年間第10週・火曜日 83 塩気を失った塩

― 生温さ。 ― 真の信心、感情と内的な無味乾燥。 ― 私たちは「地の塩」でなければならない。内的生活の必要性。

年間第10週・火曜日

83 塩気を失った塩

― 生温さ。

― 真の信心、感情と内的な無味乾燥。

― 私たちは「地の塩」でなければならない。内的生活の必要性。

83.1 生温さ

主は、弟子たちに、あなたがたは地の塩であると言われました。 彼らは、まさに塩が食べ物に働きかけることを世の中に対して行います。味覚に合うようにして腐敗するのを防ぎます。しかし、塩は、時々その風味を失ったり、それ自体の質を落としたりすることがあります。そうなると、塩は邪魔ものになります。これは、キリスト者が陥ることの中でも、罪と共に、最も悲しむべき状態です。罪を犯した後に起こるこのような変化は、キリスト者にとって非常に悲しい出来事になります。多くの人々は存在という輝きをいただいてはいるのですが、それが実際には暗闇と化しているのですから。人々を正しい方向に導くどころか、その人自身が方向を見失い、これという目的もないままになっています。他の人々に力を与えるためにこの世に置かれたにもかかわらず、その人には脆さ以外に人に伝えるものはなくなってしまいます。

生温さは、知性と意志の両方に影響を与える魂の病気で、使徒職を行う力を奪い、内的に、悲しみと虚弱に人を深く落ち込ませます。この病気は、意志が弱くなることから始まります。過失を繰り返し、責められても仕方のないほど手を抜き、頻繁に悪を行い、さらにもっと悪いことを行う、等、正しいことを行うことができなくなってしまうのです。こうなると、知性が人生の地平線上にキリストのみ顔をはっきりと見ることはできなくなります。愛の証しであるわずかな些細な事柄を不注意にも終始怠ってきた結果、今や遠く離れた存在になりました。内的生活は大きく変化し、もはや中心となるべきイエスが不在です。生温い人々は、信心の業の実行にも中身がありません。信心の行為を心と魂を込めて果たしません。愛からではなく日課や習慣だからするといった義理で果たしているだけになります。

この状態になると、人は愛に満ちた霊魂に認められる特徴、神に関するものに応える自発性と喜びのすべてを失います。生温いキリスト者は何となく“内側を表”にしているようなものです。彼らの霊魂は向上するための努力にうんざりしています。キリストは彼らの生活範囲から消えました。神をどうにか見ているとしても、それは遠く隔たった姿、はっきりしない不明瞭なもの、輪郭の漠然とした容貌でおそらく自分には無関心なものとしてしか映らないでしょう。もはや、以前行ったように寛大に積極的な行動はしません。今やかなり楽なことに甘んじてしまいます

聖トマスはこの状態の特徴についてこう言っています。「生温さとは、ある種の悲しみであり、それによって人は、努力を要する霊的な行為について、鈍くなる」。信心の規定と信仰の行為は、全身を促す原動力と困難を克服する助けとならず、かえって、仕方なく担う重荷になるのです。

生温さに陥ったキリスト者が沢山います。現代では、「風味を失った塩」が周囲に沢山あるのです。今日、祈りの中で、イエスが私たちに求められる堅固さと確信をもって前進しているかどうか、また神との会話を、私たちの内的生活を強め成長させてくれる宝とみなしているかどうか、そして私たちの愛をしっかりと育てているかどうか考えてみましょう。自分の弱さや、恩恵との一致の不足に気づいた時、素早く悔い改めの行為をして敵の妨害を食い止め、守りを固めようとしているかどうか考えましょう。

83.2 真の信仰、感情、霊的無味乾燥

生温い状態を、時に疲れや病、あるいは熱意の喪失の結果として生じる、信心業の無味乾燥状態と混同しないようにしましょう。このような場合は、感情が無味乾燥であっても、私たちの意志は、善であるすべてのものにしっかりと向けられているからです。たとえ行程が困難で、一つの井戸や冷たい水の泉さえ見つけることができない、石の多い荒地を横切っているとしても、霊魂は神にまっすぐ向かっていることが分かっているのです。霊魂は、目的地がどこにあるかを知っているので、自分の弱さと渇き、歩まなければならない不利な地形にもかかわらず、まっすぐその目的地に向けて進んで行きます。

〈無味乾燥〉と呼ばれる状態で、たとえ霊魂が何の感情も持たず、祈ること、神と本当に会話をすることが難しく思われたとしても、真の信心(信仰心)はそれにもかかわらず存続しています。聖トマス・アクィナスは、この真の信心(信仰心)を『神への奉仕に関わるすべてに自らを捧げること』と定義しました。 この覚悟は、もし意志が生温さの状態に陥るなら弱くなります。「あなたに言うべきことがある」。主は言われます。「あなたは初めの頃の愛から離れてしまった」。あなたは弱くなった。もはや、以前のようにはわたしを愛していない。あらゆる感情がない無味乾燥の時でも、祈りを続ける決心をしている人は、多分、バケツで次々と水を井戸から汲み上げる人のようです。つまり射祷を唱えたり、償いの行為をしたりして。それは辛い仕事で、努力を要しますが、その人は水を確かに汲み上げます。これに反して、生温い状態では、私たちの想像力は、道を彷徨(さまよ)い、無謀に駆け出します。もはや、意識的に注意散漫になってもそれを頑として追い払おうとはしません。そして、実際問題として、そこから何の実りも得られないという言い訳をして祈りを放棄します。それに対して、神との本物の会話は、たとえ神が無味乾燥になることを許しても、状態がどうであろうと、私たちが意向の正しさをしっかりと持ち、神の傍にいようと固く決心してさえいれば、常に多くの実りを生み出します。

感情の伴う愛情は良いもので、祈りや内的生活全体に大いに役立つことができるのですが、真の信仰は感情の問題ではないことを、今、ここで、神の現存のうちに思い出さなければなりません。神が創造されたものですから、感情は人間の本質の重要な部分だからです。しかし、このような感情は、信仰生活で不相応に重要な部分を占めてはなりません。神との関係では主要な部分ではありませんから。感情は役に立ちますが、それ以上のことを行いません。なぜなら、信仰の本質は感情ではなく、心の状態 - 常に非常に変わりやすい!- や、いかなる状況にも全く影響されない神に仕えようと決意した意志にあるからです。信仰心や信心に関しては、感情にではなく、むしろ知性に導かれるように、私たちが祈るように信仰によって照らされ助けられるように気をつけなければなりません。感情に左右されるままにすることは、主人としての責任を放棄する間、自分の家の管理を召使いに譲り渡すようなものです。感情が悪いのではありません。感情を必要以上に重視することが悪いのです

生温さは不毛です。風味のない塩は、もはや投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 これに対して、無味乾燥は、神が特別の霊魂を清めたいと望まれているという確かなしるしです。

83.3 内的生活を持つ必要性

人間として、私たちは、幸福や悲しみ、また光や暗闇の元となり得ます。平和や心配、価値を高めるパン種、反対に他の人々の向上を妨げる重荷の源にもなり得るのです。この世を通り過ぎることは、他の人と関わる限りどうでもよい問題ではありません。他の人々がキリストを見出すことに役立つか、あるいは彼らを神から引き離すかのどちらかです。他の人々を豊かにするか、あるいは貧しくするかなのです。飢えているかのように、イエス・キリストという真の神から遠ざかるだけの役に立たない物質的なものを追い求めているように見える多く人々 - 友だち、同僚、家族、近所の人々 - に出会います。彼らは迷いながら一生涯を過ごします。盲人の道案内が自ら盲人にならないために、耳から得る知識だけでは不十分です。 周囲の人々を助けようとするなら、その道について漠然とした表面的な理解では不十分です。私たちは、自分で道を歩き、その道に横たわっている、乗り越えなければならない障害について、自分で直接得た知識が必要です。私たちは、日々、イエスとの個人的な会話、内的生活を持つ必要があります。自分の欠点に打ち勝つために、さらにもっと決意して戦うために、もっと深く主の教義を知る必要があります。使徒職はキリストに対する大きな愛の結果です。

初代のキリスト者は、真の地の塩であり、人々と諸制度、つまり社会全体を堕落から守りました。多くの国々に起きていること事とはどんなことでしょうか? キリスト者が今、家庭、学校、団体に入り込む堕落の波を遅らせ、止めさせることができないという、悲しむべき事態はなぜでしょうか? 信仰は今も変わりありません。キリストは今もなお、私たちの間で生きておられます。キリストの力は限りなく神聖です。何千人、何万人ものキリスト者が生温くなることで、あらゆる種類の異端と愚かな学説が蔓延したキリスト教を世間の見世物として提供できます。生温さは、信仰の力と剛毅を失わせるからです。生温さは、個人的にも団体としても、妥協と安楽を求める精神と密接に関係しています。 目を覚まし、警戒し、注意深くしなければならない多くの人々が、信仰を深く眠らせるままにし、個人的な分野と公的な分野で、愛が消えています。多くの場で〈普通のキリスト者〉とは生温く凡庸な人のことです。初代のキリスト信者は、時には、殉教を受け入れました。信仰を守るために彼らはまさに自分の命を明け渡すことを頻繁にしていたということなのです。愛が冷たくなり、信仰が眠り、塩がその風味を失えば、もはや何にも役に立たなくなります。邪魔になるだけです。キリスト者がこのように役に立たなくなることは何と残念なことでしょう! 生温さは、しばしば使徒的効果がなくなる原因となります、なぜなら私たちが生温さに陥っていれば、私たちのする些細なことでさえ、人間的、超自然的魅力に欠け、犠牲の精神を失った仕事になるからです。活気も愛もない信仰は、人々をキリストとの深く親しい関係に引き寄せるために説得するに相応しい言葉を見出すことができないでしょう。

人に影響を与える力を神に熱心に願いましょう。毎日、神との対話を続け、ご聖体を拝領するためにさらに大きな信仰と愛を持つなら、私たちは真の地の塩になるでしょう。愛は聖人の生涯の原動力であったし、また、今もそうです。それは神に捧げられた人生の唯一の存在理由です。愛は、前に立ちはだかるどのような個人的な障害も、また、私たちの周辺に現れるどのような障害をも越えて、高く舞い上がるための翼を私たちに与えてくれます。愛は、私たちが妨げに直面したとき強くしてくれます。生温さは、最も取るに足りない困難に遭うだけでも諦めます。(書かなければならない手紙、かけなければならない電話、訪問、会話、ある物質的不足、…)つまり、些細なことを大げさに言わせるのです。そうではなくて、神に対する愛があれば、大きなことでも些細なこととして扱えます。愛は、霊魂を変容させ、新しい光を与え、新しい視野を開きます。霊魂が最も高い望みを達成することができるようにし、持ったことのないような夢を持つ能力を与えます。愛は必要とする努力について大騒ぎせず、その努力の結果を見て、霊魂は幸福で満たされます。

黙想を終えるにあたり、キリスト者の召命に見事に一致するその完全な模範である聖母に信頼をもって向かいましょう。私たちの霊魂から、生温さのどのような影も効果的に取り除いてくださるように、聖母に願いましょう。守護の天使にも、神への奉仕に勤勉になれるようにと願いましょう。

マタイ5:13

F.Fernandez, Lukewarmness, Madrid,1986 参照

聖トマス,神学大全,I, 63,2

聖トマス,op cit, II-II,82,1

黙示録2:4

J.Tissot, The Interior Life, p.100

マタイ5:13

マタイ15:14 参照

P.Rodriguez, Faith and Life of faith