処方箋
物理学によると、物体は位置エネルギーが最低であるような位置に向かう。すなわちあまり働かなくてもよいような位置、労力を用いない位置に向かうということです。これは、わたしたちの日常生活の経験を少し難しく言っているだけです。たとえば、机の上あるいはどこか高いところに置かれた物は、下に向かって落ちるということです。
霊的生活においても同様の傾向が見られます。いつ、どの場所にも、あてはまる処方箋を見つけて、それを具体的なケースに適応させたいという望みのことです。わたしたちの行いの結果について考えたり、毎日の生活で当面する義務を考えたりする責任を避けたいばかりに、良心に安らぎを与えるような簡単明瞭な処方箋を手に入れたいという望みのことです。ボタンを押しさえすれば、献金はいくらすべきだとすぐ答えてくれる機械があればと思います。父親は、子供は何人までと明確な答えがあれば良いと思います。また、生温い人は、大罪と小罪を正確に区別して教えてくれる倫理があれば、良心にどれほどの安らぎが訪れることだろうと思うのです。
こんなことが可能であれば、人生はもっと楽になることでしょう。しかし、神の子の特徴は安逸をむさぼることにあるのではなく、わたしたちが御父と接する時のわたしたちの愛にあります。愛かあれば、小罪も不完全も神を悲しませることに変わりのないことが分かります。ゆるしの秘跡については、恩恵を有効にいただけるように最低の条件が満たされているかどうかを考えればいいのです。ただし、次のような条件を忘れないようにしましょう。それは、良心の糾明と痛悔や生き方を変える(遷善の)決心をした上で、償いを果たす心構えを持って、告白するという条件です。これらは単に形式上の問題ではありません。信仰の教える真理によると、ゆるしの秘跡とはイエス・キリストとのパーソナルな出会いの場です。秘跡において罪が赦されるということの意味をよく考える人の心から生まれる行為でなければなりません。
従って、ゆるしの秘跡を単なる処方箋であるかのように考えるわけにはいきません。ゆるしの秘跡は神の慈しみに応える機会であるからです。神とのこの出会いに備えるためにできるかぎりのことをして心を備えるわけです。言い換えれば、わたしたちは罪の赦しを得るために準備しかできず、赦すのは神であるということです。