超自然の意向を加えなさい
このように根本にあるのは、働くという行為自体を聖化するということです。しかし、どのように行為を聖化するのでしょうか?それは愛によってです。愛徳によって主と一致しながら行うときです。そしてそれは創立者が『道』おいて言っていた次の言葉を実行することによって実現されます:「あなたの通常の職務に、超自然の意向を加えなさい。そうすれば、仕事を聖化したことになるだろう」(『道』359番)。
この言葉を表面的に理解するなら、それは何か外的・付帯的(extrinsic)なことのように思えます。「意向を加えて、はい完了」と。職務と意向はあたかも2つの異なるものかのようです。例えば「私は『中国のため』という意向を加えて、後はもうどう働こうが、もう仕事は聖化した」と。しかし、そういうものではありません。意向は、何か外側から取り付けたものではなく、内在的(intrinsic)なものです。それでは、仕事が聖化されるために必要な超自然的意向・動機とは何でしょうか?それは神への愛によって、そして他者への愛によって行うことです。
(…)
超自然的動機を本当に目的とするならば(つまりこの仕事において、私が究極目的として神を愛すること、隣人を愛し、隣人に仕えることを探すならば)、私は必然的に良い仕事をし、自己を聖化し、その職務を聖化します。その成果は、私の限界の範囲内において、可能な限り最高のものとなります。もし、神を愛すること、他者に仕えることを目的とするなら、必然的に最も良い仕事をするよう努めます。そして、その結果として、仕事の成果は(…)最良のものになります。それゆえ、創立者が言うように全てが動機に、神を愛し、他者に仕えるという動機にかかっています。
これはとても大切なことです。なぜならこのことは「私はなぜ、そして何のために働くのか?」という決定的な問いかけに答えるからです。仕事の聖化はオプス・デイの精神の中心、蝶番(ちょうつがい)です。ですから時々「なぜ私は働いているのか」と問う必要があります。それはできるだけ早く仕事を片付けて楽になるためでしょうか。それは周囲に評価されるためでしょうか。それは自己満足のためでしょうか。私たちは弱い人間なので、様々な動機が混ざり合っている可能性があります。しかし、根本に戻らなくてはなりません。それは神と一致するため、神に仕え、他者を愛するために物事を行うということです。
意向の正しさはとても重要です。なぜならそれが全てにおいて私たちを導くからです。意向が私たちの行為に価値を与えたり、行為の価値を減らしたりするからです。意向の正しさによって仕事が聖化されます。仕事が外的にうまく行かなかった場合においてでさえ、そのように言うことができます。神への愛と奉仕という強い超自然的な動機を持って働いても、結果が伴わないことがあります。それは例えば、自分が不器用だったからとか、様々な理由がありえるでしょう。とはいえ自分自身を偽り「全ては神の愛のため」と言いながら、実のところ「まぁいいや」と思い、努力をしないこともありえます。本当に超自然の動機を持つなら、力を尽くすのが普通です。もしそうでない場合は、意向を改めることができます。がっかりすることなく、努力しなかったことを認め、戦いに戻ります。神のおかげで、私たちは結果が出なかった仕事も聖化することができます。なぜなら超自然的動機があれば聖化が実現されるからです。超自然的動機、これが全てです。
創立者はある手紙の中で次のように言います:「人間的にも良く出来た仕事を行うこと、職業的・社会的義務をよく果たすこと、これらは神が私たちに任せられた『日常の仕事の聖化』の本質的な部分です」(手紙〈1954年5月31日〉、18番)。聖ホセマリアは仕事の出来に着目します。なぜならそれは意向と不可分の関係にあるからです。もし職務の聖化が超自然的動機にかかっているなら、ある仕事を目的として真剣に取り組むとき、それは必然的に良い仕事をすることに繋がります。それゆえ創立者は、人間的に良く出来た仕事を行うことは本質的な部分であると言うのです。