慎みを育てる(1) 少年期

人は、自己の内面をより深く知るに従って、慎ましさの感覚に目覚めて行くものです。自分自身を大切にする心(自己に対する尊敬)は、まず、家庭において学ぶものです。この記事が勧める事柄。

Foto: Ana_Rey

慎みとは何か。まず、それは他人に何か私達の個人的なものを他人の目から隠したいと望む恥じらいの感情のように思える。多くの人が、慎みを単にみだらなことに対して反射的に自己をも守ろうとする感情と考え、また慎みを偽善と混同する人もいる。しかし、このような考えは表面的に過ぎる。軽薄な人や内部の世界を持っていない人には、慎みは必要がなくなることを考えれば、この徳のもつ価値がわかるだろう。実際、動物には慎みは無縁である。それだけでなく、慎みは悪いことやみだらなことだけに関するのではない。よいことについての慎みもある。例えば、自分が受けたよい資質を表すことに対する自然の抵抗がそうである。

感情としての慎みは、この上ない価値をもつ。なぜなら、人がプライバシーを持つこと、つまり他人の目から隠すべき何かを持っているという自覚を前提とするからである。しかし、その他にも、この感情から生まれる、慎みという真の徳が存在する。その徳によって、人は自分の内部を、それをちゃんと理解してくれる人にいつどのように表すべきかを学ぶのである。

内部の世界の価値

かくして慎みは深い人間的価値をもつ現実として理解される。つまり、人の最も価値のある部分である、内面を守り、適切な分量で、適切な時に、適切な仕方で、適切な状況の中でそれを表すことができるようになる。そうでなければ、人はぞんざいに扱われる危険にさらされ、あるいは少なくとも自分に値するだけの尊敬を持って扱われない危険に陥る。それどころか、個人的問題としても、慎みは自分を正当に愛するために不可欠な要素である、正しい自己評価を下し、それを保つために必要である。「慎みがあれば、人は正しい価値観に従って、この『自己』を肯定し受け入れる必要性をほとんど『本能的に』表す」と言える(聖ヨハネ・パウロ2世、1979年12月19日の一般謁見)。慎みがないということは、自分が個性もなく重要性もない人間なので、自己の内部には普通の人には隠す価値のあるものがないのだということを示す。

Foto: Jenn Dufrey.

慎みの魅力

慎みという言葉は、―感情であっても徳であってもー 様々な分野で使うことができる。最も厳密な意味においては体を好奇の目から守ることを意味する。最も広い意味にとると、人の内面の他の側面 ―例えば、自分の感情を表すことのそれ― も含む。いずれの場合も、慎みはつまるところ人の神秘と愛を守ると言える(『カトリック教会のカテキズム』2522)。

一般的な原則として、慎みは私達の中にはより個人的なものがあることを他人に認めさせようとする。体を例にとれば、人は、自分だけがもつと考えるよいものを他人に知らせることができる手段(顔、手、視線、ジェスチャーなど)に注意を引かせるが。こう見てくると、衣服はこれらの手段を補完するものであることがわかるだろう。服装によって他人に自分は自分をどう見ているかを知らせ、同時に他人に払うべき尊敬を表すのである。かっこよさと上品さ、清潔さとおしゃれは、慎みの表れであると言えよう。慎みは、周囲の人々に私達に対する尊敬を要求すると同時に彼らに尊敬を払うからだ。逆に言うと、慎みが欠けると、容易に身繕いにかまわず下品な格好をしても平気になる。パドレはいろんな機会に「慎みに気を配り、それを保持するように、また人間の品位を尊重するファッションを創り広げ、真の美しさをないがしろにする空気に抵抗を示すように」励ましている。

両親の模範と家庭の雰囲気

Foto: Xosé Castro.

周知のことだが、教育においてよい模範はいつも決定的な要素である。もし両親が、また祖父母のように同じ屋根の下で暮らす他の大人が、互いに慎ましい仕方で接することができるなら、子供たちは互いに繊細で慎ましい接し方をするのが家族の一人一人が大切な人だからそうするのだと理解する。例えば、両親は子供たちの前に互いの愛情を示すことができるし、そうしなければなら ないが、一定の節度を守るべきことを自覚せねばならない。これに関して創立者は自分の両親が作り上げた家庭の雰囲気を思い出してこう言っている。「彼らは子供の前ではたまにキスをするくらいで軽薄なことはしませんでした。子供たちの前では慎みを保ってください」と。冷たく振る舞うことで夫婦の愛情を隠すと言うことではなく、子供たちに大人らしく品位をもって振る舞う必要性を示すことである。

しかしながら、聖なる慎みの表現はこれだけで終わるのではない。家族の中で生まれる信頼感は、各自の品位を尊重して生活することと両立する(親しき仲にも礼儀あり)。子供たちの前で着替えをしたり下着のままでいたりするような、だらしのない生活態度を許していると、遅かれ早かれ家庭の人間的な格調が低下し、だらしのなさが支配的になる。特に暑い夏には注意が必要である。なぜなら、気候や薄手の着物、あるいは夏期休暇の最中であることなどがかさなって、けじめのない生活に陥る危険が高くなるからである。確かに、季節や場所によって適切な服装は異なるが、いつもきちんとした身だしなみを保つ必要がある。このように努めると、時に周囲の雰囲気とぶつかることもある。しかし、「だからこそ、あなたたちは固有の雰囲気を身につけ、〈自らの調子〉を自然に周囲の社会に与えることのできる形成を受けるべきなのである」(『道』376)。

もし慎みがなによりも内的な世界(プライバシー)の表明と関係があるなら、それを育てるためには人の思いや感情や意向というような精神的な分野まで問題にせねばならないことは当然である。それゆえ、例えば、自分のプライバシーと他人のそれに関することをどう扱うかということにも触れねばならない。例えば、誰かから打ち明けられた話を家族の中でおおっぴらに話したり、噂話に花を咲かせたりすることは教育的ではない。このような会話は正義に反する罪を犯す危険もあるし、子供たちに他人のプライバシーに入り込んでも構わないという誤解を与えることになる。

同じように、メディアを通じて家庭に入ってくるものにも注意が必要である。慎みとの関連では、気をつけるべきことはみだらなことだけではない。なるほど、みだらなことは常に避けねばならないとはいえ、より危険なのは、あるテレビの番組や雑誌において人々のプライバシーを軽々しく侵害することである。ある場合には、報道関係者の持つべき倫理に反する厚かましい仕方で、また別の場合には、キャスター自身が不道徳な振る舞いをし、それで軽薄で不健全な好奇心を満足させようとしたりする。キリスト教徒の両親は、この「プライバシーをねたにして設ける商売」が家庭の中に侵入してこないように手段を講じるべきである。そして、どうしてこういうことを許してはならないかを説明する。「主体性を確立し、むやみに人目にさらされたくない、家庭内の悲喜こもごもはそっと秘めておきたいという正当な望み」(『知識の香』69)を尊重するべきだからだ、と。この種の番組を流すためによく出される言い訳(知る権利、本人の了承があるなど)は、無制限ではない。人間の尊厳から生まれる権利は不可侵であるという制限がある。人の尊厳に不正に損害を与えることは、たとえ本人が承諾していても、決して倫理的に許されるものではない。

小さいときから

慎みの感覚は物心がつく頃に芽生え、その後人は自分のプライバシーを少しずつ発見していく。それに反して幼児は、その時その時の感覚に支配されるままである。そのために、信頼しきった雰囲気の中で、あるいは遊びの感覚の中で、何の邪心もなく簡単に慎みに欠く行動をする。それゆえに、幼児期の初段階では教育の作業は、後に慎みの徳を育むのに役に立つであろういくらかの習慣を身につけさせることにある。例えば、独りで体を洗い、衣服を着ることを学ぶこと。この習慣を身につける練習をしている間に、幼児は兄弟たちの目から隠されているようにすることが大切である。また、可能な限り、着替えをする間は部屋のドアを閉めること、トイレにいるときはドアの鍵をかけるなども心がけるのがよい。

Foto: Riley Alexandra.

これらは良識に属することである(ひょっとしたら悪い意味での自然主義が幅をきかせる社会において忘れがちになっているかもしれない)。また将来本当の徳を身につけるのを助ける生活習慣を形づくっていくことを目的としている。それゆえ、もしあるとき幼児が家の中で慎みのない姿で現れたり走り回ったりするのを見つけるなら、大げさにしかるべきことはないが、かわいいと言って笑ってすませる(これは本人のいないときにするべき)べきではない。そうではなく、優しく注意をして、そのように振る舞うのはよくないことを明らかにするべきである。教育の問題においては、それ自体はつまらないように見えることや、その年代の子供には大した意味を持たないことがあるにせよ、そういったことも含めてすべてが大切である。

それと同時に、子供たちは他人のプライバシーを尊重することも学んでいかねばならない。子供は生まれつき自己中心であるが、他人は自分のためにあるのはないこと、自分たちと同じように優しく扱われるのに値することを徐々に「発見」していく。このゆっくりとした成長は無数の細かいことに具体化される。例えば、部屋に入る前にノックする(当然、答えがあるまで待つ)ことを教える。あるいは大人だけで話があるので、子供たちは外に出るように言われたときは部屋を出て行かねばならないことを説明する。また、他人の部屋のタンスや棚に何があるかを全部調べたいという欲求(小さい子供にはありがち)を抑えることを教えねばならないだろう。このようにして、他人のプライバシーの範囲を尊重することに慣れていき、かつ自分のプライバシーを発見していくのだ。こうして、大きくなってから他人をその人が神の子であるがゆえに尊重するだけでなく、自分もそのよい慎みを持つことができるための土台が据えられる。「人と父なる神の間にある、よいキリスト教徒になろうとするべき子供とその子を腕に抱きしめる聖母との間にあるプライバシーのために霊魂の奥底をとっておこうとするよい慎み」(聖ホセマリア、『ピラールの聖母』)である。