普通のキリスト信者は大抵外にいるのでその内的生活は戸外にあります。それは、街で、仕事・家庭・レジャーの時などにおいて、一日中イエスのことを忘れずにいることだと言えるでしょう。日常生活を絶えざる祈りの生活としないとすれば、それは一体何になるでしょうか。あなたを〈神のようにする〉ために導いてくださる神との交わりを求めて、祈りの人となることが必要だとわかったのではありませんか。(...)
最初は困難でしょう。しかし、私たちに対する父としてのあれやこれやのいつくしみに感謝するためにも、神に向かって話しかけるためにも、努力をしなければなりません。そうすれば、気持ちの問題ではありませんが、神の愛も心に触れるように一気にはっきりしてくるでしょう。優しく私たちの後を追われるのはキリストであります。「わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示録3・20)。私たちの祈りの生活はどうでしょうか。一日の間、時にはもっと落ち着いてキリストと語り合いたいと感じることはないでしょうか。後でお話ししますとか、後でこのことについて話し合いましょう、などと申し上げたことはないでしょうか。
主との対話のために時間を決めると、心は大きくなり、意志は強められ、恩恵に助けられた知性は超自然的なことや人間的なことを深く洞察できるようになります。その結果、行いをよりよくし、どんな人とも愛徳をもって親切に交わり、愛と平和のキリスト教的な戦いにおいて、立派な運動選手のように一所懸命に励もうという実践的ではっきりした決心がいつも生まれることでしょう。
心臓の鼓動や脈拍のように祈りは継続的になります。この神の現存なしには観想生活などあり得ません。観想生活がなければキリストのために働くことにもあまり価値がありません。主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしいからです(詩篇126・1)。(知識の香8)