あなたの神とともに、へりくだって歩む
旧約聖書のミカ書には、罰を告げる預言が数多く記されています。神は預言者ミカを通して、サマリア人の偶像礼拝を戒め、御自分の民が外面的で中身のない礼拝をしていることをとがめ、さらに、エルサレムの滅亡を初めて予告します。しかし、それだけではありません。ミカのメッセージは、希望と救いを告げるものでもあります。ミカの使命は、悪を断罪することだけではなく、神が民のすぐそばにおられることを思い起こさせることでもありました。「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むこと、これである」(ミカ6・8)。
預言者を通して語る聖霊は、わたしたちに「神へと向かって」歩むようにとは言っていません。まるで神が遠く離れたところにいて、長い道のりの果てでわたしたちを待っておられる、ということではありません。聖霊は、わたしたちに「神とともに」歩むようにと言っておられるのです。神は、あらゆることにおいてわたしたちに寄り添い、わたしたちのすべてを気にかけてくださいます。わたしたちが何を考え、何に目を向け、何を語り、何を望んでいるか、そのすべてです。「神であり人であるイエス・キリストは、わたしの兄弟であり友であるから、わたしを理解し、わたしの世話をしてくださる」[1]。
神とともに歩むとは、人生の大小さまざまな出来事をすべて神とともに経験すること、何事も神に話し、いつでも神の声に耳を傾けること、そして、自分が思いもよらなかったことを神から求められたり、想像もしなかった道へ神が導いてくださったりすることに、開かれた姿勢を持つことです。友とともに歩む人は、話すことにも、耳を傾けることにも心を開いています。エマオへ向かっていた弟子たちもそうでした。ただし、あれほど熱心に彼らの話に耳を傾け、力強く語りかけていた見知らぬ人が、どれほど自分たちの兄弟であり友であるのかを、彼らは知りませんでした。知らないまま、彼らは神とともに歩んでいたのです。そして神は、思いもよらない新たな地平を彼らの前に開いておられました(ルカ24・13-35参照)。「主よ、あなたはいつも、なんと偉大な方でしょう。しかし、わたしたちの慌ただしい日常の中に入って来て、わたしたちについて来て、わたしたちを探してくださるあなたの姿には、心を打たれます。主よ、あなたの栄光を示す外面的なしるしを何も伴わずにおいでになるときにも、あなたを理解することのできる、素朴な心と、澄んだまなざしと、明晰な頭をわたしたちにお与えください」[2]。
神はさらに、わたしたちが「へりくだって」神とともに歩むことを望んでおられます。これは、どういう意味でしょうか。詩編の短い祈りの一つで、神御自身がその意味を示唆してくださっています。「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131・1-2)。神とともにへりくだって歩むとは、自分の力の及ばない、また、もしかすると自分には縁のない成果や成功を求めることなく、働くことです。自分が持っているもの、神が与えてくださるもの、人生が目の前に差し出すものに満足することです。そして、それを「強く」生きることです。逆説的ですが、神とともにへりくだって歩むなら、実際には、自分が思っていたよりもはるかに大きなことを成し遂げることになるのです。「あの貧しい寡婦が神殿でわずかな献金を捧げた時の、イエスの眼差しの優しい輝きを見なかったのか。与えることのできるものを与えなさい」[3]。
[1] 聖ホセマリア『鍛』182番。
[2] 聖ホセマリア『神の朋友』313番。
[3] 聖ホセマリア『道』829番
