属人区長の書簡(2011年3月)

日々の生活は、神に近付きたいという私たちの望みを神に表すたくさんの機会に満ちています。四旬節は、愛ゆえに努力をするための特別な時であると、3月の書簡で属人区長は述べます。

リンク:ベネディクト十六世、2010年11月4日、『2011年四旬節メッセージ』

愛する皆さん、イエスが私の娘たちと息子たちをお守りくださいますように!

「心からの悔い改めによって、人が神に立ち帰ること以上に神に好まれることはない」[1] 常に特別な現実性を持つ言葉ですが、来週から始まる四旬節の日々にはより一層そうです。教会は、灰の水曜日の典礼において、聖パウロの言葉を用いて、愛情と関心をもって、私たちに語ります。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」[2]

キリスト教的人生観にとって「すべての時は恵みの時、毎日が救いの日と言わなければなりません。しかし、教会の典礼はこのことばを特別な意味で四旬節に当てはめます」[3]と教皇様は述べておられます。これから歩んでいく四旬節の数週間は、主の恩恵に引き寄せられて、より一層主に近づくために特にふさわしい時です。この招きを真剣に受けとめることができるよう、聖霊に助けを願いましょう。そうすれば、聖ホセマリアが書かれたように、これらの日々が「岩の表面を素通りする水のように、私たちの生活に跡形も残さずに」[4]過ぎることはないでしょう。主に申し上げましょう。「できるだけたくさんの教えを吸収し自己を一新します。心を改め再び主に向かって話しかけます。御身がお望みになるように御身をお愛しします、と。」[5]

恩恵に心を開く決心をして、霊的な死から永遠の命へと移る罪人の回心だけを考えてはなりません。この日々は、キリスト者である男女が神により近づき、秘跡にしばしば与ることを通して徹底してキリストの命に生き、祈りの心を育み、人々の霊的物的な向上のために具体的かつ効果的に仕えるという、毎日の変容へ促すものであるのです。ベネディクト十六世はこう説明しておられます。「回心するとは、流行に逆らって歩むことです。それは、『流行』が、一貫性のない偽りの浅薄な生き方である場合です。こうした生き方は、しばしば私たちを捕らえ、支配し、悪の奴隷あるいはつまらない習慣の虜(とりこ)にします。これに対して、人は回心することによって、キリスト教的生活の高い基準を目指します。私たちは生きた人格となった福音であるキリスト・イエスへと身をゆだねます。」[6]

主は教会の中に、キリスト者としての生活に不可欠である一人ひとりの継続した回心を後押しするために、数多くの道と方法を与えられました。聖ホセマリアの言葉を通して、この霊的変化は忍耐強く、時には一日の間に何度も実行しなければならないものであることを思い起こしましょう。「やり直すって?そうだ。痛悔の行為をする度に ―実は、毎日、幾度となく痛悔すべきなのだが―、その度にあなたはやり直したことになる。痛悔するごとに、再び神を愛し始めるからである。」[7] 神が今この時、私たちを待っておられる、ということを度々考えていますか。主は私に何をお望みなのかを、立ち止まって考えていますか。イエス・キリストにより一層近づく熱意に動かされていますか。

ところで今、至聖三位一体と親しく付き合うための特別な幾つかの手段についてあらためて話したいと思います。それは、多くのところで四旬節中に行われる、年の黙想会についてです。もちろん、黙想会は四旬節中にだけ行われるものではありません。しかし、この時節の典礼は、生活の改善が急務であるという呼びかけを通して、多くのキリスト者がこの手段に参加するよう促しています。同じことは、オプス・デイが世界中で多くの人たちに提供している霊的形成の手段の中でも重要な、月の黙想会についても言えます。

聖ホセマリアは、この霊的な習慣が教会においては初めの頃から普通に行われていたことに注目させました。いつでも、人は何かの使命のために準備する時、あるいは、単に恩恵の働きかけに対して寛大な献身で応えることが急務であることに気付いた時、主との付き合いをより深いものにしようと努めてきました。「初代信者は、既に黙想会をしていました。キリストの昇天後、使徒と信者たちの大きなグループが、最後の晩餐の高間に聖母と共に集まり、イエスが約束された慰め主の降臨を待っていたのが分かります。聖霊は、彼らがperseverantes unanimiter in oration(使徒言行録1,14)心を合わせて熱心に祈っていたところに降ったのです。

初代キリスト者たちも同じように振る舞いました。他の人々の生活から離れることなく、自分の家で神に自己を捧げていました。隠遁者たちは荒れ野に逃れ、孤独のうちに神とだけ相対して…、そして、労働に向かいました(…)。誠実に自分の霊魂のことを気遣う全てのキリスト者は、それぞれのやり方で黙想会をしていたのです。それが、キリスト者としての一つの実践だったからです。」[8]

創立者はオプス・デイ草創期から、活き活きとした内的生活を続けるために不可欠である、祈りと糾明のためだけに専念するこのひと時を非常に大切にしていました。ある時、「この黙想の日々にあなたと私は何をするのでしょうか」と自問し、こう答えられました。「主と深く付き合うこと。ペトロのように、主との親密な語り合いを続けるために、主を捜し求めること。語り合いと言っていることに注意して下さい。匿名のうちに過ごすのではなく、向かい合った二人の会話です。私たちには、このような個人的な祈りと親密さ、主なる神との直接の付き合いが必要なのです。」[9]

ベネディクト十六世は、教皇職の初めに、黙想の日々を送ること、「特に完全な沈黙のうちに過ごすもの」[10]をあらためて勧められました。伝統となっている今年の四旬節メッセージにおいて、第2主日の福音書で読まれる主の変容に言及されて、こう強調されています。「これは神の存在に浸るために、日常の喧騒から離れるようにとの招きです。主は私たちが善悪を識別している心の奥底(ヘブライ4,12参照)にまで届く言葉を日々伝えようとしておられます。そして、私たちの主に従う決意を強めて下さるのです。」[11]

創立者が「形成と変容」と定義づけたこの手段を実りあるものとするためには、感覚と能力を潜心させることが必要です。これに欠けると、慰め主が心に灯してくださる明かりを見出すことが、そして、イエス・キリストのお側近く従い、その足跡をたどるために具体的に戦う点を示唆するその声を聞くことが、不可能と言えないまでも大変難しくなるからです。

ですから、娘たちよ、息子たちよ、月の黙想会や年の黙想会で、沈黙を守ることを大事にして下さい。もちろん、この形成の手段に与る人々の具体的な状況を考慮すべきです。実際、すでに霊的な事柄に親しんでいる人たちと、キリスト者としての歩みを始めたばかりの人たちとでは違うはずです。福音書の語る忠実で賢明な管理人のように、「時間通りに食べ物を分配する」[12]ことを知らなければなりません。

それゆえ、様々な使徒職の進展とそれに与る人たちのことを考慮に入れて、黙想会を計画する際には、回数を増やすことになるとしても、参加者の具体的な状況を超自然的な観点から見ることです。同じ理由から、創立者がいつも教えられたように、参加者が予想していた人数に満たなかったとしても、また、たった一人だけであったとしても、黙想会やサークルなどを取り止めてはなりません。

要するに、黙想会は『拓』にあるように「潜心の時」でなければならないのです。「神を知り、あなたを知り、進歩するためである。どの点で、どのようにして自らを改めるべきか、すなわち何をすべきで、何を避けるべきかを、見つけるために必要な日々である。」[13] 聖ホセマリアはまた次のようにも言われています。「黙想会の糾明は、毎晩の糾明よりもさらに深く、さらに広範囲にしなければならない。でないと、自己を改善する絶好の機会を失ってしまう。」[14]

四旬節の典礼には、教皇様がメッセージで浮き彫りにされたように、黙想の材料がたくさんあります。第1主日に読まれる、イエス・キリストが荒れ野で誘惑を受けられる場面は、私たちに「キリスト教の信仰はイエスの模範に従い、イエスと一致しながら、『支配と権威、暗闇の世界の支配者』(エフェソ,12)と戦うことを」思い出させます。「この世には悪が働いており、主に近づきたいと望むあらゆる人を絶えず誘惑しているからです。」[15] ですから、この戦いには超自然的な手段に信頼して頼りつつ備えることを考えなければなりません。聖ホセマリアは非常に超自然的な作戦を提案されていました。「内的戦いには巧妙な戦術を使うべきである。毎日の戦いは本陣から遠く離れたところで続けるのだ。

敵は、小さな節欲、毎日の祈り、規則正しい仕事、生活規定など、前線を襲うだろうが、破られやすい城壁にはなかなか近づけない。たまたま城壁にたどりついたとしても、敵は既に疲れ切っているだろう。」[16]

その次の日曜日には、キリストを指して「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」[17]と私たちに仰せになる天の父のみ声を聞くことになります。念祷の時に、主が私たち一人ひとりに仰せになることを聞き取り、それを実行するように、より一層努めなければなりません。そして、秘跡がもたらす恩恵を、また個人的な霊的指導で受けた勧めを、どのように支えにするかを考えるのです。

3月27日の四旬節第3主日の典礼は、「『水を飲ませてください』(ヨハネ4,7)というイエスの問いかけを私たちに示します。(…)全ての人に対する神の熱い思いを表すと同時に『その人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水』(ヨハネ4,14)というたまものへの望みを私たちの心の中に呼び覚まそうとしています。」[18] 主の弟子である私たちは、あらゆるところに主の光と恩恵を届けるよう招かれていることをいつも自覚して、熱心にそのことと取り組みましょう。何よりも、友だちや親戚がゆるしの秘跡に与って神と和解するように手伝い、また、四旬節中の黙想会、あるいは長い黙想会に招くことです。

教会とオプス・デイの保護者である聖ヨセフの祝日が近づいています。オプス・デイにおける主との〈愛の約束〉を、感謝と喜びのうちに19日に更新する準備をし、あらゆる世代のあらゆる立場の多くの人々がオプス・デイにおいてイエス・キリストに従うことを決意するお恵みを、神から獲得してくださるよう信頼を込めて聖なる太祖に願いましょう。

その上、この日は大勅書Ut sitが荘厳に施行された記念日でもあります。これによって、愛するヨハネ・パウロ二世がオプス・デイを属人区として設置され、主が1928年10月2日に聖ホセマリアの心に刻まれた神の望みを実現するために、司祭と信徒が有機的に協力することをお定めになったのです。これこそは、教会の司牧のために必要な道を開くために、聖霊が第二バチカン公会議において望まれた形態なのだということを自覚して、徹頭徹尾忠実である義務が私たちにはあります。

28日は創立者の司祭叙階記念日です。至聖なる三位一体に心を込めて感謝しましょう。私たちひとり一人は、創立者がキリストの司祭職を受けられたことから生まれた子どもなのですから。創立者が寛大に全面的に神のお望みを受け入れなかったなら、教会にオプス・デイは存在しませんでした。オプス・デイの創立は、創立者がサラゴサの神学校時代に自問していた「なぜ私は司祭になるのか」という問いへの答であると同時に、選んだ道を歩み始め、歩み続ける決心をした最も深い理由の基盤となったのです。

あらゆる国で司祭への召し出しが増えるように、創立者の取次ぎを通して願いましょう。忠実で、神を愛し、喜んで人々に仕え、教皇に全面的に忠実で、それぞれの司教と固く一致している司祭を送ってくださるように。またオプス・デイにおいても、主が私たちに求めておられる使徒職の仕事を世話するために必要な司祭が欠けることのないように願いましょう。同時に、全てのカトリック信者が、一人ひとりに神がもたらされた司祭的な魂を育むように、至聖三位一体に執拗に願いましょう。

教皇様とその協力者の方々のための祈りを止めないで下さい。特に、四旬節の第1週目は教皇庁の黙想会がありますから、より熱心に祈りましょう。また、この期間に年の黙想会をする私たちも、この機会を活用しようと思います。この日々に皆さんが霊的に私に付き添ってくれることを、心からの喜びを持って期待しています。私は、神がこの手段を通してもたらされる溢れんばかりの恩恵を、誰一人として無駄にすることのないようにと主に毎日願っていることを、隠すつもりはありません。

心からの愛情を込めて祝福を送ります。

  皆さんのパドレ

†ハビエル

ローマ、2011年3月1日

 [1] 証聖者マキシモ、書簡11。(『毎日の読書』2、75ページ)

[2] 『ローマミサ典礼書』灰の水曜日、第二朗読(2コリント6, 1-2)。

[3] ベネディクト十六世、2010年2月17日、一般謁見の講話。

[4] 聖ホセマリア、『知識の香』59。

[5] 同上。

[6] ベネディクト十六世、2010年2月17日、一般謁見の講話。

[7] 聖ホセマリア、『鍛』384。

[8] 聖ホセマリア、1963年2月25日、説教のメモ。

[9] 同上。

[10] ベネディクト十六世、2005年11月26日、定期ローマ訪問の司教たちへの講話。

[11] ベネディクト十六世、2010年11月4日、『2011年四旬節メッセージ』2。

[12] ルカ12,42。

[13] 聖ホセマリア、『拓』177。

[14] 聖ホセマリア、『道』245。

[15] ベネディクト十六世、2010年11月4日、『2011年四旬節メッセージ』2。

[16] 聖ホセマリア、『道』307。

[17] マタイ17,5。

[18] ベネディクト十六世、2010年11月4日、『2011年四旬節メッセージ』2。