神のやさしさ(VII):救いの喜びを取り戻す

憐れみを与えるためには、神から憐れみを受ける必要があります。神に自分の傷を見せ、癒され、愛されるために。「罪人に厳しく、罪に甘いことの多い」世にあって、詩篇ミゼレーレは、魂を解放し、御父の家にいる喜びを私たちに与えてくれる偉大なゆるしの祈りです。

「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」[1]。3000年来、詩編ミゼレーレ(Miserere、詩篇51) は神の民の各世代の祈りを豊かなものにしました。教会の祈りでは毎週金曜日の唱和に使っています。オプス・デイでは、パドレが毎晩床にひれ伏してこの詩篇を唱えます[2]。これはこの「憐れみの賛歌」の内容を具体化することです。教皇様はこう言われました。「罪を悔やみ、打ちひしがれた心からでる賛歌は、いかなる罪よりも大きな神の忠実を宣言するものです」[3]

「心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じです」

詩編ミゼレーレは、私たちに「過ちと恩恵についての考察をより深くするよう」[4] 促します。イスラエルの伝統はこの詩篇を、預言者ナタンが神の信託によりバト・シェバとの不倫とウリア殺害を諌めた時に、ダビデ王が口にした祈りとしています[5]。預言者は王を直接なじることはせず、ダビデ自身が自己の非を悟るよう、たとえ話をしました[6]。Peccavi Domino、「わたしは主に罪を犯した」[7]。「わたしを憐れんでください」と叫んだダビデの心境には、自己の過ちだけでなく、周りの人たちをも悲しみに巻き込んだことへの嘆きが表れています。罪が神に背き、人々と自分自身を傷つけるものだと認識することによって、全てを正すことができる唯一の方である主の内に、庇護と癒やしを探し求めます。「心に責められることがあろうとも、神は、わたしたちの心よりも大きく、全てをご存じだからです」[8]

彼らは自分が何をしているのか知らないからです

罪は人に、一時の間、自由を約束します。神から離れることによって、私たちが真に自分らしくなれるという幻想を抱かせます。しかし、この見かけだけの自由はすぐに重荷と化します。自己の良心を黙殺できると信じている人も、早晩、それに耐えることのできない日が来ます。「ありきたりの説明では足りない、偽りの預言者の虚偽にはもう満足できない、という時が必ず来ます」[9]。それは回心の始まりです。もしくは「最初の改心よりも、 もっと大切でもっと難しい仕事」である、人生における「連続的な改心」[10]のひとつの始まりです。

回心は常にダビデ王の話のように即座に始まるとは限りません。その過程は人によって違います。無分別は、罪に先立ち、罪に同道し、罪によって強まり、長引き、しまいには過ちを正当化し、「大したことではない」などと思わせます。これは度々私たちの周りでも見られることです。この世はしばしば罪人には厳しく、罪自体には寛容です[11] 。罪人に対して厳しいのは、その人の行動に罪の醜さがはっきりと現れるからです。しかし罪そのものを軽く見るのは、それを禁止するとある種の「自由」を束縛することになると思うからです。皆がこの危険にさらされています。私たちは、自己の罪を告発することなく、他人の中に罪の醜さを見て取ります。そうすると、憐れみに欠けるばかりか、慈しみを受けることも出来なくなってしまいます。

罪と怠惰は理性を鈍ます。人は自己欺瞞に陥り、好んで盲目となり、見ることを厭い、見ないよう努めます。ですから神のゆるしが必要なのです。イエスが十字架上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないからです」[12] と仰せになったのは人間のこの状態をよくご存じだったからです。もし罪のゆるしを単なる罪を覆い隠す優しいゆるしと考えるなら、主のこの言葉の深い意味をくみ取ることが出来なくなるでしょう。神から離れるとき、私たちは自分何をしている知っていると同時に知らないのです。振る舞いが悪いことには気づきますが、そこからどんなことが派生するかを忘れているのです。主はこの両面を、またその後の深い悲しみをもご存じです。聖ペトロは主を裏切ったとき、自分が何をしているのか知っていると同時に知らなかったです。その後「激しく泣」[13]きました。その涙によって、彼はより清く透き通った目で物事を見れるようになったのです。

「キリストの憐れみは、軽々しく口に上るようなお情けではなく、また悪を軽視することでもありません。キリストは、悪の全ての重荷とその全ての破壊力を全霊全身で担い、その御苦しみと悲哀の愛熱によって悪を焼き滅ぼし、浄化したのです」[14]。「何をしているかを知らないから」という十字架上からの主のゆるしの言葉は、私たちが父の家に戻るための、憐れみに満ちた主のご計画を垣間見せてくれます。ですから、聖母に十字架上から私たちの保護を委ねられたのは偶然ではありません。

懐かしい御父の家

「人間の一生とは、ある意味で、何度も御父のもとに戻ることだと言えます」[15]。回心、そして連続的な回心は、何らかの形で宿無しになってしまった私たちが出発すること、そして再出発を繰り返すことです。放蕩息子は「使用人たちが焼きたてのパンで朝食をとっている父親の家を懐かしく思い出しました。郷愁は偉大な感情です。これによって心は大きくなりますから、この感情は慈しみと関連しています(…)。郷愁は果てしない地平線に向けて広がっていきます。この若者は、この懐かしさという観点から自分自身を見つめ、自己の哀れな状態に気づいたのでした。私たちは一人ひとり、自分のもっとも惨めな点を探したり、あるいはそれに引きずられたままにしたりすることができます。一人ひとりが何らかの惨めさを内に秘めています。…それを見つけ出す恩恵を願うことが必要です」[16]

父の家を離れるとは、放蕩息子が気づいたように、事実、自分自身の家を見捨てることです。彼は、自分自身の向上を阻むように思えた家を、決して捨てるべきではない家庭として再発見します。一方、父の家にいても心は遠く離れている人もいます。たとえ話の長男は、家を離れたことはなかったとしても、心は遠く離れていました。イエスはイザヤの言葉を引用して言いました「この民は(…)唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」[17]

兄は「お父さん」と呼ぶことも「弟」と言うこともなく、自分のことだけ考えています。彼は自分がいつも父親のそばにいて、父親に尽くしてきたことを自慢しています。(...)。なんと哀れな父親でしょう。一人の息子は立ち去り、もう一人も決して父の近くにはいなかったのです。この父親の苦しみは、わたしたちが神から離れてしまったときの神の苦しみ、イエスの苦しみと同じです。その苦しみは、わたしたちが神から立ち去ったり、神のそばにいても心から近づいていないために生じるのです」[18]。私たちにも、弟のようでなくとも兄のように振る舞った時が人生においてあったかもしれません。もしくは兄以上のひどい振る舞いをしていたことに気づくことがあるかもしれません。この気づきは神からの恵みです。神は、私たちがもっと神の近くに来るようにとお望みなのです。新たな回心の時です。

「内的生活が自己の関心のみに閉ざされていると、もはや他者に関心を示さなくなり(…)、神の愛がもたらす甘美な喜びを味わうこともなくなり、ついには、善を行う熱意も失ってしまうのです。信仰者にも、つねにこの誘惑に陥る危険性が確かにあります」

兄と父親との会話において[19]、父親の優しさとその対極にある兄の頑なな心が目に留まります。兄の返事から、彼が父の家にいる喜びを失ってしまっていたことが読み取れます。ですから、弟の帰りを喜ぶ父と共に喜ぶことが出来なかったのです。弟と父親の失敗にだけを目に留め、それを咎めるだけでした。「内的生活が自己の関心のみに閉ざされていると、もはや他者に関心を示さなくなり(...)、神の愛がもたらす甘美な喜びを味わうこともなくなり、ついには、善を行う熱意も失ってしまうのです。信仰者にも、つねにこの誘惑に陥る危険性が確かにあります」[20]

父親もその頑なさに驚き、息子の心を和らげようとします。自分のもとに留まっていたにも関わらず、兄も、はっきりとした自覚なしに、実のところ弟のように軽薄で自己中心的な生き方をしたかったことが兄の態度から読み取れます。 それは、弟に比べてより〈理性的〉で、気づきにくいもので、場合によってはより危険なものでした。父親は説明します。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなったのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」[21]。彼は父親の強さと母親の優しさでたしなめます。「わが子よ、喜ぶのは当たり前ではないか」と言い、息子の心に問いかけます。「兄も父親のいつくしみに気づく必要があります」[22]。彼も父の家を懐かしさをもって思い、そこで私たちの帰りを待ちわびる父の優しさに気づく必要があるのです。

救いの喜びを取り戻す

「あなたに、あなたのみにわたしは罪をおかし、御目に悪事と見られることをしました」[23]。罪に関することについて世を納得させる聖霊こそ[24]、この懐かしさとこの不快感を示してくださる御方です。それは単なる内的な不安ではありません。こ傷の源はもっと深い所にあります。神から遠ざかり、主を一人だけにしてしまったのです。そして、私たちは一人ぼっちになり、In multa defluximus[25] 、多くの事に流されると聖アウグスティヌスは言います。神から離れるといろいろなことで散漫になり、家は荒れ果ててしまいます[26]。聖霊は、罪を赦すことのできる唯一の神に、心を向けさせる御方です[27]。神の霊は、創造の初めから水の面を動いていたように[28]、今は人々の心に働きかけておられます。聖霊は、罪人の女性を無言でイエスに近づかせます。そして神は慈しんで彼女を迎え入れますが、会食者たちには、涙と香水と髪、それらが何を意味するのかが分かりません[29]。イエスは、彼女について、多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる、と仰せになりました[30]

神の家を懐かしむことは、神の近しさとその慈しみに思いを向けるとです。ですから、「繊細で、犠牲をいとわぬ寛大な愛で、人間的にも神的にも心の痛みを感じ」[31] ることができるようになります。私たちが弟のように御父のひざ元まで近寄るなら、私たちの傷をいやす薬は主なる神であることが納得できるでしょう。そのとき〈三番目の子〉であるイエスと出会います。イエスが私たちの足を洗うのです。イエスが私たちのためにしもべになられるのです。

主は、「『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になる』(フィリピ2・6ー7)かたです。しもべであるこの息子こそ、イエスです。イエスは、御父の広げられた両腕と心です。イエスは放蕩息子を迎え入れ、その汚れた足を洗い、ゆるしの祝宴を準備しました」[32]

Cor mundum crea in me、「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」[33]。この詩編は幾度も心の清さに関して述べます[34]。これは完璧主義とか小心とかの問題ではありません。「キリスト信者は汚点のない経歴書の収集狂ではない」[35] からです。愛の問題です。後悔する罪人は、心を治癒し神と共に生きる喜びを取り戻すために、手段を講じる心づもりを持っています。Redde mihi Laetitiam salutaris tui, 「御救いの喜びを再び私に味わわせてください」[36]。物事をこのような観点から捉えると、告解は、一種の事務手続きのような冷たいものではないことが納得できるでしょう。「次のように自問したらよいでしょう。ゆるしの秘跡にあずかった後、わたしは喜んでいるだろうか。それとも、すぐに次の用事に向かうだろうか。医師のところに行って検査の結果が悪くなかったことを聞いたとき、その結果をすぐに封筒にしまって次の用事に移っていないだろうか」[37]

喜ぶのはその価値を知っているからで、その人はゆるしを受けたことに感謝します。そして、償いは単に正義を取り戻す手段以上のものであることを理解します。償いは、「主よ、あなたに背き、罪を犯しました」と言う言葉を行動で表す必要を感じる心の要求です。それで聖ホセマリアは皆に「償いの精神」[38] を持つよう勧めていました。「打ち砕かれ悔いる心」[39] があれば、継続的に、立ち戻り、和解する必要があることが分かります。愛を増し、深める手段は、愛自体です。「愛には愛で応えるべきだ」[40]。それゆえ、償いとは、神と人々を悲しませ苦しめたすべてのことを償いたいと望む愛です。それは「変わったことをすることではなく」[41]、大げさではない、喜びを伴うものです。これが、ゆるしを与えた後に、司祭が告白者を送り出すときの言葉の意味です。聴罪司祭は言います「あなたの善い行いとあなたが苦しむ悪が、罪の償いとして役立ちますように」。さらに「償いを果たすために、人生はなんと短いことか」[42]。人生とは喜びを伴った痛悔を生きることです。苦悶や小心に陥らずに、神を身を委ねて痛悔することです。cor contritum et humiliatum, Deus, non despicies 、「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」[43]


[1] 詩篇51(50)・3

[2] De Spiritu 111番参照:「夜パドレは、就寝前にひれ伏してミゼレーレを唱える。出来ないことがあったら、息子の一人がパドレに代わって唱える」

[3] フランシスコ、2016年6月2日司祭年における一番目の説教

[4] 聖ヨハネ・パウロ二世、2001年10月24日一般謁見演説

[5] 2サムエル11・2〜参照

[6] 2サムエル12・2-4参照

[7] 2サムエル12・3

[8] 1ヨハネ3・20

[9] ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』260番

[10] ホセマリア・エスクリバー『知識の香』57番

[11] フランシスコ、2015年12月24日説教参照

[12] ルカ23・34

[13] マタイ26・75

[14] ヨセフ・ラッティンガー枢機卿、2005年4月18日教皇選出のためのミサの説教

[15] ホセマリア・エスクリバー『知識の香』64番

[16] フランシスコ、2016年6月2日司祭年における一番目の説教

[17] イザヤ29・13、 マタイ15・8参照

[18] フランシスコ、2016年5月11日一般謁見演説

[19] ルカ15・28-32参照

[20] フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』2番

[21] ルカ15・32

[22] フランシスコ、2016年5月11日一般謁見演説

[23] 詩編51(50)・6

[24] ヨハネ16・8参照。聖ヨハネ・パウロ二世は、このイエスの言葉を、回勅「聖霊―生命の与え主」(1986年5月18日)27ー48番において深く黙想し、このように解釈している

[25] 聖アウグスティヌス、『告白』10巻29章、40

[26] マタイ23・38参照

[27] ルカ7・48参照

[28] 創世記1・2参照

[29] ルカ7・36-50参照

[30] ルカ7・47参照

[31] ホセマリア・エスクリバー『神の朋友』232番

[32] フランシスコ、2016年3月6日「お告げの祈り」でのことば

[33] 詩篇51(50)・12

[34] 詩篇51(50)・4、9、11、12、19参照

[35] ホセマリア・エスクリバー『知識の香』75番

[36] 詩篇51・14

[37] フランシスコ、2016年3月24日説教

[38] ホセマリア・エスクリバー『鍛』784番参照。師は『神の朋友』138-140番で、償いの精神とその具体的な現れについて説明している

[39] 詩篇51・19

[40] ホセマリア・エスクリバー『鍛』442番

[41] ホセマリア・エスクリバー『鍛』60番

[42] ホセマリア・エスクリバー、十字架の道行、第7留

[43] 詩篇51・19