主の昇天と聖霊降臨

典礼の観点から復活節について考察する『復活節:私は復活し、今もなお、あなたとともにいる』の第3回。

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主の昇天と聖霊降臨

「復活した主は、ご自分が天に昇ることを通して使徒たちの目を、そしてわたしたちの目を天の高みに向けます。それは、わたしたちの旅の到達点は御父であることを示すためです」[1]。主の新しい現存の「時」が始まります。主は以前よりも隠れておられるように見えますが、ある意味では、いっそう私たちの近くにおられます。それは典礼の「時」です。典礼は全体として、御子を通して、聖霊において、御父にささげられる大いなる祈りです。すなわち、「穏やかで広やかな流れのうち」[2]に進む祈りなのです。

イエスの姿が、使徒たちの視界から消えます。使徒たちは、最初は黙り込んでしまったかもしれません。 「このとき使徒たちが、自分たちの目の前に限りのない偉大な世界が開かれつつあることを理解していたかどうかは、わかりません。それは、わたしたちの地上の旅路がめざす究極的な目的です。おそらく使徒たちはこのことを、聖霊降臨のとき、聖霊の光のもとに、初めて理解したのだと思います」[3]

「全能永遠の神よ、あなたは過越の秘跡を五十日の神秘のうちに含めることを望まれました…」[4]。教会は、この数字のうちに啓示の豊かな象徴的意味を読み取るよう、私たちに教えています。五十という数は、イスラエルの宗教生活において二つの重要な節目を示していました。一つは、小麦に鎌を入れ始めてから七週間後に祝われる五旬祭であり、もう一つは、五十年目を聖なる年として宣言するヨベルの年です。それは神にささげられた年であり、各人が自分の所有地を取り戻し、それぞれが自分の家族のもとへ帰ることのできる年でした[5]。教会の「時」において、「過越の秘跡」は、主の復活から聖霊降臨に至るまでの五十日間を含んでいます。典礼の〈言葉〉を用いるなら、四旬節が、心を尽くし、精神を尽くし、魂を尽くして神へ回心することを意味するのに対し、復活節は、キリストとともに「共に復活した者」としての新しい命を意味します。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」[6]

この「五十日」が満ちるとき、「わたしたちは、あらゆる善の頂点、そしてすべての祝祭の都に到達します」[7]。復活祭と切り離すことのできない聖霊降臨は、いわば〈あらゆる祝祭の母〉なのです。「あなたがたの祭りをすべて数え上げてみなさい──当時の異教徒たちに向かってテルトゥリアヌスはこう語っています──それでも、この五十日、聖霊降臨には及ばないでしょう」[8]。このように、聖霊降臨は締めくくりの主日であり、充満の主日です。この祭日においてわたしたちは、典礼を通して、神が教会の初めに与えられた聖霊の賜物を、いま現実のものとしてくださることを、驚きをもって体験します。

もし御昇天においてイエスが「私たちをその神性にあずからせるために天へ上げられた」[9]のであれば、今や、聖霊降臨の日に、御父の右に座しておられる主は、「十字架の実り」[10]である弁護者を注ぐことによって、ご自分の神の命を教会に与えられます。聖ホセマリアは、この永遠なる「今」を生き、また私たちにもそれを生きるよう勧めていました。「この​地上を​再び燃え​上がらせる​ため、​新たな​聖霊降臨を​主に​お願い​したいので、​あなたの​助けが​欲しい」[11]

このことからも、聖ホセマリアが、オプス・デイにおける「形成の手段」において、教会に古くから伝わる祈りを唱えることを望んでいた理由が理解できます。その祈りは、たとえば聖霊の信心ミサの中に見いだされます。「Deus, qui corda fidelium Sancti Spiritus illustratione docuisti, da nobis in eodem Spiritu recta sapere, et de eius semper consolatione gaudere(神よ、あなたは聖霊の照らしによって信者たちの心を教え導かれました。同じ聖霊によって、わたしたちが正しいことを味わい知り、その慰めをいつも喜ぶことができますように)」[12]。典礼の言葉をもって、私たちは父なる神に願います。聖霊によって、神の神秘の意味を理解し、それを味わうことができるようにしてください、と。また、「知られざる偉大な御方」[13]の励ましに満ちた慰めを、喜び楽しむことができるよう願います。なぜなら、「世界は、キリストの弟子たちの勇気、希望、信仰、そして忍耐を必要としています。世界は、聖パウロが挙げている聖霊の実りと賜物──『愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制』(ガラテヤ5・22)──を必要としています。聖霊の賜物は、教会とわたしたち一人ひとりに豊かに与えられました。それは、わたしたちが真実の信仰と行いを伴う愛をもって生き、和解と平和の種を広めることができるようになるためです」[14]


[1] フランシスコ、「アレルヤの祈り」での言葉、2014年6月1日。

[2] 聖ホセマリア『道』145番。

[3] ベネディクト十六世、説教、2006年5月28日。

[4] ローマミサ典書、聖霊降臨の主日(前晩のミサ)、集会祈願。

[5] レビ23・15-22、民数28, 26-31、レビ25・1-22参照。

[6] コロサイ3・1。

[7] 聖ヨハネ・クリゾストモ『聖なる五旬祭についての第2説教』(Homily II for Pentecost [PG 50, 463])

[8] テルトゥリアヌス、『偶像崇拝について』(De Idolatria, 14 [PL 1, 683])。

[9] 「est elevatus in caelum, ut nos divinitatis suae tribueret esse participes」(ローマミサ典書、主の昇天ミサ、叙唱二)。

[10] 聖ホセマリア『知識の香』96番。

[11] 聖ホセマリア『拓』213番。

[12] ローマミサ典書、聖霊の信心ミサ、集会祈願。

[13] 『知識の香』127-128番参照。

[14] フランシスコ、聖霊降臨の祭日ミサ説教、2015年5月24日。

Félix María Arocena