愛を深める
神との親しさとは、神を侮辱しないことだと思っている人がいます。この哀れな、そして、否定的な見方で、第一の掟を考えるところから、その信心生活についての考えも当然浅薄なものとなります。内的生活とは何となく悲しい生き方であって、主なる神を毎日少しでももっと深くお愛しする喜びなどありえないということになるのです。
このような人たち、それに罪を犯しながらも呑気な生活をしている人たちに限って、ゆるしの秘跡の本当の値打ちを知らないようです。ゆるしの秘跡において、罪が赦されるだけでなく、内的生活に進歩する手段も与えられることを忘れているからです。この秘跡を受けることによって、成聖の恩恵だけでなく、この秘跡に固有な恩恵も受けることができます。そのおかげで、わたしたちの聖性という仕事において、堅忍して戦い続ける力を得ることができるのです。毎日出遭う障害は限りなくあり、それに打ち勝ってキリストに似た者となるには、度々ゆるしの秘跡を受けて、天の助けを得ることが必要になります。
スペインなどで昔からよく使われるたとえ話が、この秘跡にぴったり当てはまります。きこりが一人いました。彼は一頭のロバを飼っており、ロバの働きで日用の糧を得ていました。冬になると、村を出て、森に行き、木を切って小さな束を作ります。束がいくつかできると、ロバの背にのせて山を下ります。夏には朝早く起き出して、清水の湧く山の泉に行き、水がめをロバの背に積んで、帰ってきます。しかしある日、その木こりは、「このロバの食い分を少し減らせば、もっと儲かるのではないか」と、考えます。利己的な考えでしたが、大志を抱いた上は実行に移さなければなりません。そこで、水曜日には、ロバに食べ物を与えないことに決めたのです。ロバがねぐらに戻ってみると、いつものエサが見あたりません。一週間が経ちました。別に変わったことも起らなかったので、週に二度断食させようと決めます。二週目も無事に過ぎました。ロバは倒れもせずに働き続けています。第五週目になると、週に五回の断食となりました。そして、第六週目が始まった朝、可哀そうなロバはとうとう死んでしまいました。木こりが困りきって叫んだのは、その時です。「残念だ。やっと慣れてきたというのに」。
わたしたちもこの話の主人公と同じことを繰り返します。今日はゆるしの秘跡を受ける気がしない、ゆるしの秘跡を受ける機会がなかった、次の機会にしよう。このように、いつも何らかの理由が見つかるのです。ひとつ確かなことは、こんな状態が続けば、神の恩恵を失うか、微温(生温さ)に陥ってしまうということです。原因はどこにあるのでしょうか。それはゆるしの秘跡に対する愛の不足であって、そのために度々秘跡に近づくことができなくなるのです。ゆるしの秘跡にはどの程度の頻度であずかればいいのかについて、規則を決めるのは難しいことです。ある人は二週間毎で充分でしょう。他の人は毎週の方が良いかも知れません。いずれにしろ、それぞれ状況が違うわけですから、司祭に相談するのが最良のやり方でしょう。
司祭はわたしたち一人ひとりの状況を考えて、勧めを与えてくれるはずです。教会の掟によると、少なくとも年に一度罪の告白をすることになっています。また、カトリック要理で習ったように、死の危険にある時や、ご聖体を拝領する時は、ゆるしの秘跡を受けるよう勧められています。しかし、この掟はあまり良く理解されていないようです。皆が知っていることは、大罪のある時には、告白の義務があるということでしょう。ということは、大罪がなければ聖体拝領の前にも、死の危険に瀕しても、年に一度のゆるしの秘跡も義務ではないということになります。ここで考えなければならないことは、義務になっているのは最低限度であるということです。教会の教えによると、「すべての信者は、分別の年齢に至った後、少なくとも年に一回、忠実に告白する義務がある」(『カトリック教会のカテキズム』1457)、また「いずれにしても聖体を拝領する前に、犯した大罪を告白する義務があります」(『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』305)。しかし、主に対する愛を少しずつでも増していきたいと思えば、当然何度もゆるしの秘跡を受けるのが望ましいのです。愛する人に手紙を書くとか、毎日食事をするとか、外出する時、身づくろいをするとかは、義務でも何でもありません。しかし、誰でも立派に実行しているではありませんか。
「神は、わたしたちの不忠実にうんざりなさることはありません。子供が神のもとに立ち返りさえすれば、痛悔して赦しをお願いしさえすれば、どのような侮辱でも、神はお赦しになるのでする。わたしたちの主なる神は、真の父ですから、わたしたちの赦されたいという望みを予見してご自分のほうから先に恩恵を与え、わたしたちを受け入れてくださいます(聖ホセマリア・エスクリバー「神の子の改心」、説教集『知識の香』に収録)。だからこそ、毎週、二週間毎、一ヶ月毎にゆるしの秘跡を受けるよう強く勧められているのです。
時には、惰性に陥らないようにと考えて、必要以上にゆるしの秘跡にあずかる間隔をあける人がいます。信仰心なしにゆるしの秘跡にあずかることに慣れてしまわないようにと、考えているのでしょう。しかし、惰性に陥らないように注意することと、ゆるしの秘跡の回数を少なくすることとは、同じではないはずです。月に二度、三度、四度とゆるしの秘跡に近づくから慣れてしまうのではなく、必要な準備をしないから惰性になるのだということを考えなければなりません。一年に一度しかゆるしの秘跡にあずからない人が惰性に陥っていることも往々にしてあるのです。
度々ゆるしの秘跡を受けることが望ましいのは確かです。霊的生活と神の愛に進歩しようと思えば、頻繁に告白することが不可欠の条件となります。そのために、決った司祭に告白するのは賢明なやり方です。わたしたちの状態をよく知り、困難を克服する助けとなってくれ、理解してくれると同時に、物事をはっきりと言ってくれる司祭を探して、いつもその司祭に告白するのは望ましいことです。包み隠さず正直に告白していれば、悪が善であると思うような誤りを犯さないように、内的生活を正しく導いてもらうことができます。
先に述べたような条件を備えた司祭であれば、わたしたちが活動と名づけがちな怠惰について、わたしたちが愛と呼びがちな官能の働きについて、隣人愛と呼ぶが実は自己愛であるものについて、正義と呼びがちだが往々にして妬みにすぎないことなどについて、はっきりと理解させてくれるはずです。
度々ゆるしの秘跡にあずかる人は、小さな過失をたくさん並べたてるかわりに、そのような無数の小さな過失の底にある原因となるものを探す必要があることを思い出すべきでしょう。大罪は正直にはっきりと告白しなければなりません。しかし不完全や過失を細々とあまりに詳しく述べたてると、かえってゆるしの秘跡そのものの価値を見失う危険があります。不必要なことまでいちいち細かく告白すれば、ゆるしの秘跡が完全になるというわけではないのです。痛悔の心と心の痛みが深く、もう二度と罪を犯さないという決意と生活を改める決心が強ければ強いほど、より完全なゆるしの秘跡になるからです。
良い準備をすれば、ゆるしの秘跡は短くてすむはずです。また、霊的指導を受ける場合も、前もって用意をしておけば、短時間で終えることができます。大切なことは、すぐに核心に触れることです。まず、誠実に、正直に、しかも明白に罪を告白します。その後で、相談したり、忠告や勧めを願ったりするのです。こうしないと、ゆるしの秘跡がいたずらに長引かせ、司祭だけでなく、秘跡にあずかる他の人々にも、時間の無駄使いを強いることになるからです。わたしたちがしっかりした準備をしていないので告白の時間を長引かせると、長く待たされた人たちが、最初に、「長く待たされたので苛々しました」、と言うことになるでしょう。このようなことは避けたいものです。とは言っても、急いだり慌てたりする必要はありません。必要なだけ時間をかけて告白すれば良いのです。このゆるしの秘跡という、教会におけるキリストとの出会いのために大切なことは、ふさわしい準備なのです。(完)