エキュメニズム

すべてのキリスト者に共通している点はとても多いのです。しかし、いまだに残っている分裂は、教会の体の傷です。キリスト教一致祈祷週間にあたり、エキュメニズムに関する記事を掲載します。

ヨハネ・パウロ二世は、回勅「キリスト者の一致」で教会一致運動の中心点をこう指摘しておられます。「キリスト教一致のための運動は、『附録』のようなものではありません。教会の伝統的な活動に何かを付け足すといったものではないのです。それどころか、エキュメニズムはもともと教会の生活と活動の一部であり、その全てに浸透していなければなりません。」[1]ベネディクト十六世も、同じように、主の弟子たちの一致を再建することを熱望しておられます。「そこで私は、登位の初めに表明した固い望みを(…)新たにします。キリストに従う全ての人々の一致を、完全に見える形で再建することを最優先課題にすることです。」[2]一致のためのこの心遣いは、全てのカトリック信者に関わりがあることです。キリスト者の根本的な望みは,全ての人がキリストによって建てられた唯一の教会の成員として神と交わることです。主が「すべての人を一つにしてください」[3]と祈られたのですから。そして、キリストの唯一の教会は、『教会憲章』が教えるように[4]、カトリック教会のうちに存在する(subsistit in)のです。

キリスト者間の一致を達成するには、まずキリストの祈りに一致して祈ることです。主は「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにもお願いします」[5]、また「私たちが一つであるように、彼らも一つになるためです。私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」[6]と祈られました。ベネディクト十六世は言われます。「私たちの力だけで一致を『もたらす』ことはできません。それはただ聖霊の賜として頂くことができるのです。それゆえ、霊的エキュメニズム、つまり祈り、回心、そして生活の聖化こそが、エキュメニカルな出会いと運動の中心なのです。」[7]オプス・デイの全ての信者は毎日プレチェスの中で、主と同じ言葉で願います。「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるようにすべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください」。一致を推進する望みに促されて、創立者は一人ひとりのキリスト信者を次のように励ましています。「祈りと償いと行いを『皆が一つとなるように』という目的のために捧げなさい。全てのキリスト者が一つの意志、一つの心、一つの精神を持つため、また、皆がペトロと共にマリアを通ってイエスヘ、すなわち私たち皆が教皇と一致して、マリアを通ってイエスのもとへ行くためである。」

分裂のドラマ

今の時一《教会の時》と相応しく呼ばれているこの時一におけるイエス・キリストの現存である教会の使命は、信仰を守り人間の共同体間に一致を築き上げることです。ヨハネ・パウロ二世はこう忠告されました。「忘れてはならないのは、主が御父に祈ったこと、ご自分の弟子たちがひとつとなり、その一致がご自分の宣教のあかしとなるように、祈ったことです。」[9]事実、イエスはこの緊密な一致の目的を、「あなたが私をお遣わしになったことを、世が信じるためです」[10]と明示されました。分裂はキリストの御旨に反することであり、福音宣教の確かな障害になっています。事実「キリスト教徒の間に一致が欠けていることは、教会にとっては確かに痛手です。しかしそれは、教会が一致を失ったという意味ではなく、その分裂が歴史における教会の普遍性の完全な成就にとって障害となっているという意味なのです。」[11]

しかし、歴史の変遷の中で、キリスト者の間で、時には双方の人々に過失がなかったわけではない不一致や分離が起こりました[12]。それゆえ、ヨハネ・パウロ二世は全信者に次のように呼びかけられたのです。「過去の記憶を洗い清め、自分たちの痛ましい過去を共に再検討することが必要です。それは、あの嘆かわしい分裂の初めには犯した間違いがあり、偶然の要因が働いたことを、誠実に、あくまでも客観的に共に認めるためです。」[13]しかし、現在そのような諸教会や諸共同体に所属している人に、『エキュメニズムに関する教令』が強調するように[14]、過去の分離の責任を負わせることはできません。彼らは教会に愛されたものであり、兄弟として認められているのです。

共通の遺産

全てのキリスト者は多くのことを共有しています。聖書、恩寵の生活と諸徳、共通の祈りと他の霊的な恵み[15]、さらには「聖霊が支えるある種の真のきずなさえもある。すなわち聖霊は、彼らのうちにもたまものと恵みによって聖とする力を働かせ、またある人々を自分の血を流すところまで強めたのであった。」[16]何よりも、共通の遺産である洗礼によってキリストに接ぎ木されている、カトリックと他のキリスト者の間には特別なつながりがあります。全てのキリスト者は洗礼の水によって生まれるのです。第二バチカン公会議が『エキュメニズムに関する教令』で教えているように「事実、キリストを信仰し、洗礼を正しく受けた人々は、たとえ完全ではなくても、カトリックク教会とのある交わりの中にいる」[17]のです。ベネディクト十六世は言っておられます。「キリスト者間の兄弟愛は、単に感情的で空しいものでも、また真理を度外視したものでもありません。(…)唯一の洗礼という超自然的な事実に基づいたものです。この洗礼を受けた人は皆キリストの唯一の体に接ぎ木されています(1コリント12,13;ガラテヤ3,28;コロサイ2,12参照)。共にイエス・キリストは神であり主であると告白し、神と人間の間の唯一の仲介者であると認め(1テモテ2,5参照)、主に属しているという共通項を強調しています(『エキュメニズムに関する教令』22;『キリスト者の一致』42参照)。キリストに由来する洗礼という本質的なベースから出発して、存在において、また告白において、そして信じ行動することにおいて、対話が実を結びましたし、これからもそれが続くことでしよう。[18]

この共通の宝を共有しているという自覚が、エキュメニズムの基盤となります。なぜなら、カトリック以外のキリスト教諸宗派を特に肯定的に考えることを助け、皆が《キリスト者である》という喜びのうちに交わるようにさせるからです。それゆえ、「カトリック信者は、共通の遺産から生じた真にキリスト教的な富であって、我々から別れた兄弟のもとに見出されるものを喜んで認め尊重しなければならない」[19]のです。この価値を認めることは非常に大切です。それは、カトリック以外のこの兄弟たちを尊敬し、特別な愛徳を実行することになります。このイエス・キリストへの共通の信仰に基づくことによって、彼らへの愛情が特別なものになります。

信者でもなくキリスト教徒でもない人々の場合は別です。キリスト教徒でない人々とは、エキュメニズムとは異なる《諸宗教間》の対話が始まるはずです。出発点が根本的に違うからです。この範疇の中で独自の場を占めるのが、キリスト者とへプライ人の関係です。ヨハネ・パウロ二世が私たちの「年長の兄弟たち」[20]と言われへブライ人は、新約の神の民である私たちと霊的に一致しています。「ヘプライ人を深く愛しています」[21]と叫んだ聖ホセマリアの思いを共有する理由がたくさんあります。

エキユメニズムと改宗:つながりと多様性

第二バチカン公会議が教えるように「エキュメニカル運動とは、教会の種々の必要と時宜に応じて、キリスト者の一致を促進するために奨励され組織される活動と企て」[22]です。エキュメニカル運動は、個人よりも共同体を対象にし、団体的なものであることを特徴とします。種々の教会とキリスト教共同体ができるだけ早く外面的にも一致して、全面的な交わりに至るように働きかけます。キリスト者であるという一致点から出発します。同時にそれぞれの信仰告白は独自なものであるべきです。自己のアイデンティティをしっかり把握することで初めて対話が可能になるからです。

エキュメニカルな熱意がキリスト教諸宗派との間で行われる活動で表されるとしても、それだけに留まるものではありません。というのも、全キリスト者の個人的な責任でもあるからです。単に専門家の仕事ではないし、普段の生活からかけ離れたことでもありません。それは「信仰が照らし、愛が導くキリスト教の良心に従い、その命令として」[23]あるものです。エキュメニズムとは、端的に言って、キリスト者としての生活の一側面なのです。例えば、「分かたれた兄弟の状態に公正と審理に基づいて対応していないため、彼らとの相互関係を困難にしている言葉、判断、行動を根絶する」[24]ため、私たち皆が努力すべきです。

しかし、何よりも、洗礼を受けた人々の間の対話は、この再生の秘跡が皆に望み、最終的にそうなることを目指している《善いキリスト者になる》という意識を高めることから始めることです。別の言い方をすれば、正教徒、英国国教会、またはプロテスタントの人との出会いは、先ず各人がより徹底したキリスト者の生活をしよう、あるいは信仰生活を実行していないなら、先ずそれを再開しようという思いを起こさせるはずです。何よりもまず、キリストにおける《新たな命》を生きるようにと招かれた洗礼の宝を共有していることを考える必要があります。全てのキリスト信者は聖性に招かれています[25]。「全てのキリスト者は、福音に従ってより清い生活を送るように努カすれば、よりよくキリスト者の一致を促進し、実現することを忘れてはならない。事実、彼らが父とみことばと聖霊との交わりに、より密接に結ばれれば、より容易に相互の兄弟愛を深めることができる。」[26]

この考察に基づくと、神が聖ホセマリアに託されたメッセージとそれを広める魅力がはっきり分かります。その子供である私たちには、エキュメニカルな働きをする可能性がたくさんあるのです。それと同時に「他のキリスト者たちのもとにある宝が、カトリックの人々の向上に貢献しうる」[27]ことも事実です。こうして、自分自身の個人的な回心に招かれていることを感じるようになるでしょう。キリスト教の信仰と愛を真実に証しするには、あらゆることにおいて最高度の献身が求められるからです。

他のキリスト者との関わりにおいては、もう一つの取り組みが考えられます。それは『エキュメニズムに関する教令』で言われているように、「カトリックとの完全な交わりを望む個人の準備と和解の努力」[28]です。つまりカトリックになりたい人の面倒を見ることです。教令に言われているように、エキュメニズム運動とこの個人的な世話とを区別することが必要です。エキュメニズムは、教会と教会の共同体とがそれぞれの姿のままに、見える形での制度上の完全な一致を目的にしています。しかし、この場合は、具体的な人に、つまりカトリックになりたいと自由に望んでいる人たち自身とその良心に関わることです。両方とも、神のご計画に協カする望みに基づくもので、相対立する事柄ではなく、緊密に関わり会っています[29]。共通して言えることは、人々とその考え、そして宗教上の富を尊敬し評価することです[30]。例えば、カトリック信者の同僚とか友だちの生活を見て、神の恩恵の助けによって、他のキリスト者がカトリック教会に属することを望むようになることもあり得ます。カトリック信者の友だちは、その人の自由を全面的に尊重しつつ、祈りと言葉でその望みを励ますことになります。こうして誠実な友情が生まれ、打ち明け話が始まります。神が私たちの心に注がれた愛徳から生まれることです。事実、主のみが私たちの心を変えることができるのです。

大局的に見るならば、このようなキリスト者は何も教会を変えたわけでも、教会に戻ったわけでもありません。そうではなく、唯一であり、ペトロの後継者がローマの教座から治め導いている、一、聖、公、使徒継承のキリストの教会に、つまり、それまでは《不完全な》形でつながっていた教会に、《全面的》に属することになったのです。この人にとって、それまで不完全な状態であったのが、完全な状態になったということです。こういう理由で、カトリックになろうとする人たちは時として、《回心》という言い方をしたがらないことがあります。それはある意味当然なことで、実際の回心は洗礼によって始まり、恩恵の新たな後押しで全面的な交わり、我が家、つまりローマを目指して歩み始めるまで続けられた数多くの回心の結果なのです。この気持ちを尊重して第二バチカン公会議は、厳密には初めてキリスト者になる人に当てはめられる《回心》に代わって、《全面的に属する》という言葉を使うことにしたのです。

確かに、この決定はカトリック信者にとっても深い喜びとなりました。皆、全ての人が神と普遍教会の信者たちと完全な交わりに入ることを切に望み、そのために働いているのですから。

真実の対話を始めるために

人間は社会的な存在ですから、人々とつき合い、互いに支え合うことが必要です。こうして困難を乗り越え、努力して造り上げたものを喜び、真理についての知識を高めるのです。神は、他の人々と共に生活せざるを得ないような存在として、また他人から理解され尊敬されることを望む存在として、人間をお創りになりました。このことに関して、パクロ六世の回勅Ecclesiam suam 『エクレジアム・スアム』が公布された頃の手紙で創立者はこう述べられています。「対話はお互いの人となりを認め合うことであり、必然的に、いつも温かく、友情に溢れ、愛徳に満ちた雰囲気のなかでなされるはずです。」[31]

カトリック信者がエキュメニカルな対話において率直で敬意のある態度をとるためには、信仰についての知識を持ち、明解に説明できなければなりません[32]。「対話の前提となる同等性は、対話する双方の同等の人格的尊厳からくるものです。教えの表現や内容に関するものではありません。」[33]それゆえ、カトリック信者にとって非常に大切なことは、各自自分の状況に合わせて、第二バチカン公会議の文書や『カトリック教会のカテキズム』を勉強することです。また他の重要な文書、例えば教理省の『書簡Communionis notio』や宣言『主イエス』をよく読むことです。

他のキリスト者と対話を始めるには、更に、相手が属するキリスト教共同体で受け入れた信仰が持つよいもの一たとえ欠けた部分があるものであっても一を見出す態度がなければなりません。これには形成が必要です。「最もよい対話の秘訣は何であるか知っていますか。それは勉強です。私は教理の親友であって、単なるおしゃべりに親しんだことはありません。ですから、私にとって、知りもしないことに判定を下す態度ほど理解しがいことはないのです。」[34]

勉強から対話が始まります。キリスト信者はいつもお互いに学び合い、知っていたよりも多くのことを評価できるようになります。また相手の信仰の深さに触れて励まされることもあります。例えば、多くのプロテスタント信者の生活に聖書の勉強が根付いていることや、正教会には素晴らしい典礼祭儀があること。逆に多くのプロテスタント信者は、カトリック信者がご聖体を愛し、それを生活の中心に据えていることに魅力を感じていることなどです。聖ホセマリアの仕事の聖化に関する教えは多くのキリスト信者の関心を引き好意を持たれています。このような側面に見られる一致点を再発見することが大事です。ただ愛徳によってのみ違いを克服することができます。「キリスト者の仕事、それは豊富な善で悪を溺れさせることである。それは否定的なキヤンペーンをしたり、何々反対を唱えたりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである。全ての人を、すなわちキリストに付き従う人も、キリストを見放している人や彼を知らぬ人も、理解する心で見ることである。とは言え、理解するとは、不介入や無関心な態度をとることではなく、行動することである。」[35]

パウロ六世は、「話すことに先立って耳を傾けること、更に人の心を理解し尊重することが必要です」[36]と言っておられました。相手が知り理解しようと思っていないようだったら、誰も自分が尊重されているとは感じず、対話する気にはならないでしょう。「キリストの使徒にとって傲慢で横柄な態度ほど相応しくないものはありません。自信過剰と云われる態度です。私たちの教理は、私たちの努力や洞察力あるいは才能の実りではなく、神のみことばであって、私たちに託されたものなのです。それは、私たちが他の人より優れていたからでも、よく準備されていたからでもなく、主が私たちを道具としてお使いになろうとお望みになったからです(…)。更に、私たちの持っている神の真理は人間の知性を遥かに超えたものであると納得しています。その素晴らしさを完全に言い表すことはできません。私たち自身、それを全面的に理解することさえできないほどです。それでも、私たちには神のメッセージを

伝える役目があるのです。」[37]私たちがもともと真理を所有していたのではありませんし、真理が私たちのものでもあるわけでもありません。私たちは真理の協力者になりたいと思っているのです。つまり、「真理と共に働く者」[38]になるのです。真理のうちに真理のために行動しましょう。

キリストの愛徳を持って

「皆さんが自分の立場で教会の使命を果たすためには、キリストの模範を忘れないことが必要です。主のようになり、主のように振る舞わない限り、キリスト者間の本物の対話は実現されません。イエス・キリストに倣おうとするなら自ずと対話に導かれます。その模範自体が、どのように人々と話さなければならないかを教えています。」[39]聖ホセマリアはそこに二つの面を見て取られました。「真理に対する忠実と、人々との友情です。相互に、本物の友情と誠実さと確実さが感じられなかったり、それが信じられなかったりするなら、実りある対話を実現することはできません。」[40]

他の人への愛がないところには本物のエキュメニズムはあり得ず、それだけでは何の実りももたらさない、単なる作戦になってしまいます。「対話は知性と愛徳を表すものです。それが目立ちすぎたり、格式張った雰囲気でなされたり、組織的になされたりするなら、たとえそれが普遍的な愛と、皆との対話を呼びかけているものであっても、そこには真実の友情とキリストの愛徳がないことを示しています。」[41]真実の対話は誠実に友情を望み、人を助け、仕える熱意から生まれ出るものです。「対話を促すのは友情です。それにもまして、仕える精神から生まれるものです。」[42]

カトリック信者はエキュメニズム運動において、兄弟たちのことに心を配らなければなりません。彼らのために祈り、彼らとつき合い、そしてこちらから出向くようにすることです。人間の全ての行動は愛に基づいていなければなりません。聖パウロが何事も愛をもって行いなさい[43]と言っています。それゆえ、相互理解の上に、自発的にわき出る真実の尊敬と愛情が必要です。2002年10月7日、聖ホセマリアの列聖式参列者に対するヨハネ・パウロ二世の謁見が終わったとき、ルーマニア正教会の主教に同伴していた人々はそれを感じることができました。このエキュメニカルな出来事は、ルーマニアの人や彼の多くの人たちに、大きな影響を与えました。その中には、オプス・デイのことをあまり知らない人たち、また、列聖式に参列したレバノンの正教徒たちのように、オプス・デイの使徒職に参加している人たちもいました。

聖人たちの生活は、神が他の教会や教会共同体に属している人たちのなかで実現しておられることを見出させてくれます。「時には、命をなげうってまでキリストのために証を立てる人々の生活の中に、キリストの富と徳のわざを認めることは正しくよいことである。神は常に感嘆すべき者、そのわざのために称えられるべき者である。」[44]このようにキリストのために命を捧げた人々が、出会いのきっかけとなってくれます。「聖性のこの共同のあかしには、唯一の主への忠実を表すものとして、恵みの持つエキュメニカルな力が満ちあふれています。」[45]「キリスト教一致の最も説得力ある形は、おそらく聖人と殉教者によるエキュメニズムです。聖徒の交わりは、私たちを隔てている様々なことよりも雄弁に語ります。最初の数世紀の殉教列伝は聖人崇敬の基礎となりました。教会の息子や娘たちの聖性を宣言し、崇敬することによって、教会は神ご自身に対して最大の敬意を捧げてきました。殉教者において、教会は、殉教とその聖性の起源であるキリストを崇めてきました。後代には、カトリック教会と正教会で今日なお続けられている聖人列聖の習わしに発展しました」[46]

人々に奉仕するための協力を呼び起こす

信条の違うキリスト者が共に力を合わせて活動する状況を創り出したり、他のキリスト者がカトリック教会の活動に協力したりすることは、相互理解を深めるのに役立ちます。そして、神からの光に照らされて、全面的な交わりへの歩みを始めるきっかけにもなるでしょう。このことにおいても、他の場合と同じように「正しい意向が」必要です。「それによって人々の自由と真理そのものを尊重することができるからです。」[47]

社会的な分野での協力は、エキュメニズム活動のために第二バチカン公会議が提案した具体的な道です。属人区の信者も、教会のメンバーとして、それに従わなければなりません。「全てのキリスト者の協力は、すでに彼らを互いに結んでいる結合を活き活きと表現するものであり、しもべであるキリストの姿をより明らかに表すものである。この協力は少なからざる国においてすでに快復されたが、なおいっそう促進されなければならない。特に、社会的または技術的変革が行われている地域において、あるいは、人間の尊厳についての正しい認識を確立するため、あるいは平和の恵みを促進するため、あるいは福音を社会に適用するため、あるいはキリスト教精神をもって学問と芸術を進歩させるため、あるいはさらに、飢餓や災難、文盲や貧乏、住宅難や富の不公平な配分といった現代の社会悪に対して、あらゆる種類の救済策を講ずるために、協力が必要である。この協力によって、キリストを信ずる全ての人は、どうすれば互いに他をよりよく知り、また高く評価することができるか、どうすればキリスト者の一致への道が開かれるかを、容易に学ぶことができる。」[48]

特に西欧の多くの場所で一と言っても残りの世界にも当てはまることですが一、最近ベネディクト十六世が強調されたように「キリスト者が和解と一致の道を決然と勇気をもって進み行く時のみ、世を照らす者としての力を発揮できるでしょう。(…)私たち全員には特別な責任があるのです。(…)こうして、国家間の出会いがより容易になります。さらに、才能の交流が盛んになって、相互理解が深まり、お互いに敬意をもって接するよい機会になります。近代化や世俗化によって始まった、現代の大きな挑戦には一致して立ち向かう必要があると感じています。経験によって私たちは、誠実で兄弟的な対話が相互信頼を築き、恐れや先入観を払いのけ、困難を克服し、落ち着いて建設的な関わりを生み出すことを知っています。」[49]


「私は度々皆さんに、愛に根ざして真理を語るように(エフエソ4,15)、というパウロの言葉を書き送りました。教理を伝える対話はこうあるべきだからです。」[50]社会生活におけるエキュメニカルな《集い》は、《全員》が真理と愛徳の内に歩み、イエス・キリストの善い弟子になるためにあるのです。なぜなら、洗礼を受けている人は《全員》、主から聖人になるよう個人的に呼ばれているからです。これは聖ホセマリアの偉大なメッセージであり、第二バチカン公会議で再確認されたことです。

教会は今、《実践的なエキュメニズム》を必要としていますが、これもまたオプス・デイの精神から生まれ出ることです。それは、人間のあらゆる活動におけるエキュメニズムです。世界の回心のため、キリスト者の友だち、キリストの弟子たち、《神の友だち》のネットワークをあらゆる所に張り巡らしていくようなものです。このネットワクは「沖にこぎ出す」ことであり、信仰を伝える使徒職であり、望ホセマリアが言うように、おびただしい魚がかかり、偶像崇拝者あるいは新偶像崇拝者の男女を救う仕事なのです。漁師たちが、人間的にそしてキリスト者として友情を持って一致してキリストがお命じになったことを果たしているなら、父なる神が愛情をたれて、御子が願われ、そして今は天国で願っておられる全面的な交わりを成就させてくださるでしょう。「一つになるように」、と仰せになったイエスは「世が信じるように」、と付け加えていました。それは網が一杯になるためです。

こうして全てが可能になります。「生きた愛そのものの神と、聖霊と主なるキリストと、そして天の女王であり教会の母であられるマリアとの対話を決してないがしろにしてはなりません。そこで、日々、教えの光を受け、使徒職を望み、救霊の熱意と全ての人に対する細やかな愛徳を燃え立たせるのです。」[51]


[1] ヨハネ・パウロ二世、1995年5月25日回勅『キリスト者の一致』20

[2] ベネディクト十六世、2006年1月26日第三回ヨーロッパ・エキュメニカル集会準備委員会での講演

[3] ヨハネ17,20

[4] 第二バチカン公会議『教会憲章』8参照

[5] ヨハネ17,20

[6] 同上22-23

[7] ベネディクト十六世、2005年8月19日第二十回ワールドユースデイにおけるエキュメヱカル集会での講演

[8] 『鍛』647

[9] ヨハネ・バウロ二世、1995年5月25 日回勅『キサスト者の一致』23

[10] ヨハネ17,21

[11] 教理省、2000年8 月6日宣言『主イエス』17

[12] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』3参照

[13] ヨハネ・パウロ二世、1995年5月25日回『キリスト者の一致』 2

[14] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』3参照

[15] 同上

[16] ヨハネ・バウロ二世、1995年5月25日回勅『キサスト者の一致』12

[17] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』3

[18] ベネディクト十六世、2005年8月19日第20回世界青年の日のエキュメニズムの集いにおける講話

[19] 第二バチカン公会議『エキュニスムに関する教令』4

[20] ヨハネ・パウロ二世、1986年4月13日口一マのシナゴーグでの講演参照

[21] 聖ホセマリア、1975年2月14日団らんのメモ

[22] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』4

[23] ヨハネ・パウロ二世、1995年5月25日回勅『キリスト者の一致』8

[24] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』4

[25]第二バチカン公会議『教会憲章』40参照

[26]第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』7

[27]同上4とヨハネ・バウロ二世1995年5月25日回勅『キリスト者の一致』48

[28]第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』4

[29] 同上参照

[30] ヨハネ・バウロ二世1990年12月7日回勅『救い主の使命』55参照

[31] 聖ホセマリア、1965年10月24 日手紙30

[32] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』9-11参照

[33] 教理省、2000年8月6日宣言『主イエス』22

[34] 聖ホセマリア、1965年l0月24日手36

[35] 『拓』864

[36] パウロ六世、1964年8 月6 目回勅『エクレジアム・スアム』33

[37] 聖ホセマリア、1965 年10月24 日手紙25

[38] 3ヨハネ1,8

[39] 聖ホセマリア、1965 年l0月24目手紙15

[40] 同上20

[41] 同上29

[42] パウロ六世、1964年8 月6 月回勅『エクレジアム・スアム』 33

[43] 1コサント16,14

[44] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』 4

[45] ヨハネ・パウニ二世、1995年5月25日回勅『キリスト者の一致』48

[46] ヨハネ,パヴロ二世、1994 年11月10 日目使徒的書簡『紀元2000 年の到来』 37

[47] 聖ホセマリア、1965 午10月24日手紙28

[48] 第二バチカン公会議『エキュメニズムに関する教令』12

[49] ベネディクト十六世、2006年1月26日第三回ヨーロッパ・エキュメニカル集会準備委員会での講演

[50] 聖ホセマリア、1965年10月24日手紙75

[51] 同上76