すべてを神と共に(I)神は条件なしで私たちを愛する

あらゆるスポーツはトレーニングを要しますが、そのおかげで人は自らの可能性を広げ、そのスポーツをより楽しむことができます。信仰生活も同じです。努力と戦いによって、神と共に過ごすことをより〈楽しむ〉ことができるようになります。その戦いにおいて私たちは一人ではありません。主がいつも共にいてくださいます。私たちは主と共に戦い、挑戦し、成長するのです。

シリーズ: 戦い、親しさ、使命 (3)

すべてを神と共に(I)


「あなたはすでに新しい被造物であり、キリストを身にまとっています。この白い衣はあなたのキリスト者としての尊厳のしるしです。あなたがたの言葉と模範に助けられて、その衣を永遠の命に到達するまで汚れなく保ちなさい」[1]。古から教会には洗礼を受けた人に白い衣を着せる伝統があります。それはキリストと一つになる望み、キリストを私たちのうちに受け入れる望みを表すものです[2]。洗礼という言葉そして洗礼における仕草も同じ現実を表します。洗礼という言葉はギリシア語のbaptizein(浸す・沈める)という言葉から来ています。洗礼によって私たちは、三位一体の命に入り込みます。水の中に浸されたスポンジのように、自分自身でありながらも周囲の環境と一体になります。このようにして、「神の存在と私たちの存在との相互の交わり」が生じます。「私たちは父と子と聖霊の三位一体の神に〈浸った〉存在になります。それは例えば、二人が一つの肉となる結婚のようなものです。そのようにして、新しい一つの現実となります」[3]。ですから洗礼を受けた日から、この新しい命を大切にすることは日毎のタスクとなります。それは聖書にあるとおり、継続的な霊的な戦いを必要とします。「子よ、主に仕えるつもりなら、自らを試練に向けて備えよ。心を引き締めて、耐え忍べ。災難のときにも、取り乱すな。主に寄りすがり、決して離れるな。そうすれば、豊かな晩年を送ることになる」(シラ2・1ー3)。

出発点:神は条件なしで私たちを愛する

神は何が起ころうとも私たちをありのままに愛しています。この確信は内的旅路の出発点です。この確信がなければ私たちは道を間違えています。なぜならこの旅路は自力で何かを獲得するためのものでもなければ、誰かに何かを証明するものでもなく、神の愛を味わいながら自由に生きる道だからです。聖ヨハネは「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(一ヨハネ4・16)と書き記しています。そして「生活がすっかり変わるまで、これらの信仰の真理が心に染み透る必要があります。神は私たちを愛しているのです」[4]

同時に神の恵みは人間の努力を無意味なものにするものではありません。「聖化は神の賜物ですが、人は受身の態度を保つわけにはいきません」[5]。確かに、恵みによって私たちの人生は自己の可能性を超える価値を持つようになりました。しかし恵みは人間固有のものをキャンセルするわけではありません。私たちは恵みと共に働き、恵みと共に〈踊る〉必要があります。私たちの人生はすべて私たちのものであると同時にすべて神のものであると言うことができます。喜ばしいこと、辛いこと、想定内のこと、想定外のこと…このような小さな日常的な事柄の一つひとつは神の恵みと共にあります。そして徐々に神と私たちの間で絶え間ない対話が成立するようになっていきます。それが真の内的生活です[6]

ですから、内的生活とは単なる「戦い」ではありません。私たちの内外において生じる「抵抗」という狭い観点から見るとそれは「戦い」ですが、より広い視点から見るならば、それは「活動」「動き」「ダイナミズム」「成長」であることがわかります。命の成長・発展という観点を持つならば霊的生活の豊かさが見えてきます。そしてあらゆる生命体と同じように命の成長・発展には、命を脅かす内外の危険との戦いが伴います。


[1] カトリック儀式書、幼児洗礼式。

[2] ローマ13・14、ガラテヤ2・20参照。

[3] ベネディクト十六世、2012年6月11日、Lectio Divina。

[4] 聖ホセマリア『知識の香』144番。

[5] 聖ホセマリア『知識の香』176番。

[6] R. ガリグー・ラグランジュ『内的生活の3時期』(R. Garrigou-Lagrange, Las tres edades de la vida interior, Tomo I, p. 184ss)。