に欠ける教義の名のもとに判断を強いられることは、人間の尊厳に反するからです。しかし同時に、この過程は、誰にも依存せず、誰とも結びつかずにいるほうが、縛られることなく、自分の望むことを実現できる、という考え方をも広めてきました。私たちはしばしば、表現の仕方はさまざまであっても、「本物の自分であること」「自分の人生を生きること」、そしてそれを「自分の好きなように生きること」こそが何よりも大切だ、という考えを耳にします。このような態度は、人間関係を功利的に扱う方向へと導き、個人の自発性を縛ったり制限したりしないよう、結びつきや拘束を伴わない関係のみを求めるようになります。その結果、満足を与えてくれる関係だけが受け入れられるのです。

このような視点に立つと、神との真剣な関係は煩わしいものとして感じられるようになります。というのも、神の戒めに従うことが、自らの利己心から解放してくれるものとして受け取られず、むしろ制約として意識されてしまうからです。その結果、宗教は、平安や落ち着き、心地よさを与え、しかも人を深く拘束しないかぎりにおいてのみ、居場所を与えられることになります。こうして個人主義的な態度は、内容や制度性に乏しい、いわば「軽い」宗教性を生み出します。それは、主観主義や感情の比重がきわめて大きく、個人的な必要や気分に応じて容易に変化するという特徴を持っています。

現代の西洋社会を支配している心性を描写するために、さらにいくつかの特徴を付け加えることができるでしょう。新しさや進歩を崇拝する傾向、強い感情を他者と共有したいという欲求、仕事や人間関係、余暇の過ごし方にまで影響を及ぼすテクノロジーの優位性──こうした要素はいずれも、超越的現実やキリスト教の神に対する態度に、確かに大きな影響を与えています。同時に、これらの過程には多くの肯定的側面があることも事実です。西洋社会は、長い平和の時代と物質的発展を経験し、より参加型の社会となり、その恩恵にすべての構成員を包み込もうとしてきました。そこには、キリスト教的精神に由来するものが多分に含まれています。しかし他方で、今日においては、「神」という主題そのものを避ける人が少なくなく、しばしば無関心や拒絶の態度が示されていることも、また明らかです。

このように超越的なものに対して閉ざされた社会を前にして、キリスト者が説得力を持ちうるのは、何よりもまず、自らの生き方によって福音を告げ知らせるときにほかなりません。証しとことば──この二つはいずれも不可欠ですが、優先されるべきは証しです。冒頭で、「人間は幸福になるために造られている。ちょうど鳥が飛ぶために造られているように」ということを想起しました。幸福は愛と結びついています。そしてキリスト者は、信仰によって、神が私たちに与えてくださる愛ほど真実で純粋な愛は存在しないことを知っています。その愛は、キリストの十字架において示され、聖体において私たちに分かち与えられています。神に背を向けた社会に対して、神と関わることに意味があることを示す唯一の道は、キリスト者が、自らの人生のうちに、その愛とその幸福を表すことなのです。

「すべての満足がわたしたちに同じ効果をもたらすわけではありません。ある満足はよい効果を残します。それは心を落ち着かせ、わたしたちをいっそう活動的かつ寛大なものとすることができます。これに対して、他の満足は、初めの光が消えた後、そこから生まれた期待を失望させ、場合によって、幻滅、不満、または空虚感を残すように思われます」[2]。見たり触れたりできるものだけを信じる人々の幸福、あるいは人生を功利的に捉える考え方に支配された人の幸福、また、何ものにも縛られまいとする個人主義者の幸福は、一時的なものであり、「続くあいだだけ」しか持ちません。そのため、頻繁に更新される必要があります。そしてしばしば、それは人をよりよい存在へと変えることのない幸福です。これに対して、心からイエスに仕える人々は、異なる生き方をし、また異なる幸福を持っています。それは、より深く、より持続的であり、本人のうちにも、そして他者のうちにも実を結ぶ幸福なのです。

世におけるキリスト者の生き方について述べた、よく知られた『ディオグネトスへの手紙』(第5章・第6章)の一節を、あらためて読み返してみるのも有益でしょう。

「キリスト者は、住んでいる場所によっても、用いる言語によっても、生活習慣によっても、他の人々と区別されることはありません(…)。彼らは、定めによって割り当てられたとおり、ギリシアの都市にも異邦の都市にも住み、衣服においても生活様式すべてにおいても、その国の人々の慣習に従って暮らしています。しかし同時に、だれの目にも驚くべき生き方を示しています。自分の祖国に住みながら、旅人のように生き、市民としてすべてに参与しながら、外国人のようにすべてを耐え忍びます。あらゆる異国の地が彼らにとっては祖国であり、あらゆる祖国が彼らにとっては異国の地です。ほかの人々と同じように結婚し、子をもうけますが、生まれた子を捨てることはありません。食卓は共にしますが、床は共にしません」。

「彼らは肉において生きていますが、肉に従って生きているのではありません。地上に生きていますが、その市民権は天にあります。定められた法に従いますが、その生き方によって、それらの法を超えています。すべての人を愛しますが、すべての人から迫害されます。知られることなく断罪され、殺されますが、そのことによって命を得ます。貧しくありながら多くの人を富ませ、何も持たないようでありながら、すべてに満ち足りています。侮辱を受けますが、それが彼らの栄光となり、不名誉を被りますが、それが彼らの正義を証しします。呪われても祝福し、辱めを受けても、かえって敬意をもって応えます。善を行って罰せられ、悪人として死刑に処されますが、そのとき彼らは、命を与えられるかのように喜ぶのです。ユダヤ人は彼らを異邦人として敵視し、異教徒は迫害します。しかし、彼らを憎む人々自身が、その敵意の理由を説明することができません」。

「要するに、ひと言で言えば、キリスト者はこの世において、身体における魂のような存在なのです」。


[1] ベネディクト十六世、一般謁見演説、2012年11月7日。

[2] 同。

Antonio Ducay