良心の糾明
犯した罪の赦しをお願いするために、まず良心の糾明をして、神を侮辱する機会となった過失を発見しなければなりません。
毎週ゆるしの秘跡を受ける人と、年に一度の義務を果たす人との間には、良心の糾明の仕方に大きな違いがあります。ですから、良心の糾明について、一般的な規則をあてはめることは出来ないでしょう。大人と子供の場合も、それぞれ異なった良心の糾明の仕方になるはずです。既婚者と未婚の人たちとの間にも相違があるでしょう。職業上の義務と権利についても、みながみな同じであるというわけではありません。しかし、生活の環境や状況が異なるとはいえ、全員が掟を守らねばならないことは事実です。従って、誰にでも当てはまる基準はと、各自が自分の罪に気付き、ゆるしの秘跡において告白できるよう、良心の糾明に必要なだけの時間を割く必要があると言うことになります。
真に良い良心の糾明が出来るように、聖母マリア、守護の天使に助けをお願いすることも大切です。無意識のうちに、隠したり見逃がしたりしてしまうことのないように、聖霊に光をお願いする必要もあります。
もし、ゆるしの秘跡によって霊的生活に前進したい、神の愛がわたしたちの中で深まってほしいと望むなら、責任ある重大事項を処理するのと同じように、注意深く全心をこめて糾明をすることがどうしても欠かすことのできない条件となります。
航空機のパイロットの眼前には、航空上の大切な資料がよくわかるように、一連の操縦器機が並んでいます。油圧計から視界ゼロの時の進行掲示器に至るまで、必要な場合を見越してもろもろの資料が備えてあります。責任感のあるパイロットなら、これらのどの一つからも目を離さないはずです。正しい判断をするか否かに、乗客、乗員の生命がかかっているからです。良心の糾明が、航空機操縦のように複雑だとか難しいとか言うのではありません。この例では、良心の片すみにたとえ一つでさえも忘れものがないように、すべてを見付ける努力が必要であると言いたいのです。
大学の医学部教授にこんな話を聞いたことがあります。幼い女の子のカルテを書く時、どうしても説明できない徴候がありました。そこでその子の病状を再び確かめてみたいと思いました。その子は様々な病気をならべましたが、それでもいくつかの徴候の説明がつかない。そこで、もっと他の病気に罹ったことはないかと尋ねました。その子は、ないという。しかしその時、解決の糸口になる質問が教授の口から出ました。「もっと幼かった時はどんな病気にかかったかな。」すると、その女の子は「もっと小さかった時は」と、幼い時の既往症について話したのです。
自分の過失を発見できない人がいます。目の前に過失が並んでいるのに気付かないのです。ある岬では、異常のない時、空砲を打って定期的に合図をすることになっていましたが、その岬のすぐそばに住んでいた灯台守は、大砲の音に邪魔もされず毎晩ぐっすり眠ることができました。しかしある夜、突然目が覚めました。いつもの大砲の音が聞こえなかったからです。
わたしたちもある決った行動の仕方に慣れているので、異常なことが起こらない限り、変だとかおかしいとか、思いません。ですから、良心の糾明をする時、上辺だけの反省をしても役に立ちません。習慣的に犯している過失、それは徐々に大きな害を霊魂に与えるようになるので、そのような過失を見つけることができるように、必要なだけの時間をかけて、深い良心の糾明をしなければなりません。生温い態度や義務の不履行、軽々しい話し方や他人の行動の批判や、隣人のために当然すべきことを怠ること、嘘をついて約束を破ること、社会における交友関係、娯楽、家族関係にキリスト教的意味が欠けること、ミサや祈りの時にわざと気を散らすことや霊的生活に無関心であること、神がお与えになる恩恵に抵抗することなどは、すべて誠実な痛悔心にあふれた、ゆるしの秘跡の材料となるはずのものです。このようなことをすべて告白することによって、神の恩恵に清められ、毎日少しずつ私たちが歩む聖性の道に進歩が見られるようになるのです。