41.イエスの体を盗むことができたのですか?

ペトロともうこの福音書の著者自身であるヨハネが、空になった墓の中で見たことを描写するために使った言葉は、彼らがあのとき受けた印象を生き生きとリアルに表現しています。

イエスが生き返り、彼が埋葬されていた墓が空であったとの主張に対して、その知らせを不快に感じた人々がまず最初に考えたことは、イエスの遺体は盗まれたということでした(マタイ28,11-15参照)。

ナザレで発見された「チェザルの命令書」と題する碑文では、墓をあばいたり死体を持ち出したりすることを厳しく禁じています。西暦30年ごろナザレに生まれたある人物の死体が消えうせたことが、エルサレムで大きな波紋を引き起こし、ローマ皇帝自ら対処に乗り出したことが伺えます。

それでも、死体は盗まれたのではないかという疑いは残ります。しかし、イエスの墓が空であったという出来事は、墓に近づいた婦人たちやイエスの弟子たちには非常に強い衝撃を与えたのです。彼らが、再び生き返ったイエスを見る前であったにもかかわらず、空の墓はイエスの復活を認めるための第一歩となりました。

もし誰かが遺体を運び出すために墓に入ったとすれば、わざわざ布を脱がせたでしょうか?理屈に合うとは思えません。更に頭を包んでいた覆いが、離れた所にイエスの頭を包んでいたときと同じ状態で「丸めてあった」のです。

聖ヨハネの福音書の中に事の次第に関する詳細な記述があります。ペトロとヨハネがマグダラのマリアから話を聞くや否や、ペトロは他の弟子と墓に飛んで行きました。「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(ヨハネ20,4-8)のです。

ペトロともうこの福音書の著者自身であるヨハネが、空になった墓の中で見たことを描写するために使った言葉は、彼らがあのとき受けた印象を生き生きとリアルに表現しています。まず、墓の中に遺体を包んでいた亜麻布を見つけたことの驚きです。もし誰かが遺体を運び出すために墓に入ったとすれば、わざわざ布を脱がせたでしょうか?理屈に合うとは思えません。更に頭を包んでいた覆いが、離れた所にイエスの頭を包んでいたときと同じ状態で「丸めてあった」のです。亜麻布はあたかも遺体を包むような形で残されていましたが、今や平らになって中身もなく、あたかもイエスの体が布を剥がすこともなく、そのまま抜け出て消滅したかの様でした。ヨハネの叙述は、イエスを覆っていた布は、元の状態のままで残されていたことを証言しています。

福音書の描写はその二人の弟子が仰天して見たことを異常な正確さで記しています。イエスの体がそこから無くなっていたことは、人間の常識では説明できないことでした。誰かがそれを盗んだことは物理的にあり得ないことです。というのも亜麻布を取り除くには、頭を包んでいた覆いなども解かなければならないからです。しかし、それらは弟子たちの目には金曜日の午後に主の体が置かれていた時と同じ状態でした。唯一の違いはイエスの体がもはや無かったということです。他の全てのものは元の状態にありました。墓の中で見つけた他のものは主の復活を直観させるほど意味があったので、「見て信じた」ということです。


参考書: M. BALAGUÉ, «La prueba de la Resurrección (Jn 20,6-7)»: Estudios Bíblicos 25 (1966) 169-192; Francisco VARO, Rabí Jesús de Nazaret (B.A.C., Madrid, 2005) 197-201.