すべてを神と共に(II)足元だけでなく景色を眺める

霊的な戦いにおいて自分が打ち勝ちたい悪や必要な努力にばかり目が行ってしまうことがあります。ですから顔を上げ、これまでの歩みのおかげで眺めることができる美しい景色に目を向けることは大切なことです。

シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (3)

すべてを神と共に(II)

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足元だけでなく景色を眺める

山々を駆け巡る自転車競技の選手は、目前の努力とエネルギーの配分に集中することの大切さを知っています。それゆえ、多くの場合路面を見ながら進んで行きます。しかし、もしそのことにより彼が周囲に広がる景色を楽しむことができないとしたら、それは残念なことです。霊的な戦いにおいて同様のことが起きることがあります。自分が打ち勝ちたい悪や必要な努力にばかり目が行ってしまうのです。ですから顔を上げ、これまでの歩みのおかげで眺めることができる美しい景色に目を向けることは大切なことです。

「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12・21)。聖パウロのこの言葉を聖ホセマリアは「豊富な善で悪を溺れさせる」[1]と表現しました。キリスト者の戦いの本質は「罪と戦うこと」というよりは「洗礼によって与えられた永遠の命を育む努力」という点にあります。例えば、ある時、私たちが他者のために最も良いものをとっておいたとしましょう。私たちはこの行為を「利己主義に対する戦い」または「物事に執着しないためのトレーニング」と否定的な観点から理解することもできますが、より肯定的に「心を広げるための戦い」「愛に成長するための努力」「寛大になるためのトレーニング」と理解することもできます。そしてこれは、より優れた者になるための個人的な野心に基づくものではなく、キリストの心を出発点として、他者のために生きたいという望みから来るものです。

この異なる観点から来るキリスト者の戦いに対する二様の理解は、生活をより良いものとするための二様の決心の仕方と対になっています。「同じ間違いを繰り返さない」と決心するよりも、顔を上げ、道の先に待ち受けているものを眺め、「私たちが本当にしたいこと」を肯定する方が実り豊かである場合があります。何をするにしても、まず「目指すもの」を見ること、そしてなぜそれをするのかを考えることが大切です。目指すものに目を向けるためには、多くの場合、目前の具体的な状況から距離を取り、内省するために時間を作り、私たちが心で感じることを神と分かち合うことが必要となります。すると、ものごとがよく〈見える〉ようになります。目の前の具体的な戦いにおける決心だけでなく、私たちが神の恵みに開かれていること、神が私たちをもう一人のキリスト、キリスト自身にしようとされており、私たちがその方向に開かれていることに目が行くでしょう。


[1] 聖ホセマリア『拓』864。