多くの人が、その教えと奇跡に心動かされ、主に従うことを決心し、主について回りました。一人ひとりの心に秘められたその訳を知ることはできません。ある人たちは、主と共にいることを喜び、主から離れたくなかったでしょう。また、単に好奇心からついていった人もいたでしょう。また、あまり正しくない意向で、自身の利益のため、イエスの力を利用しようとしていた人もいたかも知れません。いずれにしても、イエスは彼らに、ご自分に従うことの意味を説明されます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・26)。そして加えられます。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではあり得ない」(ルカ14・33)。
キリストは、家族との関わりや物的な善を拒むよう望んだのではありません。それらは全て、神ご自身が私たちにくださったものですから。事実イエスは、人性をお取りになった最初から、生涯の大半を家庭で過ごし、地上の諸々の善を必要とし、喜んでそれをお使いになりました。むしろ、キリストが強調されたのは、あらゆる事柄を超えて、主を中心にして生活するようにということです。この世の現実は私たちの人生の中心となるべきではなく、私たちの確実性と完全な幸せは、キリストにあるのです。私たちが主の弟子になることを決心したとき、家族とこの世の善との関わりも新たな光を受け、超自然的な輝きを帯びるようになりました。
聖ホセマリアが言っています。「徹底的に離脱した寛大な心を、主はお望みです。自分をとりこにしている太い綱や細い糸を完全に断ち切るなら、主のお望みに応えることができます。そうするためには自己の判断と意志を捨てる絶え間ない戦いが必要になりますが」[1]。その結果として、愛情や物的善の本来の素晴らしさを味わうことができるようになるのです。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ14・27)。イエスは、そのご生涯を通して、徐々にご自分のアイデンティティをお示しになりましたが、それは、弟子にもお望みになったアイデンティティです。人間にもたらそうとしておられた解放は、多くの人々が考えていたような、当時の為政者たちに対する反抗的なものではありません。主は、それとは全く逆で、十字架の死に至る道を進まれたのです。その弟子になるには、十字架を背負うことだと聞いた人々が驚いたのは、無理もありません。ローマ帝国の最も残虐な刑は、十字架刑だったからです。それは追放された人に科す刑でした。おそらく彼らは、解放と十字架は相反するものだと考えていたことでしょう。彼らは「勝利と死がどうして両立し得るのか」と、尋ねたかったでしょう。しかし「十字架なしに、贖い主イエス・キリストを理解することはできません。偉大な預言者であり、善業を行う聖なる方だと言うことはできます。しかし、十字架なしの贖い主キリストは考えられません」[2]。
それゆえ、イエスは、一歩一歩ゆっくりと、人々の心を準備して行かれました。それは、十字架上の死を、敗北ではなく、勝利であると考えるようにするためです。人が遭遇する種々の困難は、避け得ない不幸ではなく、人となられた神に一致する道であることを彼らが理解するためです。キリストは弟子たちに、迫害や災害に苦しむであろうことを伝えます。「しかし、十字架の勝利の希望のうちに堅忍することで、心はいつも固い基盤を見出し、主の変わらぬ現存のうちに真の平和を持つことができます。主は、あらゆることの真の目的であり、その助けは決して途絶えることがありません」[3]。
これらの困難を通して、イエスは「私たちが自分の十字架をとって、ご自分の救いへの道の同伴者になり、キレネ人になって十字架を運ぶ主を手伝えるよう訓練されるのです。私たちキリスト信者の生活は、それなしにはあり得ないのです」[4]。聖ホセマリアは述べました。「十字架を胸に?…よいことである。しかし…、十字架は肩にも、十字架は体にも、十字架は知性にも掛けておいてほしい。そうすれば、キリストによって、キリストと共に、そしてキリストにおいて、生きることができるだろう。実は、そうなってはじめてあなたは使徒になるのである」[5]。十字架には、すでに復活と新たないのちの兆しがありました。私たちの人生の最も暗い時期にも、同じ論理があてはまります。そんな時には、主に光を願い、暗闇を追い払ってもらいましょう。すると、輝かしく落ち着いた日を予告する、暁が訪れるでしょう。
「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しない者がいるだろうか」(ルカ14・28)。このイエスの言葉は常識的です。何かを企画したら、落ち着いて状況を勘案します。これを成功させるには、どんな手段があるか?難点は?と考えます。主は聴衆を力づけ、特に従いたい人にこの同じ質問を投げかけます。弟子の特徴を二つ──離脱と十字架への愛──示した後で、イエスは、この道を歩む心づもりがあるかどうかを、個人的に勘案することをお望みです。主は、決心する前に、何に信頼することができるか、何を確実性の基盤にしてはならないかを、明確に把握しているよう望まれるのです。十字架の聖ヨハネが言っています。「このことを、神について知るための第一歩にすべきです」[6]。
良心の糾明において、自分の生活と主の生活、今の自分となりたい自分、自己の現実理解と主のものの見方とを照らし合わせます。主のものの見方は、いつも無限の慈しみに満ちており、ご自分の愛と助けを与えたいと望んでおられます。主は、私たちが間違いを犯さない人になることよりも、「真の献身──行い──で神への愛を燃え立たせる」[7]人になることをお望みです。神は絶えず私たちを赦し、私たちが聖霊と共に、聖性という〈塔〉の建設において、改めて再出発できるようにしてくださいます。この〈塔〉は、人間的な建築物とは異なり、私たちの力だけで建てることができず、聖霊の力が必要です。さらに私たちには、いつも天国から助けてくれる数限りない助け手があります。「以前は一人だったからできなかった。今は、聖母に助けを願ってマリアと一緒だから、なんと容易にできることか」[8]。
[1] 聖ホセマリア『神の朋友』115。
[2] フランシスコ、説教、2014年9月26日。
[3] ベネディクト十六世、「お告げの祈り」でのことば、2012年11月18日。
[4] フランシスコ、説教、2014年9月26日。
[5] 聖ホセマリア『道』929番。
[6] 十字架の聖ヨハネ『霊の賛歌』4,1。
[7] 福者アルバロ・デル・ポルティーリョ、1976年12月8日手紙、8番。
[8] 聖ホセマリア『道』513番。
