福音書のいろいろな場面の中でも次のようなものが強く印象に残っています。たとえば、姦通した女に対するご寛容・放蕩息子のたとえ・迷った羊のたとえ・負債を許された僕のたとえ・ナインのやもめの息子の復活37など。この大奇跡を説明するために、正義に基づく理由はいくらでもありました。何しろ、あの哀れなやもめの一人息子が死んだのですから。彼女にとっては彼だけが生き甲斐であり、老後の面倒も見てくれるはずだったのです。しかしキリストが奇跡を行われたのは、正義によってではなく、お憐れみになったからです。人の悲しみをご覧になって心から同情なさったからなのです。
主の憐れみはなんという安らかさをもたらすことでしょう。「もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」(出エジプト22・27)。これは必ず実現される約束であり招待であります。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4・16)。主の憐れみが私たちを守ってくださるので、聖性の敵は、何も手出しできないでしょう。たとえ自分の弱さや過失によって倒れたとしても、主が馳せつけて私たちを助けてくださることでしょう。「あなた方は、怠慢を避けること、尊大から遠ざかること、敬虔になること、現世の物事の虜にならないこと、はかないものよりも永遠を大切にすることを学んだ。しかし人間的な弱さによって、この滑りやすい世の中をしっかりと歩み続けて行くことは難しいであろう。そこでよい医者は、あなたが方向を見失ったときに備えて手段を与え、憐れみ深い裁判官は赦しへの希望を残してくださったのだ」(聖アンブロジオ)。(知識の香7)