若者たちの質問への教皇からの5つの答

2006年4月6日に行われたローマ・ラッチオの若者との集いにおいて、現代の若者に聖書は何を語るのか、愛するとはどういうことか、科学と信仰は対立しているのか、などの若者たちの問いに教皇聖下は直接答えられた。

◇教皇様、私は聖バルトロマイ教会に属するシメオーネです。21歳で、ローマのラ・サピエンツァ大学で化学工学を学んでいます。

まず、《人間生活の歩みを照らす神の言葉》というテーマで行われる第21回ワールド・ユース・デーにメッセージをお寄せくださったことに感謝します。心配ごとや未来への不安を前にする時、あるいは単に日常生活の中で、自分の疑問への答を見つけるために、神のことばに養われ、キリストをよりよく知る必要性を感じています。イエスが自分の具体的状況にいればどのように振る舞うかとしばしば自分自身に問い掛けますが、聖書が私に語ることをいつも理解できるわけではありません。さらに、聖書は多種多様な人々によって、様々な時代に渡って書かれたと知っていますが、いずれも自分からは遠い出来事です。どうすれば今読む神のことばが私の人生に問い掛けているのだと知ることができるのでしょうか。

◆まず第一の点について触れながら答えましょう。最初に述べるべき点は、聖書は単なる歴史的な書物として ―たとえばホメロスやオビディウスやホラシウスのように―読むべきではないということです。まことに神のことばとして読む、すなわち、神と対話しながら読むべきなのです。初めに祈り、「私に扉を開いてください」と主に話し掛けなければなりません。聖アウグスチヌスは説教の中でたびたびそう述べました。「主が私に何を言われたいのかを見つけるために、みことばの扉をたたきました。」これが重要なことだと私は考えます。聖書は学術的に読むのではなく、祈りつつ、「このページによって私に伝えたいあなたのことばを理解できるよう助けてください」と主に申し上げるのです。

第二の点は、聖書は神の家族との交わりに導いてくれるということです。ですから、聖書を利己的に読むことはできません。もちろん、神との個人的な対話のうちに聖書を一人で読むことは大切なことですが、同時に私たちと共に歩む人たちとの交わりのうちに読むことも大切なのです。《神的に読む》著名な師の助けに委ねることが必要です。たとえば、まことに《神的に読む》人であるマルティーニ枢機卿の多くの著作は、聖書の意味に分け入るための助けとなります。歴史的背景と過去の特徴的な要素とを熟知している彼は、一見したところ古いことばが、いかに現代的な意味を持っているかを説明しようとしています。このような師の助けによって、私たちはもっと理解することができ、聖書をどのように読むべきかを学ぶのです。また一般的には、共に歩む友人たち、どのようにキリストと共に生きるのか、神のことばからどのようないのちが私たちの人生にもたらされるのかを探している友人たちと一緒に読むことが勧められます。

第三の点は、もし聖書を師の助けのもと、道を同じくする友人たちと共に読むことが大切であるならば、旅する神の民である教会と密接に結ばれながら読むことが特別に重要だということです。聖書は二つの主体を持ちます。まずは語りたもう神。しかし、その神は人をそのみことばに巻き込もうと望まれました。イスラム教徒がコーランは神が口ずから現したものであると確信しているのに対して、聖書の特徴は《相乗的》、つまり神と人との協力関係にあると私たちは信じているのです。神は第一の主体としてその民にことばをもって関わられ、人は第二の主体としてあります。聖書記者たちが存在しますが、神のことばによって歩みつつ神との対話を続ける神の民という、永続する主体との継続性があるのです。神に耳を傾けることを通して、神のことばを聞くことを学び、さらにそれを解釈していくこと。こうして神のことばが現在化するのです。なぜなら、人間は死んでいくものですが、神の民という生きた主体は、常に生き、千年期を越えて存在するもの。神のことばを内面に生かす、いつも変わらぬ主体なのです。

このように考えると、聖書の様々な構成が理解できます。ことに《再読》と呼ばれるもの。あるテキストがたとえば100年後に別のテキストにおいて読まれる時に、すでに最初のテキストに含まれていたが以前には理解できなかった点が、完全に分かるようになることです。さらには、またその後の別の時代に再読されて、みことばの別の次元、新たな側面が理解されてきました。こうして、深い継続性の中で再読と再記述が繰り返され、救い主を待ち望む間、聖書が展開され続けてきたのです。そして、キリストの到来と使徒たちの経験によって神のことばは決定的なものとなり、新たな記述をされることはもうないけれども、私たちの理解を深めていくことの必要性は続いています。主は仰せられました。「あなた方が今は持つことができない深さに、聖霊が導いてくれるだろう」

このようなことから、教会の交わりが聖書の生きた主体だと言えるのです。しかし、今もまた主なる主体は神ご自身であり、私たちの手の中にある聖書を通して話し続けておられます。これら三つの点を学ぶべきだと私は考えています。つまり、主との個人的な対話のうちに読む。信仰の経験によって聖書の意味に深く入り込んだ師たちと共に読む。典礼を通してそれらの出来事を現在化してくれる教会の大いなる助けによって読む。この教会を通して主は今私たちに語りかけており、こうして現在の私たちに向かって神が話す場である聖書の中に、より一層入り込んでいくのです。

◇教皇様、アンナと言います。19歳で文学部で学んでいて、カルメル山の聖母教会に属しています。私たちが避けることのできない課題の一つに、愛情があります。愛することの難しさをよく感じます。なぜなら、愛することを利己的なものだと勘違いしやすいからで、ことに様々なメディアが性に関して個人主義的かつ世俗的な見方を押し付けようとしている現代においてはそうです。自由と個人の良心という名のもとではすべてが許されるという風潮です。結婚に基礎を置く家庭というものは、教会が発明したもののように考えられています。結婚前の性交渉を認めないのは、多くのカトリック信者にとっても、理解できない時代遅れのように考えられています。愛情生活において責任ある生き方をしたいと望んでいる者も数多くいることを視野に入れて、神のことばはどんなことを私たちに述べているのかを説明してくださいますか。

◆確かに大きな課題であって、僅かな時間では答えることができませんが、いくつかのことを申し上げましょう。愛を利己的なものとして示すのは誤りだということを、アンナさんが質問の中ですでに答えを出していました。本当の愛とは、自己を捨てて出会いを求めることです。また、彼女が言ったように、消費主義的の文化は、すべてを手に入れるかのように見せて私たちを空っぽにしてしまう相対主義によって私たちの生き方を偽物にしています。しかしながら、その時私たちは神のことばを耳にします。確かにアンナさんが言うように私たちは神のことばが何を述べているかを知りたいと望みます。

聖書の最初のページに、人間の創造について話されたすぐ後、愛と結婚の定義を見いだすことができるのは、とても素晴らしいことだと私には思えます。聖書はこう述べます。「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」つまり、ひとつの存在となるのです。人類最初の場面において、結婚とはどういうものかの預言が私たちに与えられ、その定義は新約聖書においてもまったく同じものです。結婚とは、愛において他者につきしたがい、ひとつの存在、ひとつのからだ、分けられないものになること。愛の交わりから生まれた新しい存在であり、互いをつなぎ、未来を育むものなのです。

中世の神学者たちは、聖書の最初の部分に書かれたこの点をとらえ、人類史が始まる以前の歴史の最初にあたる創造の時に定められたゆえに、婚姻は七つの秘跡の最初のものであると述べました。天地の創造主が定めた秘跡であり、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となりひとつの存在となるという人間存在自身に刻まれた方向性を与えるものなのです。

ですから、婚姻の秘跡は教会が発明したものではありません。人が人として創造されたときに、生き生きとした愛の実りとして生まれたもので、それによって男性と女性が互いに出会い、同時に愛に呼ばれた創造主とも出会うのです。

確かに、人類は罪を犯して楽園から追放されました。現代的な言い方をするならば、すべての文化は人類の罪と過ちによって汚されており、私たちの本性に刻まれた初めの計画は見えにくいものとなりました。実際、文化の中に神のこの最初の計画のかげりが見られます。しかしながら、同時に、人類の文化の歴史を振り返ると、人間はその存在の深みに刻まれた神のこの計画を完全に忘れ去ることがなかったことも明らかです。男女の間の結婚以外の関係は、存在としての人間が置かれた最初の計画と整合性がないと、実際は考えられてきました。このようにして、文化、ことに中心的な文化においては、男女がひとつのからだとなるという一夫一妻制という現実に向けられてきました。このような忠実のもとに、新たな世代が誕生し、文化の伝統を継承し、その継続性のうちにまことの進歩を実現していくことができるのです。

この点についてイスラエルの預言者たちの声に触れて語られた主は、モーセが与えた許可についてこう言われました。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは許した。」原罪の後、心は頑固になりましたが、それは創造主のもともとの計画ではありませんでしたから、他の預言者たちは徐々にはっきりとした形で、最初の形を強調してきました。人類を新たにするため、一夫一妻制に明らかに導くためにそれらの預言者たちを使われた神は、エゼキエルの口を借りて、私たちがこのような呼びかけに応えるためには、石の心ではなく、肉の心、すなわちまことに人間的な心を持たねばならないと述べられたのです。

洗礼を受けることによって、信仰のうちに、神は私たちにこの新しい心を《移植》されます。物理的な移植ではありませんが、このたとえを通してこう言えるでしょう。移植を行った後の臓器は処置が必要であり、《他人の心臓》としてではなく《自分の心臓》として活動するために、新しい心臓のために必要な薬を飲まなければなりません。霊的な《移植》によって神は、創造主と神の召し出しに向かって開かれた新しい心をもって生きることができるようにしてくださいます。その新しい心が本当に《私たちの心》となるためには、的確な処置、適切な薬に頼る必要があります。キリストと教会との交わりに生きることによって、新しい心は《私たちの心》となり、結婚が可能になります。たとえ現代社会において困難に見えたり、不可能に思えたりするとしても、創造主が計画されたように、ひとりの男とひとりの女が排他的に愛しあい、一致した生活をすることは可能なのです。

神は私たちに新しい心を与えてくださいますから、《私たち》のものとなるためにふさわしい処置を受けながら、その新しい心で生きていかなければなりません。このようにして創造主が与えられた形で生きることになり、本当に幸せな生活が生み出されます。実際、他の多くの形が見られる現代においても、創造主によって示された人生と愛に忠実さと喜びをもって生きている多くのキリスト者の家庭を見ることができます。このようにして、新たな人類が広がっていくのです。

最後に付け加えたいのは、スポーツにしろ仕事にしろ、目標に達するためには規律と自己犠牲が必要であるけれども、それこそが成功に貢献するものであり、求める目標への到達の助けとなるということです。人生そのものにおいても同じことで、イエスが示す人間になるためには、自己犠牲が要求されます。しかし、そのような犠牲は否定的なものではなく、新しい心で生きる人となるため、そしてまことに人間的で幸福な人生を生きるための助けなのです。

創造主の計画に沿って生きることを邪魔立てしようとする消費主義的文化が存在するという事実を前にして、カトリック文化の島、オアシスを作り上げていく勇気をもつ必要があります。やがて、それは広大になり、そこで創造主の計画に沿って人々が生きるようになります。

◇教皇様、私はイネリダといって17歳です。バルバリアの聖グレゴリオ教会でガール・スカウトの手伝いをしていて、マリオ・マファイ校で学んでいます。

第21回ワールド・ユース・デーへのメッセージの中で、教皇様は「キリストのことばに根ざした使徒たちの新たな世代が立ち上がることが緊急課題です」と言われましたが、それはとても強いことばであると同時に献身を求めるものであって、怖ささえ感じるものです。確かに私たち自身も新しい使徒になりたいと思いますが、現代が突きつける挑戦状とは何を指しているかを、もう少し具体的に説明していただけるでしょうか。また、新しい使徒たちはどのような者であるべきかについて、教皇様はどのような夢を抱いておられるのですか。言い換えれば、私たちに何を期待しておられるのでしょうか。

◆私たちは皆、主は私たちに何を期待しておられるのかと自問します。現代の大いなる挑戦状 ―バチカンへの定期訪問をする様々な国の司教団、たとえばアフリカの司教たちも同じことを言っていましたが― 、それは世俗主義、つまり世界には《神など存在していない》と思わせるような生き方のことです。神を個人的世界の内側に閉じ込め、客観的な対象としてではなく、ただの感情にしてしまいます。その結果、各自が自分勝手な人生を思い描くことになります。あたかも科学的であるかのように示されるこの見方は、実験によって証明できることのみを価値あるものと見なします。したがって、直接に実験で証明できない神に対して、各自は自分の計画だけを見て、ひいては互いに対立するようになります。この見方は社会そのものに害を与えるのです。このように、実際は生きることができない状況をもたらします。

神が再び私たちの社会に姿を現すようにしなければなりません。これこそが最初の必要です。すなわち、私たちの人生において神に再び登場していただき、私たちが自由やいのちとは何かを決定する自立した存在であるかのように生きないことです。私たちは被造物であって、神によって造られたものであり、その意志に従うことは依存ではなく、私たちにいのちを与える愛の贈物なのだということをはっきりさせるのです。

ですから、まず行うべきは神を知り、日毎深く知り、私の人生の中に神が存在し、神が私を勘定に入れておられることを知ることです。第二点は次のようなことです。もし神が存在していることを認め、私たちの自由は他者との共存における自由であって、何かを打ち立てるためには共通分母を必要とすると考えるならば、その神とは一体何ものか…という問いが湧いてくるということです。実際、暴力的な姿など、多くの誤った姿で神は描かれています。そこから出て来る次なる課題は、私たちのために苦しみを受け、死に至るまで私たちを愛し、そうすることによって暴力に打ち勝った方であるイエスに現れた神を認めることです。

何よりもまず《私たち自身》の人生の中に、生ける神を現さなければなりません。知られざる神、造られた神、考え出された神ではなく、ご自身を、その顔を示された神です。そのようにして初めて私たちの人生は本物になり、まことに人間的なものとなるのであり、結果として本当の人間主義の価値基準が社会において実現されるのです。この点においても、最初の答で申し上げた通り、私たちだけでは正しくまっすぐな人生を築き上げていくのは不可能です。正しくまっすぐな友人たち、すなわち神が存在し、その神と共に歩むことの美しさを知っている人たちと一緒なら可能なことです。また、幾世紀にも渡って話し、動き、共にいてくださった神の現存を示してくれる教会と共に歩むことです。ですから、こう言えるでしょう。神と出会うこと、イエス・キリストに啓示された神と出会うこと、神の家族に属する兄弟姉妹たちという大きな家族において歩むこと、それが私がお話した使徒職の中心的な内容だと思います。

◇教皇様、私はチネチタの聖ヨハネ・ボスコ教会に属するヴィットリオです。20歳で、トル・ベルガータの大学で教育学を学んでいます。

教皇様のメッセージそのものに、神に寛大に応える際、ことに奉献生活や司祭職の道への招きに応える際に恐れを抱かないよう勧めています。恐れるのではなく、決して私たちを裏切らない方に信頼するようにと。ここに集う若者の多くが、あるいはテレビ中継を見ている多くの者が、特別に捧げられた生活によってキリストに従うことを考えていると確信していますが、どの道が正しい道かを見つけるのは簡単なことではありません。教皇様はどのようにしてご自分の道を見つけられたのですか。奉献生活や司祭職に主が呼ばれているかどうかを理解するために、どのような助言をくださいますか。

◆私自身に関することですが、確かに現代とは違う世界で育ちましたが、結局のところ、状況は変わってはいません。一方では、教会に行ったり、神の啓示として信仰を受け入れたり、その啓示に従って生活したりすることが当然という《キリスト教的》雰囲気がありました。しかし、また一方では、ナチス政権があって、「新しいドイツには、司祭も修道者などは必要なくなる。他の仕事を目指せ」と強く述べていました。

しかしながら、まさにあの非人間的でひどい社会制度の中でその《強い声》を聞くにしたがって、逆に司祭の必要性が大いにあることを理解しました。非人間的文化を前にして、主と、聖書と、信仰こそが、私たちに正しい道を示してくれるものであり、私たちはこの道を行きぬく努力をする必要があると考えたのです。

このような状況の中、司祭職への召し出しは私の中で自然に、大きな出来事もなく、育っていきました。さらに、この道は私を二つの点で助けてくれました。両親と主任司祭のおかげで、若い時から典礼の美しさを発見することができたこと。そこに神的な美が現れ、天が開かれるのを感じることができたからです。二つ目は、聖書を通じて神を知ることの美しさに出会ったことです。そのおかげで、神との対話である神学という素晴らしい冒険に足を踏み入れることができたからです。神が共におられ、共に祝われる場である神学と典礼に入り込むという喜びを得ることができたのです。

もちろん、困難にも出会いました。生涯に渡って独身生活を生きることができるのかと自問しました。まだ実践を伴わない理論的な形成しか受けていない人間であった私は、良い司祭になるためには神学を愛するだけでは足りないことにも気付いていました。若者や老人や病人や貧しい人たちなどのために心を砕く必要があり、小さな人々のために小さくならなければならないからです。神学は美しいものですが、言葉と信仰生活における単純さもまた必要なことです。だからこそ、自らに問うていたのです。一方的な単なる神学者になることなく、それらすべてを生き抜くことができるのだろうか。しかし、神ご自身が私を助けてくださいました。ことに、良き友、良き司祭と教師を通して、助けてくださったのです。

質問に戻りましょう。大切なのは私たちの道の途上で示される主の仕草に注意しておくことだと思います。主は、出来事を通して、人々を通して、出会いを通して私たちに語られるのですから、そのすべてに注意しておく必要があるのです。次に、イエスとの友情関係に入り、個人的な付き合いを深めることです。他人や書物を通してイエスは誰かということを知るだけで満足せずに、個人的で深い友情関係に生きなければなりません。そうして初めて、主が私たちに望まれることを発見できるからです。

続いて、自分自身に目を留めて、自分の可能性を見つめる必要があります。一方では勇気と、もう一方では謙遜。信頼と自分を開くこと。友人や教会の方々や司祭や家族などの助けも借りることができるでしょう。主は私に何をお望みなのだろうか。確かにそれはいつでも大いなる冒険です。しかし、その冒険と向かい合う勇気と、共にいてくださる主が見捨てることなく助けてくださるという信頼があればこそ、実現が可能なのです。

◇教皇様、ジョバンニと言います。17歳で、ローマのジョバンニ・ジョルジ校で学んでおり、慈しみの母なる聖マリア教会に属しています。

聖書の啓示と、真理を探求する科学的探究における理論とを、どのように調和させることができるのかをよりよく理解するための助けをお願いしたいのです。頻繁に、科学と信仰は敵対している、科学と技術は同じもの、数学理論によってすべては解明された、世界は偶然の産物である、数学が神の定理を見つけ得ないのは神が存在しないからだ、…といったことを私たちに信じさせようとします。つまり、勉強をするときに、人間の本姓と歴史に刻まれ、すべての物事の中に存在するという神の計画を見つけることは、いつも簡単なわけではありません。ですから、時には、信仰が弱まったり、感情的な行為だけになったりしてしまいます。教皇様、私もすべての若者と同じように、真理に対する飢えを感じています。どのように科学と信仰を調和させることができるのでしょうか。

◆偉大なるガリレオは、神は数学という言葉を使って自然世界という本を書いたと言っていました。彼は神が2冊の本、すなわち聖書と自然世界という二つの本を書いたのであって、自然世界の言語は数学である。それゆえ、数学こそが創造主である神の言葉だ、と確信していたのです。ここで、数学とは何かを考えてみましょう。数学自身は人間が発明した抽象的なシステムであって、純粋にそのものとしては存在しないものです。ですから、いつも具体化した形で扱われる知的システムであって、人類が発明した素晴らしいものです。驚くべき点は、人間が発明したこのシステムは、実際の自然世界を解明するための鍵となっていることで、数学という道具を使い、様々な技術を駆使して、自然世界を我々に役立てることができることです。

人間が発明したことと、宇宙の構造とが一致すること自体、私にとっては信じ難いことです。私たちの手によって発明された数学が、宇宙世界へのアプローチとその利用を可能にしてくれているのです。これはつまり、人間の知的構造と、現実の客観的構造とが一致しているということを示しています。自然界における主観的理性と客観的理性とが同一だということです。私たちが考えたことと、自然界のあり方とのこの一致こそが、ひとつの謎であり挑戦だと私には思えます。なぜなら、究極的には、《ひとつ》の理性が二つの世界を結び付けているのであり、同一の理性を共通の根に持っていなければ、我々の理性はもうひとつの理性を発見することはできないからです。

このような意味で、神そのものを現すことはできないにしても、数学は宇宙の知的構造を私たちに示してくれると思います。最近《カオス理論》ということも言われますが、もしも最初に混沌としたものしかないのであれば、あらゆる技術は不可能になってしまいます。なぜなら、技術が信頼できるのは、数学が信頼できるからだからです。結局のところ自然界の力によって機能することが可能な我々の科学というものは、物質の信頼できる知的な構造を根拠としているのです。

このように、物質の中に主観的な合理性と客観的な合理性があり、それが一致しているのを見ることができます。もちろん、自然法則の枠内において実証することはできない以上、両者が唯一の知性にその起源を持っていることを証明することは不可能です。しかしながら、この二つの知性の背後にあるこの知性の一致が、私たちの世界を実際に現しているのだと思います。そして、知性を使ってこの世に奉仕すればするほど、創造の計画が実現されていくのです。

最後に、根本的な問いかけにたどり着くために、こう言えるでしょう。神は存在するか、しないかのいずれかである、と。この二つの可能性しかありません。すべてのものの起源である創造主たる理性の存在の優位性 ―理性の優位性とは自由の優位性でもあるのですが― を認めるか、それとも非理性の優位性を支持して、この地上におけるすべての役割や私たちの人生は偶然、理性は非理性の産物であるというのか、いずれかひとつです。つまるところ、この二つのいずれかを《試してみる》ことはできませんが、キリスト者の偉大なる選択は理性とその優位性を選択することです。この選択のほうが優れていると私には思えます。なぜなら、すべての事柄の背後に、偉大なる《知性》があり、それに信頼できるからです。

しかしながら、信仰に対する現代の本当の問題は、この世の悪についてでしょう。創造者の理性と悪とはどのように両立されるのかと、私たちは自問します。その時こそ、人となられることによって、その理性が単に数学的なものではなく愛に基づくものであることを示す神を私たちは必要としているのです。選択肢をよく分析するならば、キリスト教的な選択がもっとも理性的活人間的であることが明らかになります。それゆえ、私たちは哲学に、また理性の優位性に基礎を置いた世界観に信頼を置くことができるのであり、その信頼は創造主である理性、すなわち神の愛に向かう信頼でもあるのです。

(最後に、ベネディクト十六世は、代表の若者たちに聖書を手渡して、次のように述べられました。)

注意深く耳を傾けることによって、この聖書が皆さん方の歩む道を照らす灯火と光になりますように。愛する若者の皆さん、どうか神のことばと教会を愛してください。教会は価値ある宝に皆さん方を近づけ、その富を味わうよう助けてくれます。今、聖ペトロの後継者が渡すこのみことばに忠実であってください。聖ヨハネの次の言葉を確信してください。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8,31-32)

(ベネディクト十六世は祝福を与えて、こう締めくくられました。)

今、この集いの終わりにあたって、友なる皆さんに、私の敬愛する前任者であるヨハネ・パウロ二世のことを思い出していただきたいと思います。ヘブライ人への手紙についての説教に従い、私たちもまた、神のことばを私たちに継げ知らせた方を思い出し、その人生の最後に注目し、その信仰の模範に倣いたいと望んでいます。ですから、これから皆さん方のうちの何人かが、ワールド・ユース・デーの最初に託された大聖年の十字架と、サルス・ポプリ・ロマーニ(ローマ市民扶助者)の聖母のイコンとを持ってその墓を訪ねます。どうか、私の巡礼と一致してくださるよう皆さんにお願いします。神様がヨハネ・パウロ二世に、世界中に福音を広めたその偉大な行いに報いてくださるように祈ります。また、教会の力によって、救いのみことばがあらゆる場所に広がり、地の果てにいる人まで届くために、私たちにもあの使徒としての熱意を与えてくださるように祈ります。