目次
はじめに
誰でも人生において、不当な扱いを受けたり屈辱を味わったりしたことがあるはずです。なかには、それが日常のようになっている人もいます。なにも刑務所のなかだけの話ではありません。職場でも、家庭のなかでも起こりうることです。私たちをいちばん愛してくれるはずの人が、いちばん深く私たちの心に傷をつけることがあります。アラブのことわざにこうあります──鉄の刃よりも深く刺さるのは、家族からの不当な扱いだ──。
誰かに、わざとひどいことをされたとき、私たちはどう反応するでしょうか。たいていの場合、思わずやり返したくなるものです。殴られたら殴り返したくなりますし、悪口を言われたら悪口で返したくなります。しかし、そのような行動はブーメランのようなものです。結局いちばん傷つくのは自分自身です。怒りや憤りにエネルギーを費やし、恨みを持ち続けるのは悲しいことです。しかし、より悲しいのはおそらく、「これ以上傷つきたくない」と思うあまり、心を固く閉ざしてしまうことです。
新しい人生が芽吹くためには、「赦し」という土壌が不可欠です。だからこそ、「赦す」ことをどう実践するかを伝えていくことが大切です。
Ⅰ.「赦す」とはいかなることか
誰かに向かって「あなたを赦します」と言うとき、私たちはいったい何をしようとしているのでしょうか。誰かから受けた不当な仕打ちに対して、自由な意志で反応しているのは確かです。しかし、それは単にその仕打ちを忘れるということではありません。赦しとは、報復を放棄し、無条件で相手にとって最善のことを願おうとする行為なのです。
1. 不当な仕打ちへの対応
まず、「不当な仕打ち」というのは、その人の人生全体を通して見たときに、本質的に有害であると判断されるような出来事のことであると確認しておきましょう。
たとえば、外科医が、感染症から患者の命を救うために、腕の切断手術をしたとします。たしかに、そのことで患者は痛みを感じ、悲しみを覚え、さらには医者に怒りを向けることさえあるかもしれません。しかし、その医者を「赦す」必要はありません。なぜなら、医者は善意で命を救ったからです。
似たようなことは、子どもを育てるときにも起こりえます。子どもにとってつらく思えるようなことが、かならずしもその子にとって害になるとは限りません。良い親なら、欲しがるものを何でも与えるのではなく、子どもに我慢する力を身につけさせようとすることもあります。
ある教師がこう述べています。「私は、生徒たちが今、私のことをどう思っているかはほとんど気になりません。大切なのは、彼らが二十年後、私のことをどう思うかです」。
赦すという行為が意味を持つのは、客観的に見て明らかに理不尽な仕打ちを他人から受けたときだけのことです。
しかし、赦すという行為は、自分がこうむった被害を見て見ぬふりをしたり、甘い言葉のオブラートにくるんでごまかしたりすることではありません。なかには、職場の同僚や配偶者から侮辱的な言葉を投げかけられても、摩擦を避けたい一心で、それをなかったことにしようとする人がいます。いかなる代償を払ってでも平穏を保ち、周囲との調和を守ろうとするのです。嘘をつかれようが、甘く見られて好き放題にされようが、なんら気にしていないように見えることもあります。詐欺や不倫にまで目をつぶろうとする人さえもいます。
しかし、このような態度には危険があります。人として大切にすべき価値そのものに目をつぶってしまうことになりかねないからです。状況によっては憤りや怒りですら、ごく自然で必要な反応となることがあります。赦すとは罪悪に目をつぶることではありません。明らかな不正があったこと自体を否定することでもありません。不正と認めなければ、そもそも赦すべきことなど、なにもないということになってしまいます[1]。
どんなことでも黙ってやり過ごすことに慣れてしまった人は、当面の平穏を手に入れられるかもしれませんが、最終的には大きな代償を支払うことになります。「自分らしく生きる自由」を手放し、胸の奥に不満や葛藤を押し込め、堅固な心の壁を築いてしまうのです。多くの場合、自分の人生がもはや「自分本来のもの」でなくなっていることにすら気づかなくなってしまいます。
理不尽な仕打ちを受け、心に傷が残るのはごく自然な反応です。しかし、直視を避けるなら、その傷を癒やすことはできません。私たちは、自分自身の幸せから、そして本当の自分から永久に逃げ続けることになります。そしてその痛みは静かに、しかし確実に心をむしばんでいきます。
そうした状況から逃れようとして、世界一周の旅に出る人もいれば、まったく別の街に引っ越す人もいるかもしれません。しかし、苦難にはいつか正面から向き合わなければなりません。存在しないふりをした痛みは、いずれ心の裏口から忍び込んできます。心の奥で膿み、やがて消えない心の傷として残ってしまうのです。押し込められた心の痛みは、人を辛辣にしたり、強迫的にしたり、神経過敏にしたり、ときには無感覚にしたりします。そうなると、人の優しさを素直に受け止めることさえ難しくなってしまいます。痛みは悪夢となり、いつまでも心に残り続けることすらあります。
記憶は、本人の意思にかかわらず、いつか必ずよみがえってくるものです。結局のところ、多くの人々が、「あのとき、痛みに対してもっと正面から向き合うべきだった」と気づかされることになります。心の平穏を取り戻すための鍵は、苦しみに正しく向き合うことにあります。
2. 自由意志による行動
赦しは自由な意思で選び取る行動です。「目には目を、歯には歯を」[2]という、よく知られたことわざにしたがって条件反射するのではなく、あえてその反応を拒むことを意味します。憎しみは暴力を生み、暴力は憎しみを正当化します。この悪循環を、赦しは断ち切ってくれます。連鎖反応が広がるのを食い止め、相手をその鎖から解き放つことができるのです。しかしなにより、赦しは自分自身を解放してくれます。自らの意思で怒りや恨みを手放すことに他ならないからです。反射的な反応を避ければ、自分自身にも、新たな一歩を踏み出す機会が開かれます。
侮辱や不当な扱いを乗り越えることは、きわめて重要です。憎しみと復讐心は人の人生をむしばむ毒です。哲学者マックス・シェーラーは、恨みを抱けば「人は自らを毒する」と述べています[3]。恨むとは、誰かに傷つけられた痛みから抜け出すことを拒む行為です。痛みのなかに閉じこもり、過去に縛られ続けることでもあります。不当な仕打ちを繰り返し思い出すことによって、自分で自分の恨みを育ててしまうのです。気づいたときには、すでに自分の人生そのものを台無しにしてしまっています。
恨みは、心のなかの傷を膿ませ、心に深い影を落とし、漠然とした不安や不満を生じさせます。その結果、自分自身でいることにすら居心地の悪さを感じるようになります。もし、自分自身にくつろげないとするならば、世界のどこにも心から落ち着ける場所はありません。つらい記憶がよみがえるたびに、怒りや悲しみが燃え上がります。それがやがて深い絶望につながることもあります。中国のことわざにこんな言葉があります──「人を呪わば穴二つ」。
パトリシア・レイボン(アフリカ系アメリカ人のジャーナリスト)は、著書『初めての白人の友人』のなかで、自身の若い頃、アメリカにおけるアフリカ系住民への抑圧が、白人全体への憎しみを抱く原因になったと述べています——「彼らは暴力をふるい、嘘をつき、自由を奪い、毒を盛り、抹殺してきたからです」[4]。
しかし彼女はやがて気づきます。たとえその憎しみにどれほど正当な理由があったとしても、それは自らのアイデンティティーや尊厳を静かにむしばんでいたのだということに。たとえば、学校で白人の少女から「仲良くしよう」と言われても、その憎しみのせいで心を閉ざしてしまったことがあったというのです。そして少しずつ、白人に謝罪を求めるのではなく、自分自身が憎しみ、白人を一人の人間としてではなく「抑圧者の一員」としてしか見てこなかったことを謝罪すべきだと気づくようになりました。彼女は、自分自身の幸せを妨げていた敵が、自らの内にある偏見と恨みによって育まれていたことを発見したのです。
いつまでも癒えない傷は、私たちの自由を大きく奪ってしまうことがあります。そうした傷があると、自分でも驚くような、過剰で激しい反応をしてしまいます。傷ついた人は、他者を傷つけてしまうものです。多くの場合、そうした人は心を固い殻で覆っているため、冷たく、近寄りがたい印象を与えがちです。けれども、それは本当の姿ではありません。自分を守るために、そうせざるをえないと感じているだけなのです。外からは気丈に見えても、内面では不安を抱え、過去のつらい経験に心を痛めているのです。
傷をさらけだし、それを洗い清めて治すことが解決への道です。自分の内的世界に秩序をもたらすことは、他者を赦すための一歩になります。しかし、その一歩は、きわめて困難で、ときにはどうしても踏み出せないこともありえます。報復は放棄できても、痛みそのものを消し去ることはできません。だからこそ、赦すという行為は感情的な体験と深く結びついてはいても、感情そのものではないことが明らかです。赦しとは、私たちの心の状態に左右されるものではなく、自らの意思によって選び取る行為です[5]。人は、涙を流しながらでも、誰かを赦すことができるのです。
人がこの真に自由な行為を選び取ったとき、苦しみはたいていの場合、その苦さを失い、やがては跡形もなく消えてなくなることさえあります。聖女ヒルデガルトはこう言いました──「傷は真珠に変わる」。
3. 過去の記憶
「時は傷を癒す」というのは、ある意味で自然の理(ことわり)です。とはいえ、「癒す」というよりも、実際には「忘れさせてくれる」ということかもしれません。そのことを「感情の賞味期限」と呼ぶ人もいます[6]。やがて、人は泣くことも、傷つくこともない時を迎えます。これは加害者を赦したというよりは、「生きようとする意志」のほうがまさったことの表れです。どれほど激しいものであっても、一つの心理状態が永遠に続くことは通常ありません。感情の殻を脱ぎ捨てる過程がゆっくり始まります。人生は前に進んでいくべきものです。同じところにとどまったまま、過去に縛られ、受けた傷の影響を引き延ばしてはなりません。痛みのなかに閉じこもっていては、本来の生のリズムが損なわれてしまいます。
記憶は、不満や怒りの温床となることがあります。だからこそ人間にとって、過去にとらわれず、自分に対してなされた不正を忘れる力は、きわめて大切なものです。しかし、それは赦しとはまったく異なるものです。赦しとは、単に「石板の文字を拭い去る(=過去を白紙に戻す)こと」ではありません。赦すためには、加えられた不正や侮蔑の真実を明るみに出す必要があります。真実は往々にして隠蔽され、歪められているからです。なされた悪事はまず正しく認識され、可能な限り償われなければなりません。
それゆえ、記憶を「浄化」することが必要です。健全な記憶は、誠実に生きるための教師となりえます。過去と和解することができれば、経験から多くを学ぶことができるようになります。過去に受けた理不尽な仕打ちを思いだすのは、それが繰り返されるのを防ぐためであり、同時に、それを「赦した記憶」としてとどめておくためでもあります。
4. 報復の放棄
赦しが自由意志の表れであると同様に、その「贈り物」を相手に与えないという選択も、また、ありえます。サイモン・ヴィーゼンタールは、第二次世界大戦中、ユダヤ人として強制収容所に送られたときの体験を、自著のなかで語っています。
ある日、看護師がやってきて、「ついてきてください」と彼に声をかけました。案内された先の一室には、一人の若いヒトラー親衛隊将校が瀕死の状態で横たわっていました。その将校は、ヴィーゼンタールに向かって、自身の家族や、生い立ち、そして、いかにしてヒトラーの協力者となったのかを語り始めました。とりわけ将校の良心を苛んでいたのは、自らが関与したある凶悪な出来事でした。あるとき、彼の指揮下にあった兵士たちが、300人のユダヤ人を一軒の家に押し込め、その建物に火を放ち、全員を焼き殺したのです。「それが恐ろしい行為だったことは、私自身もよく分かっています」と、その将校は語りました。「死を待ちながら過ごすこの長い夜のあいだ、ユダヤ人の誰かにこのことを打ち明け、心の底から赦しを乞いたいと、ずっと願っていました」。
ヴィーゼンタールは、回想をこう結んでいます。「そのとき、私は突然すべてを理解しました。そして、一言も発せずに部屋を後にしました」[7]。また、別のユダヤ人は、こう語っています。「私は、あの責任者たちの誰ひとりとして赦したことなどありません。そして、これからも、自分から進んで赦すことは決してありません」[8]。
赦しは、報復と憎しみを手放すことを意味します。しかし、なかには、まるで傷ついたことなど一度もないかのようにふるまう人もいます。彼らは、悪から目をそらそうとしているのでも、痛みを抑え込もうとしているのでもありません。むしろその逆で、不正や理不尽をきわめて客観的かつ明晰に捉えています。それでも彼らは、心をかき乱されることを自らに禁じているのです。「たとえ我々が殺されたとしても、実際にはなんの害も受けていない」と語ったのは、奴隷出身のストア派哲学者エピクテトスです。こうした人々は、自らの感情を鉄の意思で制御し、すべての出来事を冷ややかで皮肉なまなざしで眺めているのです。
彼らは、自らを他の人間よりも優れた存在とみなし、誰も心の奥に入らせません。内面で他者とのあいだに大きな距離を置いているのです。なにひとつ感情を動かされないなら、抑圧者に対しても非難を向ける必要はありません。「犬が吠えたところで、月がそれを気にかけるだろうか」──これがストア派の態度であり、おそらくは、自らの「寛大さ」という殻に閉じこもって孤高に生きる、アジアのある種の「導師(グル)」たちの態度でもあるのでしょう。彼らは、相手をたやすく「赦す」ことはあっても、その相手に視線すら向けようとはしません。
問題なのは、苦しみを避けようとするあまり、愛することすら手放してしまうことです。愛する者は、つねに小さく、傷つきやすい存在です。人間的であるということは、人生において誰かを深く愛し、そして、深く傷つくことにほかなりません。他人と距離を置き、自分を他者より優れた存在だとみなしてはなりません。他人に何をされてもまったく傷つかないと主張する人にとって、赦しは、そもそも用のないものです。
5. 加害者の人間的尊厳を認めること
赦しは報復の念をいっさい退けることから始まりますが、それは新たな力を手にすることによって可能となります。その力は、自分のつらい体験を相手の評価と切り離し、相手を裁いたり貶めたりすることを避け、心を開いてその声に耳を傾けようとする姿勢から生まれます。
秘訣は、加害者をその行為と同一視しないことです[9]。人間は誰しも、自身の犯した罪よりも大きな存在です。このことを雄弁に語ったのがアルベール・カミュです。彼はナチスがフランスで犯した罪について、彼らに向けた公開書簡のなかでこう述べています。「あなた方が何をしたかに関わらず、私はあなた方を人間と呼び続けます。あなた方が他者に払わなかった敬意を、私たちはあなた方に払い続けようと努めているのです」[10]。いかなる人でも、自らの最悪の過ちを超える価値を持っているのです。
ここで思い出されるのが、19世紀のある将軍にまつわる逸話です。臨終の床で、神父から「敵を赦しましたか」と尋ねられて、彼はこう答えました。「赦すことなど不可能です。全員、処刑してしまいましたから」[11]。
ここで言う「赦し」とは、相手と貸し借りの帳尻を合わせることではありません。なによりもまず、それは内面のありように関わるものです。過去の記憶と平和裡に共存し、いかなる人に対しても敬意を失わずにいることを意味します。たとえ故人であっても、その人固有の人間的な尊厳に目を向けることは可能です。完全に堕落しきった人間など存在しません。誰のうちにも、必ずなんらかの光が宿っているのです。
赦すとは、こう語りかけることです。「いいえ、あなたはそんな人ではありません。私は、あなたの真の姿を知っています。あなたは、本当はもっとすばらしい人です」。私たちは相手のために、あらゆる善きこと、完全な成長、深い喜びがあるようにと願い、心の底からその人を愛そうと努めるべきなのです。
II. 赦すための心の姿勢
ここまで、赦しとは何かについて広く見てきました。ここからは、自分自身を解放し、同時に他者も解放するような行動を選ぶうえで、助けとなる心のあり方について考えてみましょう。
1. 愛
赦すということは、激しく愛することです。ラテン語の動詞「per-donare(赦す)」は、そのことをはっきり示しています。「per」は後に続く動詞「donare(与える)」を強める接頭辞です。したがって「per-donare」は、「惜しみなく与える」、あるいは「自らを余すところなく捧げる」という意味になります。詩人ヴェルナー・ベルゲングリューンはこう言いました。「愛は忠実さによって証明され、赦しによって完成される」。
しかし、誰かに深く傷づけられると、愛することなどほとんど不可能に思えることがあります。そのとき、まず必要なのは、たとえ心のなかだけであったとしても、加害者とのあいだに一定の距離を取ることです。傷口に刃が刺さったままでは、傷は決してふさがりません。まずは刃を抜き、相手のあいだに空間を設けるのです。すると、相手の「顔」が見えてきます。一定の距離を置くことが、心から相手を赦し、その人に必要な愛を与えるための前提となります。
人は、ありのままの自分を受け入れられてこそ、健やかに生き、成長することができます。それは、誰かに心から愛され、「あなたが存在していることは素晴らしい」と言ってもらえるときです[12]。人がこの世界に安心できる場所を見つけるためには、つまり、自尊心をもち、他者との友愛関係を築いていくためには、自分という存在が他者から肯定されていることが不可欠です。この意味において、「愛は、創造のわざを引き継ぎ、それを完成させるものである」と言われてきたのです[13]。
誰かを愛するということは、その人自身の価値や美しさを、その人自身に気づかせてあげることです。愛されるとは、誰かに存在を認められることです。そだからこそ、愛されている人は、相手に本心からこう伝えることができるのです──「私は私であるために、あなたが必要なのです」。
もし他者を赦すことを拒否するなら、それはある意味で、相手が健やかに生き、そして成長していくために必要な「空間」を奪ってしまうことになります。霊的な意味において、私たちはその人を「殺してしまう」ことになるのです。実際、不当で冷酷な言葉や、悪意に満ちた思い、あるいはただ単に赦そうとしない態度だけでも、人を「殺してしまう」ことがありえます。そうなれば、相手は悲しみに沈み、無気力になり、心を閉ざしてしまいます。
キルケゴールは、「必死に自分自身であろうと願っている人の絶望」について語っています。それは、自分自身であろうと懸命に努力しているにもかかわらず、その努力が他者によって妨げられていると感じたときに生まれる絶望のことです[14]。
一方、赦しを与えれば、相手は本来の自分を取り戻し、新たな自由と深い喜びのうちに生きていけるようになるのです。
2. 理解
すべての人は、「自分に値する」以上の愛を必要としている──このことを理解するのは、きわめて重要なことです。人は誰しも、見かけ以上に傷つきやすい存在です。私たちはみな弱く、とくに疲れているときには、過ちを犯しやすくなります。赦すとは、いかなる罪悪の背後にも、傷つきやすく、それでいて、変わることのできる人間がいると信じることです。赦すとは、他者の変化と成長の可能性を信じると言い換えてもいいでしょう。
もし誰かを赦すことが難しいと感じるとしたら、それは相手に完璧さを求めすぎて、過剰な期待を寄せているということかもしれません。哲学者ローベルト・シュペーマンはこう警告しています。「人を完璧なものと思い込むことは、その人を抹殺することにほかなりません」[15]。私たちはみな弱く、しばしば他者を裏切ってしまいます。しかも、自分の行動がどのような結果をもたらすか分かっていないこともしばしばあります。「私たちは、自分たちが何をしているのか、本当には分かっていない」のです[16]。
たとえば、怒っているときには、実際にはそう思っていないことや、意図していなかったことを口にしてしまうことがあります。もし、そうした相手の言葉をすべて真に受け、一日中それにとらわれたり、怒りに任せて発せられた言葉を「分析」し始めたりすれば、果てしない衝突を引き起こすことにつながりかねません。もし誰かの過ちを一つひとつ記録していったとしたら、どんな魅力的な人物でも、ついには怪物のように見えてしまうことになるでしょう。
私たちは相手の可能性を信じなければなりません。そして、私たちがそう信じていることを、本人に気づいてもらう必要があります。自信を与え、その人の持つ可能性にふさわしい接し方をすれば、人は驚くほど大きく変わることがあります。その結果に、私たち自身が驚かされることもあるでしょう。多くの人には、他者をより良い存在へと導く力があります。たとえ人がどれほど大きな過ちや失敗を重ねていたとしても、その人の内にある善きもの、美しいものを信じ、それを伝える力です。賢者の言葉に、こういうものがあります──「相手に善い人になってほしいのなら、その人がすでに善い人であるかのように接しなさい」。
3.寛大さ
赦しには慈悲深く寛大な心が求められます。それは「裁き」の枠を超えることを意味します。しばしば状況は複雑で、単なる裁きでは対処できないことがあります。たとえば、何かが盗まれたなら返すことができますし、壊されたなら修理したり交換したりすることができるでしょう。しかしもし、誰かが片目を失ったり、家族や親友を失ったりした場合はどうでしょうか。それを裁きだけで取り戻すことは不可能です。まさにそのような、罰では損失を埋め合わせることができないときにこそ、赦しが必要とされます。
赦しは、正義や法律の求めるものを否定するのではなく、それらをはるかに超えるものです。赦しは、自由な意志によって与えられる愛の贈り物であり、本来受けるに値しない者に向けられるものだからこそ、無条件であるべきです。真に赦す者は、加害者が自らの行いを悔いていないとしても、何かを求めるようなことはしません。加害者が和解を求めるよりも前に、愛する者はすでにその罪を赦しているのです。
相手の悔い改めは、むろんそれ自体は望ましいことではありますが、赦しの必要条件ではありません。たしかに、相手が赦しを求めてくるときのほうが、赦すことははるかに容易です。しかしこう気づく必要があります──私たちを傷つけた人々は、しばしば「盲点」を抱えており、それによって自らの過ちを見つめ、認めることができないのだ──。
「不純な」仕方で赦すということもありえます[17]。個人的な思惑や目的から赦すという場合です。つまり、「あなたが自分のなした悪に気づくなら、私は赦す」とか、「あなたがこれからよい人間になるなら、私は赦す」といったものです。教育的見地からすれば賞賛に値するかもしれません。しかし、真の赦しとは異なります。真の赦しとはどのような条件も付けずに与えるものでなければなりません。それは真の愛と同じです。「私はあなたを赦します。なぜなら、あなたを愛しているから──たとえなにがあろうとも」。
私たちは、たとえ相手がそれに気づいていなくても、その人を赦せます。赦しとは、相手が赦されたことに気づいていなくても、あるいは、私たちが、なぜ赦す必要があるのかを知らなくても、与えることのできる贈り物なのです。
4. 謙虚さ
他者を赦すには、慎重さと繊細さが求められます。相手がまだ興奮しているにもかかわらず、その場で赦すと伝えることは勧められません。それが「気高い報復」に見えてしまう恐れがあるからです。屈辱感を与えたり、さらなる怒りを引き起こしたりすることもありえます。実際、和解の申し出が非難のように感じられることがあります。「自分が正しかったことを証明し、いかに寛大であるかを示したい」という自己正当化の思いが潜んでいることもあるのです。和解を妨げるのは、相手のかたくなさではなく、私たち自身の傲慢なのです。
さらに、赦しを申し出ることには常にリスクが伴います。その申し出が加害者を不快にさせ、かえって状況を悪化させる可能性もありえます。「赦すということは、自分自身を相手にさらけ出すことです。相手がどのように反応するかは予測できず、再び私たちを傷つける自由を与えることにもなりかねません」[18]。だからこそ、和解を試みるときには、謙虚さが必要なのです。
適切な状況が訪れたとき(そこに至るまでには、かなりの時間がかかることがあるかもしれません)、私たちは相手と冷静な対話を試みることが可能になります。その際には、自分自身の赦しの動機や理由をしっかり伝え、相手の考え方にもじっくり耳を傾けることができるでしょう。注意深く聞くことが大切です。相手が言葉にしなかった思いにまで注意を払い、真意をくみ取る努力が求められます。ときには、「相手の立場になって考えること」、すなわち、相手の視点から状況を見ようとする姿勢が非常に役に立ちます。
赦しは、内面的な強さを必要とする行為です。しかし同時に、謙虚さと相手への敬意も欠かせません。相手を支配したり、侮辱したりしてはなりません。真に純粋な赦しを与えるためには、わずかでも「道徳的な優越性」を示してはなりません。そもそも、そのような優越性は本質的に存在しないのです。少なくとも、他人の心の奥にあるものを裁くことはできませんし、すべきでもありません。対話のなかで加害者を繰り返し非難することも避けるべきです。自分の潔白さをことさらに示そうとする者は、本当の意味での赦しを与えているとは言えません。他者の罪に憤ることは、しばしば自らの罪を覆い隠すための手段にもなります。私たちは「正しい者」としてではなく、「罪を犯す者」として人を赦す必要があります。赦しとは他者に何かを与えること以上に、何かを分かち合うことなのです。
私たちはみな、赦しを必要としています。なぜなら、私たちは皆、ときとして気づかないうちに他人を傷つけてしまうからです。過去のしがらみを解きほぐし、新たな一歩を踏み出すためには、「赦し」が鍵となります。私たち一人ひとりが、自分自身の弱さや過ち(それが相手の間違った行動を引き起こした一因である可能性もあります)を認め、自分のほうから相手に赦しを求めることをためらわないことが大切です。
III. 結びの考察
赦しが本物であるためには、大きな努力が求められます。赦しを求められる状況は、私たち自身の力の限界を試すようなものでもあります。たとえば、加害者が悔い改める素振りをみせないばかりか、私たちを侮辱し、自分の行動は正しかったと信じているとしたら、私たちはそれでも相手を赦せるでしょうか。わが子を殺された母親が、加害者を赦すことができるでしょうか。私たちを人前で徹底的に笑い者にし、自由や尊厳を踏みにじり、欺き、中傷し、さらにはかけがえのないものまで奪った相手を、私たちは本当に赦すことができるでしょうか。
もしかすると、心の底から赦すことなど決してできないのかもしれません。しかしそれは自分の力だけに頼る場合のことです。キリスト者であれば、尽きることのない神の助けに頼ることができます。「私の神とともに、私はいかなる壁でも跳び越えられる」と詩編は高らかに歌い上げています。その壁とは私たちが心のなかに築いてしまった壁のことかもしれません。善き友人の助け、そしてなにより神の恵みがあれば、「赦す」という極めて困難な行為をやり遂げて、自分自身を自由にすることが可能になります。赦しとは、霊的な力の表れであり、魂に安らぎをもたらすものです。それは生きることを肯定し、創造的に歩むことを意味します。
とはいえ、赦しは誰かに強要されるものではありません。被害者には、受けた害を赦す決断をするまで、必要なだけの時間を与えられるべきです。すぐに赦そうとしないからといって、「意地が悪い」「執念深い」と責めることは、かえって被害者の心の傷を深くしてしまうだけです。深く傷ついた出来事をすぐに受け入れるのは、誰にとっても簡単なことではありません。被害者はまず心を落ち着け、自分がまだ赦すことはできないこと、時間が必要であることを受け入れることが求められます。自分本来のリズムに従うことは、大きな助けになります。赦すことが難しいと感じるのは、自分自身であれ他人であれ、驚くようなことではありません。それはごく自然な反応なのです。
もし私たちが赦しの文化を育むことができるならば、共により人間的な世界を築くことができるでしょう。
結びとして、私たちにとって助けとなる言葉を紹介します。
一瞬だけ幸せになりたいなら、復讐しなさい。
いつまでも幸せでいたいなら、赦しなさい[19]。
追悼 ユッタ・ブルクグラーフ(1952-2010)
本稿は、2010年に亡くなったドイツ生まれのカトリック神学者ユッタ・ブルクグラーフ(元スペイン・ナバラ大学教授)によって執筆されたものである。彼女はこの論文を、O.F.オテロ編集による『教育における未来の課題』(マドリード、2004年)に寄稿した。
[1] ヨハネ・パウロ二世は、真の赦しには真理とともに正義が必要とされると指摘している。世界平和の日メッセージ「赦しを与え、平和を受け取る」(1997年1月1日)参照。
[2] マタイ5・38。
[3] マックス・シェーラー、「道徳の構造におけるルサンチマン」(『価値の転倒について(第5版)』所収)(ベルン、1982年)、36頁以降参照。
[4] パトリシア・レイボン、『初めての白人の友人』(ニューヨーク、1996年)、4頁以降参照。
[5] ディートリヒ・フォン・ヒルデブラント、「モラリア」(『ヒルデブラント全集』第9巻所収)(レーゲンスブルク、1980年)、338頁参照。
[6] オーレル・コルナイ、「赦し」(B・ウィリアムズ、D・ウィギンズ編『倫理・価値・現実――オーレル・コルナイ論文選』所収)(インディアナポリス、1978年)、95頁。
[7] シモン・ヴィーゼンタール、『ひまわり──赦しの可能性と限界について』(ニューヨーク、1998年)。[(訳注)「理解」とあるが、ここでは具体的に何を理解したのかは明示されていない。ヴィーゼンタールは後年、この体験を振り返り、「私は正しかったのか、赦すべきだったのか」という問いを残している。つまり、ここでの「理解」は、相手の罪と苦しみを理解したという意味にも、自分がその罪に赦しを与える立場にないと自覚したという意味にも、あるいは赦すこと自体の限界と不可能性を悟ったという意味にも取りうる。多層的な意味を含む暗示的な表現と言わざるをえない。]
[8] プリーモ・レーヴィ、『これが人間か』(バルセロナ、1987年)、186頁。
[9] 憎しみは人に向けられるべきではなく、行為に向けられるべきである。ローマ12・9及び黙示録2・6参照。
[10] アルベール・カミュ、『ドイツ人の友人へ』、58頁。
[11] M. クレスポ、『赦しについて──哲学的考察』(ハイデルベルク、2002年)、96頁。
[12] ヨーゼフ・ピーパー、『愛について』(ミュンヘン、1972年)、38頁以降。
[13] 同書、47頁参照。
[14] セーレン・キルケゴール、『死に至る病』(ミュンヘン、1976年)、99頁。
[15] ローベルト・シュペーマン、『幸福と善意』(マドリード、1991年)、273頁。と
[16] とはいえ、なにも見ようとしない、意志的な盲目もありえるとは言える。ディートリヒ・フォン・ヒルデブランド、『道徳性と倫理的価値認識─倫理的構造問題に関する研究(第3版)』(ヴァレンダー、1982年)、49頁参照。
[17] V. ヤンケレビッチ、『赦し』(バルセロナ、1999年)、144頁。
[18] アメデオ・チェンチーニ、『平和に生きる』(ビルバオ、1997年)、96頁。
[19] エンリケ・ドミンゴ・ラコルデール(ドミニコ会修道士)。