「主よ…あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」(アウグスティヌス『告白』第1巻、第1章、1)
人生において人は自分の心を満たしてくれる何かを探し求めます。ある人は仕事に、ある人は娯楽に、ある人は金に、ある人は快楽に、ある人は名誉に、ある人は知識に、ある人は人間愛に、ある人は権力に、ある人は社会貢献にその何かを見出そうとします。しかし不思議なことに、人はその求めていたものを手に入れたとたん、またすぐに何かが物足りないと感じ始めます。
それは聖アウグスティヌスが言うように、人は神との交わりに入るために創られたからです。それゆえ人の心は、神のうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです。
地上のものは心を惹きつけます。それは当然のことです。全てのものか神によって創られたからです。それらは神の完全なる美しさ、素晴らしさをなんらかの形で反映しています。そして神は人が地上にあるものの美しさ、素晴らしさを見ることにより、それらの創造主である神の絶対的な美しさ、素晴らしさに憧れるよう望まれました。
しかし、原罪の結果、人の心と体は罪という病に侵されました。そのため、地上にあるものを絶対視し、それらを人生の目的と勘違いすることが多くあります。そしてその結果、時には依存症のような状態に陥ることがあります。私たちは神が人生の目的であり、人間の幸せであると知りながら、地上のものがあたかも人生の目的かのように、病的な態度でそれを探してしまうことがあります。
キリスト者でなくても、人々は人間のこの病的な症状を知っています。例えば多くの人は、インターネットは自己の幸せへの手段に過ぎないことを知っています。しかしついつい、必要以上にインターネットに時間を使ってしまいます。そして時には病的に何時間も何時間も使ってしまいます。そして、それがむなしいことと気付きながら、それでも使ってしまいます。
このように人の心と体は罪という病に侵されています。それゆえ私たちは自己の幸せが神にしかないことを知りながら、地上のものは神に到達するための手段に過ぎないことを知りながら、大切な人生の時間を地上的なもののために、必要以上に無駄遣いしてしまいます。そして場合によっては多くの時間を無駄遣いしてしまいます。
人はどうすれば、この罪という病から解放され、救われ、もっと自由に幸せの源である神を探し求めることができるのでしょうか?さらに時によっては、人の病はとても深く、神を自身の幸せと認識することが困難な時さえもあります。病人がミシュラン3つ星の豪華な料理を見て、吐き気を催すように、人も罪という病に強く束縛されると、神と言う名さえも聞くのも嫌な時があります。
聖アウグスティヌス自身も、若い頃、自己の成功と欲望の追求に励み、そしてこの罪という病による束縛に苦しみました。この記事では、彼がどのようにその束縛から解放され、自由になり、歴史に名を残す大聖人になったのかを振り返ることにより、人が罪から救われ自由に神を求めるためのヒントを探していきます。
アウグスティヌスは告白という本のなかで、彼の20代の生活を次のように振り返ります。
「こうしてこの九年間、わたしの十九歳から二十八歳まで、わたしたちはさまざまな欲望に、みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺いた。そしておおやけには自由学科とよばれる学問を鼻にかけ、ひそかには宗教の名をかたって、一方ではうぬぼれが強く、他方では迷信が深く、いずれにおいても空虚であった。わたしたちは一方では、世間のむなしい名誉を劇場の喝采、詩作の競争、乾草の冠を得る競技、演技の戯れ、情欲の放銃にまでも求め(た)」[1](第4巻、第1章、1)。
私たちもこのような生活を送ったことがあるかもしれません。欲望と名誉心に惑わされ生きる日々。それらを飽くことなく求める。しかしなぜか空虚である。そして今現在、私たち自身の中において、まだ欲望と名誉心は私たちを惑わしに来る、私たちを欺きにくる。そのようなことがあるかもしれません。
アウグスティヌスの言葉を読むと次のような思いが浮かぶかもしれません。「確かに聖人でも若いとき、欲望と名誉を求めて生きた人は結構いる。しかし歴史に名を残した大聖人ですから、おそらくキリストに出会って、すぐ改心して、そしてその後は聖なる生活を送ったのではないか」と。
しかし、そうではありません。彼は29歳の時、ミランの司教聖アンブロシウスに出会い、そのおかげもあり、徐々にカトリック信仰が真理であることを悟り始めます。そして清い生活を送りたいと望み始めます。しかし彼は自分の生活をきっぱりと改めることには躊躇します。実は彼は19歳の頃から清い生活を送りたいという望みを持っていたと言います。しかし、10年以上、それを躊躇しながら、自分をごまかしながら生活を送ってきたと言います。
このことを聖アウグスティヌスは神に祈りながら次のように告白します。
「ところが、青年時代を通して、とくにその初めにあわれむべきものであったわたしは、あなたに貞潔を祈り求めながら、『貞潔と節制を与えてください。だたしいますぐにではありません』といった。わたしはあなたがすぐにわたしの願いを聞きいれて、すぐにわたしの色欲の病から癒してくださることを恐れていたのである。わたしはその病が癒されることよりも、むしろ満たされることの方を望んでいた」[2](第8巻、第7章、17)。
私たちも時に、このアウグスティヌスと同じように感じることがあるかもしれません。聖なる生活を送りたいという望みはある。謙遜で、親切で、清く、思いやりがあって、勤勉で、他者を愛することができる人間になりたい。しかし、それを神に頼むのは勇気がいる。聖人の生活は魅力的であるが、今の生活を投げ捨てるとなると勇気がいる。罪の病から癒されたいと同時に、罪は自分を魅了する。だから思い切って、「神様、私を聖人にしてください」とは祈ることができない。
先ほどの告白はアウグスティヌスが31歳の時を思い出して書いたものです。彼は一方では清い生活、神に心が惹かれながらも、自己の病的な肉欲を断ち切るきっぱりとした意志を持つことができませんでした。彼は自分の意思の弱さ、優柔不断な態度を次のように説明します。
「手足がないか、あるいは手足が鎖に繋がれたり、衰弱して力が抜けたり、何か他の原因で妨げられたりして、しようと欲してもなすことのできないことが数多くあるが、わたしはこのような不決断に悩まされ(ていた)」[3](第8巻、第8章、20)。「このようにわたしは病み、苦しみ、いつもよりきびしくわたし自身を責めながら、完全に鎖がたちきられるまで縛られた状態のままでのたうちまわっていた」[4](第11章、25)。
彼の心の中で二つの意志が対立し、彼を苦しめます。しかしそのプロセスを経て、徐々に彼は自己を縛る鎖の弛みを感じます。
「鎖はもう弛みかかっていたがそれでもわたしを縛りつけていた」(同)
私たちも、自分の意志の弱さ、愛の欠如、そしてその結果としての優柔不断な態度に辟易として自分が嫌になることがあるかもしれません。アウグスティヌスのように手足が縛られていると感じ、この戦いは自分の能力を超えていると感じる。同時に自分で自分を責め、のたうちまわる。そのようなことがあるかもしれません。しかし、アウグスティヌスは、10年以上優柔不断な態度をとっていたとはいえ、彼は清い生活への望みを捨てませんでした。そしてその自己の弱さと向き合う苦しいプロセスは無駄ではありませんでした。鎖は弛みはじめます。人は自己の弱さと何年何十年と向き合わないといけないことがあるかもしれません。しかしそれは決して無駄ではないことを聖アウグスティヌスは教えてくれます。神に向かって歩みたいという望みは、例えそれが弱いものであっても、神への愛と希望の現れだからです。そして神への愛は、例え、失敗の繰り返しを経験しないといけないとしても、決して無駄になることはありません。
アウグスティヌスはあともう一歩で自己を縛る鎖を断ち切るところまで行きます。しかし、この彼の中の善と悪の対立において、彼はあと一歩のところで悪の方に支配されてしまいます。
「わたしは心の中で『いまこそ、いまこそ』とひとりごとをいっていた。そう言いながらもう決心しかけていた。わたしはもう決心しかけていたが、しかしじつは決心しなかったのである」。「わたしの中では、わたしの慣れていた邪悪なものは、わたしの慣れていなかった善良なものよりも強くわたしを支配していた。そしてわたしが別人になろうとする瞬間は近づけば近づくほど、ますます大きな恐怖をわたしの胸に打ち込んだ」[5](同)。
私たちも時に、自分の中での善と悪との戦いにおいて、悪の方が強いことを実感するかもしれません。それでも自分はダメなんだとあきらめてはならないことを聖アウグスティヌスは教えてくれます。アウグスティヌスもそのように感じました。しかし、彼は自分が弱いことを知りながらもあきらめませんでした。その結果、アウグスティヌスは聖アウグスティヌスになるのです。
悪に支配されていると感じると同時に、アウグスティヌスは清い生活を送ることに心を惹かれます。そしてそれは神から与えられる恵みであることを理解します。一方そのためには、彼自身、神に身を任せなければならないことも悟ります。彼は自身の心の状態を、貞潔が女性の形で擬人化されて彼に語りかけるという形で表現します。貞潔は清らかで威厳に満ちた女性として、彼の心に現れ語りかけます。貞潔は彼を彼女のいる方に招きます。そして彼女がいる方には、多数の男女がいます。聖アウグスティヌスは言います。
「かの女は、わたしに向かってほほえみかけたが、そのやさしい微笑みによってわたしをいさめるようであった。『あなたはここにいる男女のすることができないのであるか。これらの男女はそれを自分自身の力でなし得るのであって、主である彼らの神においてなし得るのではないのか?主であるかれらの神が、わたしをかれらに与えてくださったのである。なぜあなたは、自立しながらしかも自立しないのか。その身をあの方になげかけなさい。恐れてはならない。あの方は身を引いて、あなたを倒れされることはないだろう。安心して、あの方に身を投げ出しなさい。あなたを引き受けて、あなたを癒してくださるだろう」[6](27)。
このように、アウグスティヌスの心の中で、貞潔はアウグスティヌスが神に全てを委ねるよう、恐れず神に身を投げるよう勧めます。そうすれば神は彼を引き受け、彼は癒され、彼は貞潔を与えてもらうことができます。
聖なる清い生活を送ることは、人間の力の限界を超えています。それは神からいただく恵みです。同時に神からその恵みをいただくためには、人は神に身を委ねる必要があります。私たちはその決断がしたい、神を信頼し、神に身を投げ出したいと望みます。しかしそう望みながらも、私たちは自分がその決断さえもできない弱いものであると感じることがあるかもしれません。しかし、それでも私たちはあきらめてはならないことを聖アウグスティヌスは教えてくれます。アウグスティヌスは先の考察に、心を激しく揺さぶられ、声をあげて涙します。そしてその涙を通して、彼は神に救いを求めます。
「わたしはどうであるかはわからないが、とある無花果の木の下に身を投げて、涙の溢れ出るのにまかせた。そうしてわたしの目から涙が溢れ出たが、これは『あなたに喜ばれる供えもの』であった。それからわたしはこれと同じ言葉ではないが、同じ意味のことを数多くあなたに訴えた。『主よ、あなたはいつまでなのか。主よ、いつまでなのか。あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないでください』。じっさい、わたしはまだ古い不義にとらえられていることを感じていたからである。それでわたしはあわれな声を張りあげていった。『もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまでないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりでないのですか』。わたしはこのように訴えて、わたしの心はひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた」[7](12章、28−29)。
彼の涙の訴えは、神に届きます。
「するどうであろう、周りの家から、男の子か女の子かは知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、『取って読め、取って読め』と何度も繰り返していた。わたしはすぐに顔色をかえて、子供が何かの遊戯に、このようなことを歌うのだろうかと一生懸命に考えてみた。しかしそのような歌はどこでも聞いた覚えはなかった」[8](29)。
彼は近くにある聖書を手に取り、最初に目に触れた章を読みます。そこには次のように書かれていました。
「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない」[9]
この節を読むと、たちまちアウグスティヌスの心は平安の光で満たされ、疑惑の闇はすっかり消え失せました。
アウグスティヌスの涙は天に届きました。そして、アウグスティヌスは救われました。彼は自身の涙は神に喜ばれる供えものであったと解説しています。私たちが自身の弱さを身に持って感じる時、自身を神に委ねるという決心さえできないと感じる時、私たちにできることがまだあることを聖アウグスティヌスは教えてくれます。心の中で神への救いを求める叫び声をあげるのです。もしかしたら涙も出るかもしれません。しかしそれは、神に喜ばれる供えものになります。そして神はその供えものを受け入れ、私たちを救ってくれます。
「主よ、あなたはいつまでなのか。主よ、いつまでなのか。あなたはいつまで怒っているのか。わたしたちの犯した古い不義のことを思い出さないでください」
「もうどれほどでしょうか。もうどれほどでしょうか。あすでしょうか。そしてあすでしょうか。なぜいまでないのですか。なぜいまがわたしの汚辱の終わりでないのですか」
このように、苦しみと戦い、心の内の二つの意志の対立、優柔不断、神に全てを任せたいと望む心、そして、神への救いへの涙の叫びという長く複雑なプロセスを通して聖アウグスティヌスは心の底から回心したのでした。
「主よ…あなたはわたしたちを、ご自分に向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ることができないのです」
[1] 聖アウグスティヌス、服部英次郎(訳)『告白(上)』、岩波書店、1976年、91頁。
[2] 同、267頁。
[3] 同、270頁。
[4] 同、276頁。
[5] 同、277頁。
[6] 同、278-279頁。
[7] 同、280。
[8] 同、280-281。
[9] ローマ13・13ー14。