愛から生まれる何か大きな事(1)イエスは私たちに先んじて出迎えに来てくださる

第一回目は、「愛から生まれる何か大きな事」と題された、召し出しの識別に関する記事です。一人ひとりの人間は、自らの人生のために神がお立てになった計画を発見するよう招かれています。

Opus Dei - 愛から生まれる何か大きな事(1)イエスは私たちに先んじて出迎えに来てくださる

2018年10月の間、教皇フランシスコの呼び掛けで、「若者、信仰、そして召命の識別」をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)の通常総会がローマで催されました。若者たちにこのイベントを紹介する書簡で、教皇様は最初の弟子たちの主イエスとの出会いを思い出させてくださっています。弟子たちと同じように、「イエスは皆さんをご覧になって、ご自分に付いて来るように招いておられます。親愛なる若者の皆さん、皆さんに向けられたイエスの眼差しに気付いたことはありませんか。その声を聴いたことはありませんか。この旅を始めたいという気持ちになったことはないのでしょうか。[1]

「騒音や困惑がこの世界に蔓延している今日、イエスとの個人的な出会いは難しくなることがあります。しかし、「一人ひとりが自ら心を完全な喜びに開くようにこの呼び声が皆さんの心の奥に響き続いているのです。「経験ある指導者」に導かれながら、「皆さんが自分の人生における神のご計画を発見する道を歩み出すことで、その呼び声に応えることが可能になるでしょう[2]、と教皇は書いておられます。本稿から始まる一連の記事はその手助けをするために考えられました。イエスの初代の弟子たち、教皇や聖人たちの教え、聖ホセマリアに導かれて、この不変の真理について深めることができるはずです。即ち、神は今も呼んでおられということ、神は「一人ひとりのために具体的なご計画をお持ちです、それが《聖性》です」[3]。 聖ホセマリアはわずか16歳の若さで、自分の心が「愛から生まれる何か偉大な事」を求め始めたことについて、度々語っていました[4]。愛は常に若く、常に驚かせる力を持っているので、私たちも、「愛から生まれる何か偉大な事を発見したいものです。

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「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ(〈先生〉という意味)どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(ヨハネ1、35-39)。福音書の主人公たちが感動を隠し切れず、この一場面を生き生きとした思い出として語り継いだのでしょう。彼らの人生の中の最も重要な瞬間、つまりナザレのイエスと初めてお会いした日だったからです。

キリストとの出会いは信者にとって決定的な体験

「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ(〈先生〉という意味)どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(ヨハネ1、35-39)。福音書の主人公たちが感動を隠し切れず、この一場面を生き生きとした思い出として語り継いだのでしょう。彼らの人生の中の最も重要な瞬間、つまりナザレのイエスと初めてお会いした日だったからです。

私にとってイエスはどのような方でしょうか。そしてイエスにとって私はどのような人間でしょうか。

第四福音書は若きヨハネを簡潔に紹介してくれます。彼は「イエスに愛された弟子」でした。年が経つに連れて、この確信が消えることなく、むしろ強まっていく一方でした。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛した(…)、ここに愛があります」(1ヨハネ4、10)。主が自分を愛してくださっているという確信があってこそ、幅広く多数の人に伝えた根深い喜びを晩年までヨハネは保つことができたのです。ヨハネによる福音書から溢れ出てくる同じ喜びです。全てはあの日、ヨルダン川の辺りで始まったのです。

さて私たちの場合、あの若き弟子と同様に、心を引き付けるような暖かみのあるこのような出会いはありましたか。私たちが幼い頃からキリスト者であり、一生を通じて祈りをしてきたとしても、一旦足を止めて考えるべきです。「私にとってイエス・キリストはいったいどのような方ですか。今日、今、イエス・キリストは私の実人生においてどのような意味があり、どのような位置付けにありますか」。これを考察することで、私たちの信仰を測ることができるでしょう。「しかし、この質問より先にすべき、離し切れず、より重要なもう一つの質問があります。つまり、イエス・キリストにとって私はどのような人ですか」[7]。

 このような質問に対して、多少驚いてもおかしくありません。「イエス・キリストにとって私はどのような人か?私はいったい誰?ちっぽけな被造物か?進化の結果なのか?神の掟を守らなければならぬもう一人の人間に過ぎないのか?イエスが私をどのように見ているか?…」。このような疑問の時、聖人たちに目を向ければいいでしょう。ある時、聖ヨハネ・パウロ二世が似たような質問に対してこう答えました。「あなたは神のひとつの考え、神の心のひとつの鼓動です。こう言うことは、つまり、あなたには価値があり、しかもある意味で無限の価値があり、神にとって大切な二つとない個人なのです。聖ヨハネ・パウロ二世は、全ての聖人と同じく、神にとって私たちがどれだけ大切な存在であるかを理解していました。私たちはちっぽけな被造物であっても、神のわがままを満たすためにこの世に置かれた僕ではなく、真の友です。わたしたちのことを心に掛け、一生を通じてわたしたちに付き添ってくださるのです。

これは大げさに言っているのではありません。イエス様ご自身が弟子たちに次のように言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(中略)あなたがたは私の友である。(中略)私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことを全てあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15、13-15)。これは現代的な言葉です。イエス・キリストは「生きておられ、今あなたたちに向かっておっしゃいます。聞き入れる心構えをして、この声に耳を傾けてください。あなたたち一人ひとりにおっしゃりたいことがあるのです」[9]。それでは、イエス・キリストにとって私はどのような存在ですか。私は、最大の愛をもって愛してくださるイエスの友であり、聖心の鼓動です。イエス・キリストにとっては、これが私なのです。ところで、私にとってイエス・キリストはどのような方でしょうか。

キリストを探し求めるように!

1933年5月29日、建築学部の学生が初めて聖ホセマリアとの霊的指導を受けに行きました。名前はリカルド・フェルナンデス・バリェレスピン。何年も経ってから彼は当時の出会いを次のように思い出していました。「パドレは私の霊魂について話してくださいました。助言などを通して、より良い人になるようにと促してくれました。視覚的記憶でまだはっきりと覚えています。別れる前に、パドレが立ち上がり、本棚に近づいて、神父様が使っておられた本を一冊取り出されました。そして、最初のページに献辞として次の文章を書いてくださったのです。『あなたがキリストを求め、キリストに出会い、キリストを愛するように』」[10]、二人の間のあの短い会話も、聖ホセマリアは最も重要なこと、つまり主との個人的な出会いから始ることを望んだのでした。
《キリストを探し求め、キリストに出会い、キリストを愛しなさい。》

弟子ヨハネは、何を求めているかはっきりと分からないまま、キリストを求め始めました。自分の心を満たす何か、ということしか分かっていませんでした。永遠の命へ飢えがあったので、仕事のために、あるいは金儲けのために生きること、他の人々と同じ生活を送ること、自分の生まれた村の外へと目を向けない人生、このような生き方はすべて何となく物足りなく感じていました。落ち着かない心を満たしたかったのです。そのために、洗礼者に付いていきました。ちょうどその時、洗礼者の側にいる時に、イエスが近くを通りかかります。そして洗礼者が「これは神の小羊である」と示してくれた時、ヨハネとその友人アンドレアが「それを聞いて、イエスに従った」のです(ヨハネ1、37)。

あなたがキリストに出会うように!

ヨハネとアンドレアが初めて主の後を追った時、彼らは少しばかり恥ずかしい思いをしたかもしれません。イエスの後を追いましたが、どのように声をかけるべきか、簡単なことではありませんでした。誰かを捕まえて「あなたは神の子羊ですか?」と聞くことは、少し変なことだったからです。しかし、洗礼者ヨハネからイエス様について聞いていたのは、イエスが「神の小羊」であることだけでした。もしかしたらイエスが彼らに「何を探しているのか?(ヨハネ1、38)と聞かれた時、何と答えればよいか分からなかったかもしれません。

主は若者の心、落ち着きのない心に感動されます。それゆえ、私たちが主を誠実に探すなら、主ご自身が、考えられないような遣りかたで、偶然出会ったようなふりをして私たちの近くに来てくださいます。聖ホセマリアは主との「はじめての」思わぬ出会いをいつも思い出していました。それは彼がまだ少年で、様々な夢や理想を心に抱いていた頃でした。大雪が街を真っ白に包んだ日のこと、家から街に出ると、積もったばかり雪の上に残された裸足の足跡を見つけます。その不思議な足跡に驚くとともに心惹かれました。足跡を追うとそれは修道院の入り口まで続いていました。その足跡はホセエリアの心を大きく動かします。「もし他の人が神と人々のためにこのような大きな犠牲を払うことができるなら、僕も神と人のために何かできるのではないだろうか[13]。

その日、足跡にイエスの跡を見た少年ホセマリアはヨハネやアンドレアと同じように主の後に従うことにしたのでした。もしかしたら他にも足跡を見た人がいたかもしれません。しかし少年ホセマリアは、あの足跡に「イエスが彼の人生に入り込みたいとお望みであることの確かな印を見たのでした。その後、聖ホセマリアのとった行動は、イエスの最初の弟子たちのとった行動と似ています。「彼らが、『ラビ(〈先生〉という意味)どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。(…)そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである」(ヨハネ1、38-39)。

自分が誰かに愛されていることに気づいた時、私を愛してくれる人のことをよく知りたいという強い望みが湧いてきます。誰かが自分のために親友のように尽くしてくれた時、その人がどのような人なのか知りたいと私たちは望みます。私たちのことをいつも心に留め、私たちを待っている方がいることに気づくこと。そしてその方は私たちの心の奥底にある熱望を満たす方であることに気づくこと。これらのことは、その方を探すよう私たちを仕向けます。神はホセマリアがあの足跡を見ることによって自分自身の内に〈深く根を下ろしていた〉、ある〈神的な不安〉に気づくようにと望まれたのです。その結果内的な刷新が実現し、「よりいっそう深い信仰生活営む決心する」[14]ための足がかりとなりました。イエスを探し求め、出会うことは「出発点」に過ぎません。友達として付き合い始めたばかりなのです。福音書を読み、ミサに与り、聖体拝領において主と親しく交わり、助けを必要としている人の中におられる主を大切にすることによって、主をより深く知るように努めましょう。そして友達と、喜び・悲しみ・将来の希望・失敗を分かち合い、その分かち合いにおいてイエスを他の人に伝えるよう努めましょう。なぜなら、結局祈るとは「主と友達のように付き合うと、私達を愛している方と頻繁に一対一で付き合うこと」[15]だからです。あの日、丸一日イエスと共にいたヨハネとアンドレアと同じように。

あなたがイエスを愛するように!

イエスと出会ったあの日、若きヨハネの人生は変わりました。もちろん、その後の人生においても沢山のことがありました。奇跡の大漁をはじめ、イエスとパレスチナを巡ったこと。多数の奇跡や心を喜びで満たす主の話、病人・貧しい人・軽蔑された人への主の愛情のこもった仕草…。しかし、何より先生と二人きりで語り合ったこと。あの日の夕方、ヨルダン川の辺りで始まった主との対話は、生涯に渡り続きました。

友人との関係は私達を変える。そしてついには同じことを望むようになる。

個人的な経験からも言えますが、友情は私たちを変えます。それゆえ、当然ながら、親は自分の子がどのような友達を持っているのかについては常に関心を持って注意しています。気づかないうちに友情は私たちを変え、友と同じものを望み、同じものを拒むようになります。友情は二人を緊密に結びつけるので、二つの体でひとつの魂を支えているかのようです。[16]

このような意味、あの若い使徒の変化は際立ったものでした。彼と兄弟ヤコブは「雷の子ら」(マルコ3、17)と呼ばれていました。福音書を読めば、このあだ名は大げさではなかったことが分かります。例えば、サマリア人たちがイエスと弟子たちが宿泊することを断った時、兄弟は先生に言いました。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか(ルカ9、54)。しかしイエスと時間を共にし、友情を育むに従い、イエスのように愛し、理解し、許すことを学んだのです。

同じことが私たちにも言えます。イエスとの出会い、イエスとの付き合いは、私たちに変化を引き起こします。主のように愛することを学び始めます。私達たちが主と同じ望みを持ち始めても驚くことはありません。その時は、主に感謝すべきです。主は私たちを通して主の愛を世界に伝えたいとお思いなのです。聖ホセマリアにも同じことが起こりました。あの雪の上の足跡を見て、自分が使命を持っていることをしっかり確信したのでした。「心に愛を感じ始めました。私の心は愛から生まれる何か偉大なものを求め始めたのです」[17]。私達も同じです。心に訴えるものの中にイエスの呼びかけが聞こえてきます。「私に従いなさい!」。

人生の全てにおいてキリストと共に生きる

過去を振り返っても、ヨハネはイエスに従うこと以外の望見はなかったことでしょう。このように神は私たち一人ひとりに働きかけます。「イエスの崇高な愛は、私たちが偉大な理想、より完全なものを目指すよう駆り立てます。愛は高みを目指し、低俗な状態に成り下がることを拒否するからです」[18]。イエスがこの世においでになったときから、ヨハネをはじめ、ペトロ、ヤコブ、パウロ、バルトロマイ、マグダラのマリア、そして大勢の人が、イエスの愛に駆り立てられ、動かされました。

イエスは今も二千年前と同じように私たちと共におられます。それどころか、イエスは当時よりさらに私たちの近くにおられます。私たちひとり一人の内に生きることがおできになるからです。私たちは、イエスが御父から授かった使命を共にはたすというよりは、むしろは私たち一人ひとりの生き方を通して、私たちひとり一人の中から、愛したいとお望みなのです。憎悪を愛に、利己主義を奉仕に、諍いを許しに変えるため、世界が主と和解するため、イエスは私達を通して働きたいとお望みなのです。だから、私たちにおっしゃいます。「私の愛にとどまりなさい」(ヨハネ15、9)と。

主の愛を発見したあの若い使徒は、十字架においても主の元を離れませんでした。その後、他の使徒たちと共にその人生の全てを決定づける使命が与えられます。「全世界に行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝えなさい(マルコ16、15)。 私たちも不安な心の声に耳を傾けるなら、イエスを探すなら、主と出会い主に従うなら、主の友であるなら、主が私たちの協力を期待されていることに気づくでしょう。一人ひとりにできる形で、教会の中で主の手助けをするようにと招かれることでしょう。真の友として私たちを愛してくださっているので、心に火を灯して夢中にさせるプロジェクトを共に実しようと提案なさるのです。「今日、道である御方イエスはあなたが歴史に跡を残す人物となるようにあなたに呼びかけています。命である御方は、あなたと多くの人の人生物語を充実させる跡を残すようにあなたに勧めてくださいます。真理である御方は、あなたが個人主義、分断、無意味な人生から離れるようにあなたを招いています。あなたも一緒に挑戦してみませんか」[19]。

Borja Armada


[1] 教皇フランシスコの若者への手紙 世界代表司教会議(シノドス)第 15 回通常総会準備文書発表に際して(2017 年 1 月 13 日)

[2]

[3] F. オカリス、2018年8月5日アルゼンチンでの若者との集いのメモ

[4] A. バスケス・デ・プラダ、オプス・デイの創立者、vol. I, p. 97.

[5] ベネディクト16世、2005年12月25日回勅『神は愛』1

[6] 教皇フランシスコ、2013年11月24日使徒的勧告『福音の喜び』n. 3.

[7] AGP, Biblioteca, P03, 2017, p. 146.

[8] 聖ヨハネ・パウロ2世、2001年11月23日カザフスタンの若者への演説

[9] ベネディクト16世、2006年8月2日一般謁見

[10] Camino, edición crítico-histórica, comentario al n. 382.

[11] 『知識の香』1番

[12] 『神の朋友』300番

[13] A. バスケス・デ・プラダ、オプス・デイの創立者、vol. I, p. 96.

[14]

[15] イエスの聖テレジア『イエズスの聖テレジア自叙伝』8, 2

[16] San Gregorio Nacianceno, Sermón 43.

[17] A. バスケス・デ・プラダ、オプス・デイの創立者、vol. I, p. 97

[18] トマス・ア・ケンピス、『キリストに倣いて』(イミタツィオ・クリスティ)III, 5

[19] 教皇フランシスコ、2016年7月30日 WYD(ワールドユースデー)クラクフ大会、祈りの前夜祭