聖人になるとは?

私たちは皆、聖人となるよう神から招かれています。しかし、具体的に聖人になるとはどういうことなのでしょうか。さらに、どうすれば聖人になれるのでしょうか。

この記事は、オプス・デイのWebページに掲載されたスペイン語記事を翻訳し、日本語での読者向けに幾つか補足したものです[1]

ローマ教皇の発言とともに、カトリック教会のカテキズム、第二バチカン公会議の教会憲章、そしてこの公会議の約40年以前から聖性の普遍的召命を説き続けた聖ホセマリアの説教等からの引用をしながら見ていくことにします。

概要

1. 聖性とは何か?
2. 誰が聖人になれるのか?
3. 聖人になるには?
4. 教会で列聖された人とは?


1. 聖性とは何か?

聖人とは、祝福された、至福の、幸福な人と同義語です。

聖性とは、人間のすべての願望を満たす神の賜物です。キリストに結ばれ、聖霊の恵みを受けて神の子として生きることを学び、愛徳の充満に至るキリスト教生活の完成です。

教皇ベネディクト十六世は、ある一般謁見で聖性に全ての人が招かれていることを話されました。「聖性、完全なキリスト教的生活とは、特別な事業をなし遂げることではありません。むしろ、キリストと一つに結ばれることです。キリストの神秘を生きることです。キリストの生き方、考え方、態度を自分のものとすることです。聖性の度合いは、キリストがわたしたちのうちで達する背丈によって決まります。聖霊の力で、どれだけキリストの生き方に基づいて自分の生き方を形づくるかによって決まります。聖性とはイエスと同じ姿に造り変えられることです。聖パウロが言うとおりです。『神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました』(ローマ8・29)」(教皇ベネディクト十六世の266回目の一般謁見演説、 2011年4月13日[2])。

聖ホセマリアの参考テキスト[3]

「聖性とは、まさに神との結合以外の何ものでもなく、私たちの主との親密度が高ければ高いほど、聖性も高くなる」(教会を愛する 22)。

「あなたはたくさんの新しいことを発見してきた。それにもかかわらず時々無邪気になり、もう何もかも見て、何もかも分かったような顔をしている。時が経つと、他に類を見ない、主の宝物の計り知れない豊かさを自分の手で触れ、愛に溢れた濃やかな心で応えれば、〈新しいこと〉を絶えず見せてもらえることを知るだろう。そして、その時やっと、道を歩み始めたばかりであることに気づく。聖性とは、神、すなわち、限りなく、また尽きることのない私たちの神とひとつになることだからだ」(拓 655)。

「聖人とは、失敗しない人ではなく、謙遜と聖なる頑固さに支えられて、失敗しても必ず立ち上がる人であることを、忘れないで欲しい」(神の朋友 131)。


2. 誰が聖人になれるのか?

聖性は普遍的な召命であり、すなわち、すべての人に向けられたものです。神ご自身は、「わたしは聖なる者である。あなた方も聖なる者となりなさい」(一ペトロ1・16)と言われ、御子は、「天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)と私たちに気づかせてくださいました。

「すべての信徒は、その状態や条件がどうであれ、キリスト教的生活の充足と愛徳の完成に召されており、この聖性は地上社会においてもより人間らしい生活水準をもたらす」(教会憲章40[4])。「キリスト信者とは、洗礼によってキリストに合体されたことにより神の民とされた者です」(カトリック教会のカテキズム 871[5])。

教皇フランシスコは次のように説明しています:「それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛をもって生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、わたしたち皆が呼ばれているのです。 あなたは奉献生活に召し出されたのですか。喜びをもって自分の献身を生きることで、聖なる者となりなさい。既婚者ですか。キリストが教会にされたように、あなたの夫や妻を愛し大切にすることで聖なる者となりなさい。 あなたは労働者ですか。兄弟姉妹に仕える自分の仕事を誠意と能力を尽くして果たすことで、聖なる者となりなさい。 あなたは子や孫を持つ身ですか。イエスに従うことを幼い子どもに根気強く教えることで、聖なる者となりなさい。 あなたは権限のある立場の人ですか。共通善のために闘い、己の利益を顧みずに努めることで、聖なる者となりなさい」(喜びに喜べ 14[6])。

しかし、洗礼を受けていない人は聖人になれるのだろうかと、私たちは問うかもしれません。ご存知のように、神はすべての被造物を愛し、その慈しみは、すべての被造物に及んでいます。洗礼の恵みを受けることができなかった人も、良心と愛の秩序に従ってまっすぐに生きるなら、神の正義と慈みによって神の愛との完全な結合を達成することができます。

「キリストはすべての人のために死なれたのであり、人間の究極的使命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものですから・聖霊は神のみが知っておられる方法によって、すべての人に過越の神秘にあずかる可能性を提供されることを、わたしたちは信じなければなりません」(カトリック教会のカテキズム 1260)。キリストとその教会とを知らずに真理を求め、自分の知るところに従って神のみ旨を行うすべての人は救われるのです。このような人々は、洗礼の必要性を知っていたなら、洗礼を受けたいという望みを表明したに違いないと考えられるからです。

同時に、私たちは、救いのため、聖性のため、天国に到達するための普通かつ必要なすべての手段を、カトリック教会の中に見出すことができることを自覚しています。

聖ホセマリアの参考テキスト

聖性はすべての人のものであり、一部の特権階級だけのものではありません。 それは、並外れた偉業を成し遂げることではなく、毎日の小さな義務を愛を持って果たすことにあります。

「本気で聖人になりたいのか。各瞬間の小さな義務を果たしなさい。すべきことをし、今していることに専念しなさい」(道 815)。

「〈偉大な〉聖性とは、各瞬間の〈小さな義務〉を為し遂げることにある」(道 817)。

「よく考えなさい。世界中に大勢の男女がいるけれど、師キリストがその中のたった一人さえ、呼ばずに放っておかれることはない。キリストは、キリスト教的な生活、聖性の生活、選ばれた者の生活、永遠の生活に、彼らをお呼びなのだ」(鍛13)。

「おそらく皆さんの中には、私が一部の選ばれた人々のことを話しているのだと考える人もいるでしょう。しかし、臆病な心や楽を求める気持ちに負けて、そんなに簡単に自らを欺かないでください。しっかりと、『もう一人のキリスト』、キリスト自身にならなければならないと呼びかける神の要請を感じ取ってください。言い換えれば、私たちの行いが信仰の規範に固く結びついていなければならないという、目下の急務を自覚して欲しいのです。私たちの追求する聖性は二流の聖性ではない。二流の聖性などというものは存在しないからです。聖人になるための主たる条件は人間の本性に備わっており、それは愛するということです。『愛はすべてを完成させるきずなです』。主ご自身がお与えになった掟に明らかなように、条件を付けないで、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛』する愛徳のことです。聖性とはこの愛徳の実行にほかなりません」(神の朋友 6)。


3. 聖人になるには?

聖人になるには、神の恵みを自由にそして謙遜に受け入れ、神によって自分自身が変えられるように協力するよう努めることです。しかし、私たちのすべての活動、私たちの考え、私たちの望みが、イエスが私たちに教えてくれた「あなたは、何よりも神を愛し、あなたの隣人をあなた自身のように愛さなければならない」(マタイ22・37)という愛徳に導かれるように、毎日をますます神と結びついて生きるよう努力することなのです。

この掟はキリスト教の聖性を要約したものであり、それを達成するための通常の手段は、「救いの手段に必要な全てが託されている」「救いの諸手段のすべてが充満している」教会にあります。神の恵みによって聖性を獲得するのは教会においてです。教会の中でこそ、わたしたちは「神の恩恵により聖性を獲得するのです」(カトリック教会のカテキズム824)とあり、それはみことばと秘跡を通して私たちに与えられます。

「実を結ぶためには、信者が神のことば喜んで聞き、神の恵みの助けのもとに神のみ心を実行し、諸秘跡、とくにミサと聖体に頻繁に預かり、祈りと犠牲、兄弟に対する行動を伴う奉仕と諸徳の実践に熱心に取り組むこと。実際全てを完成させる絆である愛徳は、すべての聖化の手段を支配し、活かし、目的へと導くからである」(教会憲章 42)。

神は私たちを聖性へと導いているのです。神の意志、神の道に従うには、恵みの助けを必要とします。そして、恵みは、洗礼、聖体、堅信、ゆるしの秘跡などを通して獲得されます。聖性を獲得しようとするキリスト信者の生活は、神と他者への誠実な愛である愛徳をその羅針盤とするものです。この愛徳は、祈り(神と向き合うこと)、徳の生活(自分よりも隣人に仕えることを求めること)において具体化されます。「神と隣人に対する愛こそ、キリストの真の弟子のしるしである」(教会憲章 42)のです。

すべての人が聖性に招かれている。そして神は必要な手段をすべて与えてくださる、こうしたことを聞いていても、もう一方において、暗黙の「誤解」とでも言うべきものがありうるので、指摘しておきます。

聖人というと、人は、マザーテレサや聖ヨハネ・パウロII世といったよく知られている聖人や自分が理想としている聖人を連想します。目標にし、自分もああなりたいと思う刺激をもたらすのであれば、素晴らしいでしょう。しかし、あの人達は別格だ、われわれとは異なった人々だと、無意識に考えてしまう危険もあるのです。対照的に、自分は、どうしようもない人間で、心の闇や、罪、欠点を持ち、聖人になるなどおこがましいという考えに囚われます。人生のある時点では、聖人になりたいと歩み始めたものの、日毎に自分の罪や欠点が明らかになり自分の惨めさを痛感すると、そもそも聖人になるなどどいうことは土台無理なことであり、自分には高望みであるという思いが強まります。失望や落胆が入ってくるのです。これこそ、聖性に向かう大きな障害です。聖ファウスティナを通して、イエスは「聖性に対する最大の障害は落胆と不安だ」と断言しています。

大事なので、繰り返します。聖性は、神の恵みと導きによるもので、私たちの努力や才能によるものではありません。しかし聖性は、私たちの自由な協力なしに実現されるものでもないのです[7]

結局のところ、私たちを決して裏切らない神の恵みによって、人は望めば聖なるものとなり、望めば望むほど、より聖なるものとなるのです。聖性への願望が大きければ大きいほど、より効果的です。しかし、日毎に、聖性への思いを新たにするだけでは不十分です。しなければならないのは、謙虚に現実を直視しつつ、信仰をもって、その願望を具体化することです。上記2で引用した聖ホセマリアのテキストによると、聖性とは、各瞬間の小さな義務を為し遂げることであり、そのために、数少なく具体的な決心を立て、それを神の助けを受けて果たすというものです。

聖ホセマリアの参考テキスト

「皆さんに示したこの目標、というよりは、神がお示しになったという方が正しいでしょうが、とにかくこの目標は夢でも幻でもなく、実現できない理想でもありません。私たちと同じ市井の男女が、無数の具体的な模範を示しています。彼らは、どこにでもある四つ辻で、『隠れてお通りになる』イエスに出会い、愛を込めて日々の十字架を抱きしめ、主に従おうと決心した人たちです。あらゆる面で崩壊と妥協と無気力、放縦と無政府状態が広がっている今日、『世界的な危機は聖人の不足である』という、あの簡潔だが深い信念が一層現実味を帯びてきます。司祭になってからずっと、私はあらゆる人々にこのことを伝えるために努力してきました。」(神の朋友 4)。

「勇気を奮い起こしなさい。あなたには…できる。あの寝坊助・否認者・臆病者のペトロや…迫害者・嫌悪者・頑固者のパウロが、神の恩寵(恩恵)のおかげでどうなったか、知っているだろう」(道 483)。

「『そうです、聖人になりたいのです』と、あなたは言っていたが、私は黙って聞いた。あまりにも曖昧模糊とした言い方だから、特別なことがない限り、愚かな望みに過ぎないと思ってはいたけれど」(道 250)。

「ぜひ、そうなりたいのです、とあなたは言う。分かった。しかし、守銭奴が自分のお金を愛するように、母親がわが子を可愛がるように、野心家が名誉を切望するように、あるいは、哀れな好色家が快楽を求めるのと同じように、望んでいるだろうか。いいえ? それなら、望んでないのと同じである」(道 316)。


4. 教会で列聖された人とは?

教会の聖人は、世界における神の愛の証人であり、したがって、社会を変革する原動力となります。

「教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます。聖人は、教会の歴史を通してもっとも困難な時期にあって、つねに刷新の源、始まりとなった人たちでした。事実、聖性は、使徒的活動と宣教の努力の隠れた源泉、および絶対確実な規範なのです」(カトリック教会のカテキズム 828)。

何世紀にもわたって、教会は、信者の模範、崇敬、呼びかけのために、愛徳と他のすべての徳の素晴らしさにおいて傑出した何人かの男女を提供してきました。

聖ホセマリアの参考テキスト

「聖人たちはある種の精神科医が研究の対象にするような異常な人間ではなかった。聖人たちはあなたと同じ肉体をもった正常な人間だった。そして、打ち勝ったのである」(道 133)。

「私たちがあるがままの状態でキリストの生命に参与し、聖人になるために戦うように主は呼びかけておられるからです。〈聖化〉、この言葉をなんとしばしば意味もなく口にすることでしょう。大勢の人々にとって、それはあまりにも高すぎる理想であり、霊的生活の一つのテーマとはなっても具体的な目標にはならず、実際的なことでもないようです。しかし初代のキリスト信者はそうは考えませんでした。彼らはごく自然に、しかもしばしばお互いに〈聖人〉と呼び合っていました」(知識の香 96)。

「あなたの従事する使徒職が〈画一的でない〉ことを、私が承認していると知って、あなたは驚いていた。私は次のように言ったのだった。一致と多様性。天国の聖人たちがそれぞれ独特の個性を備えているように、あなたたちは各々異なっているはずである。と同時に、聖人たちと同じく、あなたたちは互いに似ていなければならない。聖人たち各々がキリストと同化していなければ、聖人にはならなかったはずだからである」(道 947)。


文中では、聖性の普遍的召命には使徒職が含まれていることには触れなかった。このテーマについては、拙文記事の「聖性の普遍的召命には使徒職が含まれる」の章を参照。

この記事に関する質問等は 稲畑誠三 seizoina@gmail.com までお寄せください。

訳者及び筆者 稲畑誠三(オプス・デイ属人区信徒)

2023.7.19


[1] この記事は、オリジナルのスペイン語記事 ”Qué es ser santo?”を全訳し、以下の補足をした。「3. 聖人になるには?」の、第5段落からその章の最後までに、聖性に向かう障害となりうる誤解について説明を加えた。ホセマリアの引用をいくつか追加した。注釈及び参考文献等の説明を加えた。

[2] 教皇ベネディクト十六世の266回目の一般謁見演説,、2011年4月13日。同教皇が2011年2月2日から開始した「教会博士」に関する連続講話のしめくくりの第9回に、「すべてのキリスト信者が聖性へと招かれていること」について解説した。

[3] 聖ホセマリア・エスクリバー神父の著作。引用したテキストの文末の括弧書きの最初は書名、次は著書ごとに付けられた通し番号。出版されているすべての師の著書は日本語で、Web閲覧可能(ただし、日本語については、語句検索が現在のところできない状態)。

[4] 第二バチカン公会議 教会憲章(Lumen Gentium)、2014年2月28日、カトリック中央協議会。第二バチカン公会議のもっとも重要な決議文書ともいわれる教会憲章(正式には「教会に関する教義憲章」)の第五章には、「教会における聖性への普遍的召命について」というタイトルのもと、この記事で取り上げた内容がしっかりと順序立てて書いてある。聖性に関して勉強するための必読の箇所。オンラインストアで取り扱いあり。

[5] カトリック教会のカテキズム、2020年7月22日。本書は教皇任命による教皇庁諸庁の要員からなる委員によって編纂された「使徒継承の信仰に関する新しい権威ある解説書」(教皇使徒的書簡「大きな喜びをもって」)。聖職者や修道者ばかりでなく一般信徒にとっても、信仰生活の助けとなるテキストとして「カトリックの信仰と教理とが誠実に体系的にまとめられ」(同前)ている。オンデマンドで入手可能。同書で聖性に関する関連箇所の例: 教会は聖である823〜829番、キリスト教的聖性について2012〜2016番。

[6] 教皇フランシスコ 「使徒的勧告 喜びに喜べ―現代世界における聖性」、2018年10月2日、カトリック中央協議会。主からすべてのキリスト者へと向けられた、聖性への招きの考察。秘跡、犠牲、信心業といった、過去の多くの書で説かれる聖化の手段を反復するのではなく、一人ひとりが日常生活の中で、神と隣人への愛によって歩む聖性の道を説く。オンラインストアで取り扱いあり。

[7] 聖性を考える上で、神の恩寵と人間の自由意志との関係は避けて通ることができない。両者の関係を最も簡潔に説明したのは、クレルヴォーの聖ベルナルドであると稲垣良典は言う(カトリック入門、稲垣良典、2016年10月10日、ちくま新著、p. 69-76)。稲垣によれば聖ベルナルドは、両者の関係を次の一文に凝縮した。totum ex illa (gratia Dei), totum in illo (liberum arbitrium),(救いの)全体が神の恩寵によって、(救いの)全体が自由意志においてなされる。聖ベルナルドの言わんとすることは、救いは神のみによってなされるものの、それは、各自一人ひとりにおてなされる、つまり、一人ひとりが救われるのであるから、各自の自由意志が不可欠の役割を果たしている、と稲垣は説明する。この指摘を借りれば、聖性は、神の恩寵によって実現するとともに、私たち一人ひとりにおいて実現すると言えるのではないか。

稲畑誠三