主イエス・キリストは、教えを垂れるとき、たびたび自らの謙遜を模範としてお示しになりました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11・29)。これは、人間が自己の虚無を率直に認めるほかに神の恩寵を引き寄せる道はないという教えです。「私たちのために主は来られた。食べ物を与えるために空腹を覚え、飲み物を与えるために渇きを感じ、不死の体をまとわせるために滅びる人間の肉体を持ち、豊かにするために貧しさのなかに来られた」(聖アウグスティヌス)。
「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」(1ペトロ5・5)と使徒聖ペトロは教えています。いつ、どこででも、聖なる生活を送るには、謙遜に生きる以外に方法はありません。主は、人間を辱めることに喜びをお感じになるのでしょうか。いいえ、そんなはずはありません。すべてを創造し、その存在を保ち支配する御方が、しょげ返る私たちを見たとて、何を得ると言うのでしょう。神は私たちの謙遜をお望みです。主がお満たしになるために、自らを無にする私たちを待っていてくださる。人間的な言い方ですが、私たちの哀れな心に主の恩寵が満ちるのを妨げてはならないと仰せになるのです。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」12、その神が、謙遜であれとお勧めになります。主は、私たちをご自分のものとし、私たちの良い意味での<神化>を実現してくださるのです。(神の朋友97‐98)